第58話 どこまで治る
怪物と目が合った時、大和はまだ水の容器を手に持っていた。道の脇に黒い背中が見える。低い場所に伏せていたせいで、近づくまで倒木だと思っていた。頭が上がり、長さの違う四本の脚が身体を持ち上げる。
「荷物を置け。大和は下がれ」
シェルドの声に、大和は容器の口を閉じた。肩から荷物を外して道の端へ置く。その間にも、怪物の顔はこちらへ向いていた。アキトとロウが左右へ開いた。大和が一歩退くと、怪物が走り出した。窪地から這い上がり、まっすぐに道を横切ってくる。左から槍が入った。
アキトに脇を突かれ、怪物が身体を曲げる。そちらへ振り向いた隙に、ロウの槍が前脚へ刺さった。走っていた勢いのまま膝が折れ、黒い身体が地面を滑る。
「まだ離れるな!」
シェルドが反対側へ回り込んだ。怪物はすぐには倒れきらず、片側の脚で身体を起こした。前へ伸ばした爪が空を切る。アキトが退き、ロウが槍を抜いた。傷が閉じ始めていた。槍の通った穴へ周囲の肉が寄り、黒い液が押し出される。大和が見ているうちに、穴は細い線になった。
「脚、戻るよ!」
「見えてる!」
ロウが横へ逃げた。直前までいた場所を怪物の爪が掻く。アキトの槍がもう一度入り、シェルドが大きく踏み込んだ。今度は地面へ倒れた。砂が舞い、道の脇の枯れ葉が身体に巻き込まれる。大和は半歩だけ前へ出て、止まった。いつもなら、もう刃を入れていた。
怪物の脚は動いていたが、身体を持ち上げられずにいた。三人は槍を向けたまま少し離れ、それぞれ息を整えている。ルシアンが大和の隣へ来た。
「どこを見る?」
「手前の前脚。付け根に、まだ傷が残ってるだろ」
ルシアンは少し横へずれ、草の隙間から脚を見た。
「分かった。そっちを見ておく」
「頼む。俺は、立つまでどれくらいか数えてみる」
ルシアンは荷物から記録用の板を出した。大和が小さく数を数え始める。怪物は首を曲げ、口を開いた。土を噛み、脚を伸ばす。爪が地面を掴んだ。数え始めて間もなく、身体が持ち上がった。
「起きる!」
アキトが構え直した。怪物は一度よろめいたものの、すぐに脚を揃えた。さっきまで曲がっていた関節が伸び、こちらへ向く。大和は次に踏み出す脚から目を離さなかった。
◇
何度も同じように倒れたわけではなかった。横へ転がった時には、下になった脚の傷が見えなくなった。首を振ってアキトの槍を弾き、ロウを追って道から外れたこともある。三人が動けば、怪物も向きを変える。大和とルシアンも傷を見失わないように位置を変えなければならなかった。正面に空きができると、怪物は大和へ来ようとした。
大和が退く先へアキトが回り込む。ロウが脚を狙う。その間にシェルドが反対側から身体を崩す。三人の間を通り抜けられず、怪物はまた地面へ倒れた。そのたびに傷が戻った。折れた脚が動き、開いた脇腹が閉じていく。起き上がる前に傷が消えてしまうこともあれば、傷を残したまま走り出すこともあった。
ただ待っていれば見られると思っていた自分は、少し甘かった。
「左、そっちへ回る!」
声を出すと、ロウがこちらを見ずに脚を引いた。そこを爪がかすめる。服には触れなかったが、大和は思わず肩に力を入れた。ロウの槍が突き出される。怪物は前脚を踏ん張ったまま横へ押され、支えきれずに崩れた。
「今の、見たか?」
ロウが息を切らしながら聞く。
「見てた。怪我してない?」
「してない。脚の方だよ。さっきより戻るのが遅い」
大和は怪物へ目を戻した。手前の脚に傷が残っている。最初なら、ロウが槍を引いて構え直す頃には閉じていたくらいの傷だった。今は縁が動いているだけで、まだ奥が見える。隣でルシアンが板に書きつけた。
「大和も見ておいて。同じ脚だ」
頷き、しゃがんで角度を変える。傷は治ろうとしていた。ただ、ゆっくりだった。黒い肉が寄り、しばらく止まり、また僅かに動く。見ているうちに、自分の腹の傷を思い出した。病院の前で、いつものように治るのを待っていた時のことだ。あの時も、何も起きていなかったわけではない。治りかけているのに、身体を動かせるところまで戻らなかった。
「……似てるな」
言葉が漏れた。アキトが大和を見てから怪物の脚へ視線を移した。
「このくらいになると、追ってくるのが遅くなる」
槍を持つ位置を変えながら言う。額から顎へ汗が流れ、声が少し掠れていた。シェルドも肩で息をしている。ロウは一度右手を開き、左手で指を伸ばしていた。
「少し代われ」
シェルドがロウの前へ出た。
「まだ握れる」
「握れるうちに休め。大和、水を渡してやれ」
大和は荷物の所へ戻った。容器を取って振り向くと、ロウは道の端にしゃがんでいた。両手で受け取り、少しずつ飲む。さっきから槍を握り直していた右の掌が赤くなっていた。
「手、痛そうだな」
「いつものことだよ」
ロウは容器を返そうとして、もう一口飲んだ。
「お前が終わらせる時は、ここまで長くならないからな」
「うん」
その言葉に責めるような調子はなかった。ロウは少し離れた怪物を見て、呼吸を整えている。大和もそちらを見た。起き上がりかけた怪物をアキトとシェルドが止めていた。脚は戻りつつあったが、身体を持ち上げるとまた折れるように曲がった。
◇
木々の間から差す光が、道の中央まで伸びてきた。休んだロウが戻り、今度はアキトが下がった。ルシアンも記録の板を置き、槍を持ってシェルドの横へ入った。怪物はもう走れなかった。それでも、大和のいる方へ這おうとした。前脚で土を掻き、後ろの脚を引きずる。その動きに合わせて脇の傷が開き、黒い液が落ちた。ロウが槍を構える。
「手前の脚はまだ駄目だ。反対から来るよ」
大和が言うと、ロウは突こうとしていた位置を変えた。怪物が残った脚を伸ばすところへ槍が入り、身体が横倒しになる。大和は手前の傷を見ていた。最初から追っていた脚の傷は、まだ半分ほど開いている。新しくついた反対側の傷も、すぐには閉じなかった。
「どっちも遅い」
口にすると、ルシアンが間合いを取りながら頷いた。
「こちら側も、さっきから残ってる」
大和は地面に置かれた板を拾った。ルシアンが戻ってきたところで渡すと、彼は今の傷の位置を確かめてから書き足した。
「大きく傷つけた所だけじゃないよな」
「小さい傷も残っている」
「だったら、怪我が大きくて時間がかかってるだけじゃなさそうだ」
ルシアンは怪物へ目をやった。
「最初より遅くなったのは確かだね」
怪物の口が開いた。鳴き声は短く途切れ、前脚だけが動いた。シェルドが足元の土を踏み固め、槍を持ち直す。
「ここから、もう少し見るぞ」
アキトが頷いた。
「普段なら、もう離れてる」
大和は少し息を吐いた。アキトが昨日話していたところまで来たのだ。今なら荷物を背負い直して、この道を先へ進める。怪物が這ってきても、追いつかれる前に離れられるだろう。だが、今日は誰も荷物を取りに行かなかった。ロウが槍の柄を両手で握り直した。
怪物がまた身体を起こそうとする。その動きに合わせ、槍が入った。大きく身体が揺れ、今度は脚を畳んだまま倒れた。大和は思わず右手を握った。それでも、傷は動いていた。
◇
倒れた身体の下に溜まっていた黒い液は、土へ染み込み始めていた。大和はしゃがんだまま、怪物の脇を見ていた。少し前まで開いていた裂け目の端が、薄く繋がっている。
「まだ治ってる」
隣のアキトにも見えるよう、指を差す。
「本当だな」
アキトは槍の穂先を下げなかった。怪物は横たわり、脚も首もほとんど動かしていない。時々、口が小さく開いた。何度も傷を負わせた。自分ならとっくに止めを刺している状態になってからも、アキトたちは続けた。それからしばらく手を止めて見ている間も、傷の一部はゆっくり戻っている。
大和は見上げた。葉の隙間にあった日の位置はもう変わっていた。水の容器を持ったまま怪物と目が合ってから、ずいぶん経っている。
「足りなくなりかけてるなら、このまま止まると思ったんだけどな」
「止まりかけてはいるんじゃないか」
アキトの言葉に、大和は傷へ視線を戻した。
「これでも戻るんだろ?」
「戻った奴はいる。こいつも戻るかは、見てないと分からない」
大和は膝に腕を置いた。回復が鈍るところは、自分にもよく似ていた。その先がどうなるのかは、まだ分からない。少なくとも、目の前の怪物は死んでいなかった。
「いったん手を止めろ。休むぞ」
シェルドが言った。ロウが槍の石突を地面へつき、肩を落とした。唇の端に乾いた白い跡がある。汗を拭おうとした袖も濡れていて、諦めたように腕を下ろした。
「こっちが先に動けなくなりそうだ」
大和は立ち上がり、水と食べ物を取りに行った。
「どっちから欲しい?」
「水」
即答だった。容器を渡すと、ロウは笑う余裕もなさそうな顔で受け取った。少し飲んで息をつき、今度はシェルドへ渡す。大和は食べ物を包んだ布を開いた。乾かした肉と、朝のうちに渡されていた焼き物が入っている。ロウの分を取って脇へ置き、アキトの方へ残りを差し出した。
「俺は見てるから、食べてて」
アキトは怪物と大和を交互に見てから槍を持ったまま腰を下ろした。
「動いたら言えよ」
「うん」
ルシアンは少し離れた所で森の方を見ていた。シェルドがそちらへ歩き、低い声で何かを話す。大和には聞こえなかったが、二人は道の両側へ分かれた。大和は怪物から少し距離を取り、立ったまま脇の傷を見た。後ろでは、ロウが包みを開く音がしていた。水の容器が土へ置かれ、誰かが長く息を吐く。怪物の前脚が僅かに動いた。
「アキト。今、爪が動いた」
すぐ横で槍が上がる。二人で待ったが、脚はそれ以上伸びなかった。土についた浅い筋だけが残っている。アキトは槍を構えたまま、空いた手で食べ物を口へ運んだ。




