第56話 途切れた供給
朝食を終えても、大和はしばらく席を立たなかった。目の前の木皿には、食べ終えたあとのわずかな欠片が残っている。足りないとは思わない。むしろこれで十分だった。以前なら、それほど気にすることでもなかった。食べられる時に食べればいい。ここへ来てからは動くことも多かったし、食事の量を正確に比べたこともない。
だが、一度気になり始めると無視できなくなる。昔の自分は、こんな量で一日動けただろうか。森を歩いて荷物を運び、怪物と戦って傷を負っても、今の身体はほとんど休むことなく動いている。大和は自分の手を見た。見た目は変わらない。
少なくとも、自分にはそう見える。指を握り、開く。それだけなら、二十三歳だった頃の手と何も違わなかった。
「また見てる」
声に顔を上げると、レティが向かい側から大和の手を見ていた。
「最近、よく自分の手を見てるよね」
「そうか?」
「うん」
レティはそう言って、自分の皿を持ち上げた。
「何か変わった?」
「分からないから見てる」
「変わったかどうか分からないのに?」
「見た目じゃ分からないことが増えた」
レティの耳が少しだけ動いた。何か聞こうとしたようだったが、大和が深く考え込んでいるのを見てやめたらしい。
「アビナなら、倉庫のほうにいたよ」
大和は一瞬、レティを見る。
「何でアビナ?」
「今から呼びに行きそうな顔してたから」
そんな顔があるのか。聞こうと思ったが、レティはもう笑いながら席を立っていた。
「外れた?」
「いや」
「じゃ、行ってらっしゃい」
大和は残った水を飲み干してから立ち上がった。自分の身体を調べる。そう決めても、できることはほとんどなかった。傷をつければ治癒速度は分かる。走れば身体能力も分かる。
食事を減らせば、どれだけ動けるかも多少は分かるかもしれない。だが、それで分かるのは結果だけだ。身体の中で何が起きているかまでは分からない。機械のように蓋を開けて確認するわけにもいかない。ならば、外から調べられるものを先に調べるしかない。
あの配管だ。自分が眠っていた設備へ明らかに後から取り付けられていた管だ。以前見つけた時には、何かを供給していた可能性があるというところまでしか分からなかった。だが記録には、生命維持の継続と栄養供給らしい記述があった。もしあれがそのためのものだったなら、どこから来ていたのか。
何を必要として動いていたのか。少なくとも、自分の身体へ何が与えられていたのかを考える手掛かりにはなる。倉庫の前では、アビナが木箱を覗き込んでいた。箱の中には古い金具や、壊れた道具の部品がまとめられている。
「アビナ」
耳がこちらを向いた。少し遅れて顔が上がる。
「大和。これ見てニャ。ドランが捨てるって言ってたやつ。まだ使えそうなのが――」
「施設に行こうと思う」
アビナの言葉が止まった。次の瞬間、目の色が変わる。
「今?」
「今」
「何見るニャ?」
「配管」
箱の中に伸びていた手が、そのまま止まった。
「前の?」
「ああ」
アビナは数秒考えたあと、箱の蓋を閉じた。
「行く」
返事は早かった。大和は少し笑った。
「ドランの部品はいいのか?」
「帰ってから見るニャ」
どうやら優先順位が入れ替わったらしい。二人は最低限の道具と水を持って村を出た。道は以前より歩きやすくなっている。草を刈った跡が続き、柔らかかった場所には枝や石が敷かれている。途中には、水が溜まりやすい場所を避けるための浅い溝まで作られていた。大和は歩きながら、その一つ一つに目をやった。
自分が指示した覚えのないものもある。誰がやったのかはおおよそ分かる。だが、確認する必要はない。必要だと思った誰かがやった。それで十分だった。
アビナは前を歩いたり、急に横へ逸れたりしながら進んでいる。何か珍しいものを見つけるたびに止まりそうになるが、今日は施設のほうが勝っているらしい。大和は後ろからその姿を見ながら、ふと思った。昔なら、この森を一人で歩くこと自体が怖かった。今は別のことを考えながら歩いている。
危険がなくなったわけではない。自分が慣れただけでもない。道があり、人が通り、情報が行き来している。森そのものが少しずつ生活の中へ取り込まれていた。やがて、木々の間に崩れかけた人工物が見えてきた。
大和の足がわずかに遅くなる。何度来ても、ここだけは村とは違う。古い。その言葉では足りないほど古く、自分が眠り、解凍された場所だった。そして今では、別の意味まで加わり始めている。自分の身体に何かが起きた場所。そう考えると、入口の暗がりが以前とは違って見えた。
「大和?」
アビナが振り返っている。
「いや。行こう」
中へ入る。光の届かない場所では、持ってきた灯りを使った。壁は乾いているところもあれば、染みのような跡が残っているところもある。大和は最初に目覚めた時、この中をほとんど見ていなかった。遠くに見えた外の光だけを目指した。
あの時は当然だったと思う。自分がどこにいて、何年が経ち、何が起きたのか何も分からなかった。
そして何より、ここから出られるのか。今は逆だった。外へ向かうのではなく、奥へ向かっている。自分が出てきた場所へ戻り、眠っていた設備の近くまで来ると、アビナは迷わず壁際を這う例の細い管へ向かった。
周囲の構造とは明らかに馴染んでいない。
「やっぱり、これだけ違うニャ」
アビナがしゃがみ込む。
「何が?」
「付け方」
指先が管の固定部分へ触れる。
「こっちは壁の中に入ってる。でもこれは外」
近くにある別の配管を示した。確かに、古い設備の多くは壁や床と一体になっている。設計段階からそこに存在したのだろう。一方、大和の設備へ伸びている管は壁の外側を通っていた。金具で無理に固定し、途中では既存の構造物を避けるように曲げられている。
「後から必要になった」
「たぶんニャ」
アビナは立ち上がると、管を目で追った。
「こっち」
以前は眠っていた設備の周辺しか詳しく見なかった。今回は逆方向へ進む。管は壁際を抜け、隣の区画へ続いていた。途中で一度床近くまで下がり、太い構造物の裏を回っている。アビナが先に入り込もうとする。
「待て」
「通れるニャ」
「崩れてる」
天井の一部が落ち、細かな破片が積もっていた。大和が先に足場を確かめ、体重をかけてみる。沈まない。見上げても、すぐに崩れそうな場所はなかった。
「ゆっくりなら行ける」
二人は順番にそこを抜けた。さらに奥で、管は別の束へ近づいていった。
「ここで繋がってる」
アビナが灯りを近づける。大和も横へしゃがんだ。後付けの管は、そこで古い設備側から伸びる太い管へ接続されていた。最初から用意された接続口ではない。太い管の途中に別の部品を取り付け、そこから枝分かれさせているように見える。
接続部分だけ、周囲より作りが新しい。新しいと言っても、この世界では十分古い。ただ、この施設の他の部分と比べれば明らかだった。
「ここから取ったのか」
「何を?」
「分からない」
大和は管を見つめた。以前、配管の一部に乾いた跡が残っていたことから、液体だった可能性が高い。記録にあった栄養供給とも繋がる。
だが、それだけで決めることはできない。水かもしれない。薬剤かもしれない。複数のものを混ぜていた可能性もある。
「先は?」
アビナが太い管の方向を見る。二人はさらに追った。そこから先は、今まで調べたことのない区画だった。いくつもの機械が並んでいる。大和には用途が分からない。
筒状の容器、そこから伸びる管、弁のようなもの、床に固定された大きな箱、壁へ繋がる太い線があった。
部品の大半は停止し、表面には埃が積もっていた。アビナは一つずつ近づき、触れずに眺めている。
「これ、いっぱい繋がってるニャ」
「ああ」
大和は管の流れを目で追った。一つの容器から直接、自分のところへ伸びているわけではない。複数の設備を経由しているため、何かを送り出すための装置と見るのが自然だった。
そして、そのどれも動いていない。
「これが動いてたとして」
大和は口に出しながら考える。
「ここから何かを送ってた」
「大和のところに?」
「少なくとも、あの後付けの管はそこへ繋がってる」
アビナの尻尾がゆっくり左右に動いた。
「でも、これだけじゃ動かないニャ」
大和も同じところを見ていた。
「そうだな」
大きな箱の側面には、何本もの線が繋がっている。電力なのか、それ以外なのかは分からない。少なくとも容器を高いところへ置いて自然に流しているだけの構造ではない。弁らしきものもある。駆動部らしきものもある。
途中の装置を通さなければ、自分のところまで何かを送り続けることはできなさそうだった。大和はしゃがみ込み、床近くの接続部を見る。完全に停止している。壊れているというより、死んでいる。そういう印象だった。
「施設が止まったあとも、ここだけ動いた可能性は?」
アビナが首を傾げる。
「どうやって?」
その一言で、大和は黙った。そうなのだ。独立した動力や別の供給源が残っているなら分かる。
だが、今見えているのは施設の中の一部だ。大和のためだけに別世界から何かを持ってくる装置ではない。この施設が生きていることを前提にした設備に見える。アビナが奥を覗き込んだ。
「まだ先、あるニャ」
「見る」
さらに調べた。だが結果は変わらなかった。配管はいくつかの設備へ繋がり、最終的には施設内部の供給系統らしき場所へ集まっている。途中に完全に独立した設備は見つからない。別の場所から何かを運び込む仕組みも、今のところ確認できなかった。
大和は一度壁にもたれ、順に考えた。自分は解凍されても目覚めず、生命維持が続けられ、栄養も与えられていた。そのために、標準の設備では足りなくなった。あるいは長期化したことで、別の方法が必要になった。だから、後から管を伸ばした。ここまでは説明できる。
むしろ以前より自然になった。少なくとも途中までは、誰かが自分を生かそうとしていた。家族には連絡がつかなかった。引き受ける者もいなかった。
それでも生命維持を切らず、設備を追加してまで残した。その理由までは分からない。だが、そこで一つの線が繋がった。問題は、その先だ。施設は運用を終えた。
患者が移されて設備も停止し、この場所そのものが捨てられたのなら、供給も止まったはずだ。大和は目の前の機械を見る。
「これじゃない」
アビナが振り返った。
「何が?」
「俺がずっと生きてた理由」
アビナは黙って続きを待った。
「途中までは、これかもしれない。俺が目を覚まさなかった間、何かを送り続けてた。記録とも合う」
大和は後付けの管へ目を向けた。
「でも、施設が止まったら終わる」
「うん」
「これだけ動き続ける理由がない」
アビナは設備をもう一度眺めた。それから小さく耳を倒した。
「じゃあ、そのあと大和は何食べてたニャ?」
「……そこなんだよ」
食べていた。その言葉に、大和は妙な違和感を覚えた。そもそも、眠っている間に口から何かを食べていたはずはない。
眠ったまま、何を使って生きていたのか。身体の中にあったものだけで、どれくらい持つのか。数日ならともかく、数週間、数か月と考えていくと、
数年。そこから先は考えても意味がなかった。正確な時間が分からない。だが、短くないことだけは分かっている。この施設と、後に調べた都市の時間差。
建物の劣化や古い記録。そのどれを見ても、自分が普通の人間の感覚で考えていい期間ではない。大和は自分の腹に手を当てた。今朝の食事を思い出す。
量は少なかった。それでも空腹ではない。偶然なのか、この世界へ来てからの生活に身体が慣れただけなのか、それとも別の理由があるのか。
「大和」
「ん?」
「怖い?」
アビナがこちらを見ていた。不意の質問だった。以前なら、すぐに「分からない」と答えていたかもしれない。大和は少し考えた。今、自分がどう感じているのか。
大和は自分へ続いていた管と止まった機械、そして自分の手を見た。
「少し」
そう答えると、アビナは一度瞬きをした。
「そう」
それだけだった。慰めるでもなく、理由を聞くでもない。アビナはまた機械へ視線を戻した。
「でも、分からないのは気になるニャ」
「そっちはそっちで平常運転だな」
「気にならない?」
「気になる」
「じゃあ同じ」
たぶん違う。だが、大和は否定しなかった。もう少し調べたが、新しいものは見つからなかった。帰ることにした。眠っていた設備の前を通る。
大和は一度だけ足を止めた。ここで目を覚ました時は、施設が壊れたあとに偶然目覚めただけだと思っていた。その認識は何度も変わった。
自分は眠り、解凍されても起きなかった。誰かが生かし続け、そのための設備まで追加した。そして、その誰かもいなくなった。
施設も止まった。それでも、自分はここにいた。大和は右手を持ち上げた。指を曲げる。傷一つない手。
力を込めれば、昔の自分にはできなかったことができる。傷つけば、異常な速さで治る。怪物すら殺せる刃を作る。食事の量まで、昔とは違っているかもしれない。これまで、それらは生きるために便利だった。
だから使った。深く考えなかった。いや、考えないようにしていたのかもしれない。施設の中に答えがあると思っているうちは、自分自身を見なくてもよかった。だが、今見つけた設備は答えではなかった。
少なくとも、最後までを説明する答えではない。供給は途切れた。それでも身体は止まらなかった。大和は手を下ろした。ならば次に調べるものは、もう決まっている。
自分だった。




