第55話 変わった身体
翌朝、大和は食事をしながら自分の手を見ていた。指も爪も皮膚も、見た目は普通だった。
少なくとも、自分にはそう見える。
「何見てるニャ?」
向かいに座っていたアビナが聞く。
「自分」
「見れば分かるニャ」
「最近それ多いな」
大和は手を裏返した。傷はない。昨日、木箱を運んだ時に手の甲を少し擦ったはずだった。
「やっぱり消えてる」
アビナが身を乗り出す。
「何が?」
「傷」
「どこ?」
「もうない」
「じゃあ見えないニャ」
「そうなんだけど」
大和は指で場所をなぞった。昨日の夕方には確かに赤くなっていた。血が出るほどではないが、皮膚は少し剥けていた。
今は跡もない。
「前から治るの早かったニャ」
「うん」
「何で今さら気にするニャ?」
大和は少し考えた。
「今までは便利だと思ってたから」
「便利ニャ」
「そうなんだけど」
怪物に傷つけられても治る。身体から刃を出せる。自分だけが怪物を完全に殺せる。筋力も走る速さも、以前の自分とは明らかに違う。ずっと、それぞれを自分に起きた異常として見ていた。
だが、施設が止まった後も自分が生きていたのだとしたら。別々のことではないのかもしれない。
「これ、戦うための能力じゃないのかもしれない」
アビナが首を傾ける。
「じゃあ何ニャ?」
「俺を生かしてるものの一部」
◇
午前、大和はシェルドとノルアにも話した。
「身体を調べたい?」
シェルドが聞く。
「うん」
「どうやって」
「そこなんだよね」
大和は困った。病院もなければ、血液検査もできず、身体の中を画像で見ることもできない。以前の世界なら、身体の状態を調べる方法はいくらでもあった。
今できるのは、身体を見て触って動かし、記憶にある昔の自分と比較することだけだった。その程度だった。
アビナが言う。
「切って見るニャ?」
「嫌だよ」
「すぐ治るニャ」
「だからって切らない」
「ちょっとだけ」
「絶対やらない」
シェルドがアビナを見る。
「本人が嫌だと言ってる」
「分かってるニャ」
アビナは少し残念そうだった。大和はため息をつく。
「俺の身体、実験道具じゃないからね」
「でも調べたいニャ」
「俺も調べたいけど」
そこは同じだった。
◇
大和は覚えている範囲で昔の身体のことを書き出した。身長、体重、病気になる前の状態、癌が見つかってからの変化。
ほかにも治療、体力、食欲、眠気、痛みについて書いた。
細かいところになると、かなり曖昧だった。
「体重は?」
シェルドが聞く。
「今は測れない」
「前は?」
「最後の方は減ってた」
「どれくらい」
「ちゃんとは覚えてない」
大和は木板を見る。冷凍保存に入る前の身体はかなり弱り、食べる量も筋力も落ちて疲れやすくなっていた。
今は全く違う。怪物と戦い、重い物を持ち、長時間歩くこともできる。
走っても以前ほど簡単には疲れない。この世界で目覚めた直後から、身体能力そのものが以前より高くなっていることは分かっていた。問題は、身体能力が上がったかどうかではない。いつ、何によって、どう変わったのか。それが分からない。
「癌は?」
ノルアが聞いた。大和は止まった。
「それなんだよね」
自分は末期癌だった。だから冷凍保存を選んだ。未来なら治せるかもしれない。その可能性に賭けた。実際、遺跡都市の記録には癌細胞の再生能力を利用した研究が残っていた。
ナノマシン、細胞修復、老化抑制、不老化。自分の身体と関係がある可能性は、すでに考えている。
それでも、今の状態は分からない。
「俺の癌、今どうなってるんだろ」
誰も答えられない。アビナが言う。
「治ったんじゃないニャ?」
「普通ならそう思う」
「違う?」
「分からない」
大和は腹部に手を当てた。痛みも違和感もなく、癌だったことを忘れるくらい何も感じない。
「消えたのか」
少し間を置く。
「残ってるのか」
さらに考える。
「別の状態になってるのか」
シェルドが言う。
「調べられないなら、今は分からない」
「うん」
大和は頷いた。それしかない。
◇
昼、大和は食事をしながら別のことにも気づいた。
「俺、そんなに食べてないな」
アビナがすぐ言う。
「食べてるニャ」
「君と比べたらね」
「アビナは普通ニャ」
「それはどうかな」
横で食べているシェルドは大和より量が多い。体格差はあるが、ロウもよく食べ、レティも動いた日にはかなり食べる。
大和は自分の器を見た。極端ではないが、今の活動量を考えると少ないように思える。
「腹減らないの?」
ノルアが聞く。
「減るよ」
「じゃあ普通?」
「多分」
大和は考えた。空腹にはなるし、食べれば満足する。味も分かり、食事も楽しめる。
そこは普通だった。ただ、以前ほど「食べなければ身体が動かなくなる」という感覚は強くない。
「昨日の昼、食べてなかったニャ」
アビナが言った。大和が見る。
「そうだっけ」
「記録見てたニャ」
思い出す。確かに、気づいたら夕方だった。
「普通に動いてた」
シェルドが言う。大和は少し黙った。一食抜いた程度なら、普通の人間でも動ける。これだけで異常だとは言えない。
「これも保留」
大和は木板へ「食事量。必要量不明」と書いた。アビナが覗き込む。
「分からないこと増えたニャ」
「調べると増えるんだよ」
◇
午後、大和は外へ出て、走ったり止まったり跳んだりしてみた。
腕に力を込める。重い木材を持ち上げる。今さら確認するまでもなく、昔の自分より強い。病気になる前と比べても違う。単に体調が戻ったという程度ではない。
大和は木材を下ろした。
「やっぱり強いな」
シェルドが言う。
「知ってる」
「なら何を見てる」
「変わったことじゃなくて、変わり方」
シェルドが少し考える。大和は腕を見る。
「目覚めた時には、もうこうだった」
「途中は分からない」
「そう」
眠っている間に何かが身体を変えたことは分かる。ただ、その変化が治療として意図されたものなのか、それとも長い時間の中で偶然起きたものなのかは、今のところ判断できない。
「比較する相手が昔の俺しかいないのが困るな」
「それで十分じゃないのか」
「変わったことを見るだけならね」
大和は小さく笑った。その時、木の表面を掴んだ手に痛みが走った。
「あ」
小さなささくれが刺さっている。抜くと、わずかに血が出た。アビナがすぐ近寄った。
「傷ニャ」
「嬉しそうに言わないで」
「見られるニャ」
大和は手のひらを見る。小さな赤い点。
「触るなよ」
「触らないニャ」
全員が見る。
「なんか嫌だな」
大和が言う。
「自分で調べるって言った」
シェルドが返す。
「そうだけど」
少し待つと血が止まり、皮膚が閉じていった。跡が分からなくなるまで、それほど時間はかからなかった。アビナの耳が動く。
「早いニャ」
「うん」
大和は自分の手を見る。今まで何度も確認してきた現象だった。でも今日は、意味の見え方が違う。
「これ」
大和が言う。
「俺が生きてた理由と同じところから来てるのかもしれない」
シェルドが聞く。
「傷が治ることが?」
「傷だけじゃなくて」
大和は胸に手を当てる。
「身体全体を維持してるもの」
壊れた部分を直し、傷を塞ぎ、細胞を保つ。身体能力そのものも変わっている。もしそれらがすべて同じ仕組みによるものなら、施設が止まったあとも身体が生き続けたことと無関係ではないかもしれない。
もちろん、それだけでは足りない。水、栄養、酸素、エネルギーも必要になる。
身体を修復できても、何も取り込まずに生き続けられるわけではない。それでも、大和は口にした。
「施設だけじゃなくて、俺の身体側にも理由がある」
そこは以前よりはっきりした。
◇
少しして、大和は目を閉じた。
「何してるニャ?」
「ちょっと静かにして」
アビナが黙る。大和は自分の身体を意識した。刃を出す時や傷を治す時には、何かを命令しているような感覚がある。
ただし、言葉で細かく操作しているわけではない。必要だと思えば、身体が応える。それをもっと内側へ向けられないか。大和は腹、胸、腕、頭へと順に意識を向けてみた。何かが見えるわけではなく、数字も出ない。
臓器の状態が分かるわけでもない。しばらくして目を開けた。
「……分からない」
アビナが聞く。
「何も?」
「うん」
少し考える。
「いや」
完全に何もないわけでもなかった。一か所にあるのではなく全身に広がり、意識を向けるとぼんやり何かが返ってくるような感覚があった。
「何かある気はする」
「何ニャ?」
「分からない」
アビナが不満そうにする。
「またそれニャ」
「本当に分からないんだから仕方ない」
大和は腕を見た。今のところは「ナノマシン」という言葉が一番近い。ただ、本当にそれを感じているのか、単に身体の感覚を意識しただけなのかは区別できない。
「新しいことはできない?」
シェルドが聞く。大和は少し試してから首を振った。
「できない」
できるのは刃と再生という今までのものだけで、それ以上の反応はない。
「なら無理にやるな」
「うん」
大和もそのつもりだった。
◇
夕方、調べられたことを木板へまとめた。傷の修復は非常に速い。筋力、持久力、運動能力はいずれも以前より明らかに向上している。
食事は必要量が少ない可能性がある。癌は現在の状態が分からない。体内のナノマシンは存在する可能性が高いものの、直接確認できない。
長期生存との関係も、可能性はあるが確定できない。大和は木板を見た。
「全然進んでないように見える」
シェルドが言う。
「でも一つは進んだ」
「何が」
「施設だけ見ても答えが出ないってこと」
大和は自分の手を見る。
「多分、俺の中にも答えがある」
ノルアはしばらく黙ったあと、大和を見た。
「大和」
「何?」
「怖い?」
大和は少し止まった。
「何が?」
「自分の身体」
大和は反射的に「別に怖くない」と答えそうになった。便利で助かっている。怪物とも戦えるし、皆を守ることもできる。
だが、少し考えた。施設が止まり、誰もいなくなったあとも、身体だけは自分の意思と関係なく長い時間を生き続けていたのかもしれない。
「……ちょっと怖い」
自分でも意外なくらい、素直に出た。ノルアは何も言わず聞いている。大和は続けた。
「今まで、ちゃんと怖がってなかった気がする」
「どうして?」
「便利だったから」
大和は手を握る。
「傷治るし。強くなってるし。戦えるし。助かってるから」
だから良いものとして使ってきた。だが、その正体は分からない。いつ身体がこうなり、今もその内側で何が続いているのかも不明だった。
「便利なのと、怖いのは一緒にあっていいんじゃない」
ノルアが言った。大和は少し笑う。
「最近それ多いね」
「何が?」
「二つあってもいいってやつ」
ノルアも少し笑った。
「駄目?」
「いや」
大和は首を振った。
「その方が楽」
◇
夜、大和は自分の腕を見る。目覚めた時に感じた通り、以前より少し痩せているようには見える。それでも、眠りにつく前の自分と大きく違う姿ではない。
髪も皮膚も手も顔も、すべて昔の自分のままに見える。
だからこそ妙だった。昔より明らかに強く、怪物を殺せるうえに傷も治る。長い時間を生きた可能性まである。
施設が止まっても、目覚めるまで生きていた。なのに外から見れば、ただの藤原大和だった。
「俺の身体」
小さく呟く。
「今、どうなってるんだろうな」
答えはない。ただ、次に調べるべきものが施設だけではないことはもう分かっていた。




