第50話 帰る場所
夕方、大和は中継拠点から村へ戻る道を歩いていた。今日は特に大きなことはなかった。交換棚の記録を少し見て、道路の状態を確認して、シェルドと話した。それだけだった。少し前までなら、何も起きなかった一日は珍しかった。
今は違う。怪物と戦わない日がある。遺跡へ行かない日もある。世界の謎を一つも解かないまま、一日が終わる。それでも困らない。
道は続いている。中継拠点では誰かが働いている。村へ戻れば食事がある。大和は歩きながら、少し前を行く者たちの背中を見ていた。途中の分かれ道で、それぞれが別方向へ向かっていく。
最後に残ったのは、大和とノルアだった。
「今日はこっち?」
大和が聞く。
「うん」
ノルアは村へ向かう道ではなく、少し横へ続く細い道を見ていた。
「どこ行くの?」
「少し歩きたい」
「今から?」
「暗くなる前には戻れる」
大和は空を見る。まだ時間はある。
「じゃあ行く?」
ノルアが頷いた。二人で道を外れた。
◇
その道は、以前道路を確認した時に見つけたものだった。大きな道ではない。獣道よりは歩きやすい程度。しばらく進むと森が薄くなり、少し高くなった場所へ出た。木々の向こうに、西側の森が見える。
遠くには、古い建物の一部も見えた。ノルアが倒れた木の幹に腰を下ろす。大和も少し離れて座った。
「ここ知ってた?」
「前に来た」
「一人で?」
「ルシアンと」
「珍しい組み合わせだな」
「そう?」
「二人ともあんまり喋らなそう」
ノルアが少し笑った。
「喋らなくても困らない」
「それは分かる」
風が通る。しばらく誰も話さなかった。大和は遠くを見る。森、道路、その向こうにある遺跡。もっと遠くには、まだ調べていない場所がある。
以前なら、こういう景色を見ると次にどこを調べるか考えていた。今日は特に何も浮かばなかった。
「ヤマト」
「ん?」
「今、どんな気持ち?」
大和がノルアを見る。
「急だね」
「聞きたくなった」
「何について?」
「全部」
大和は少し笑う。
「広すぎない?」
「じゃあ、今」
「今?」
「ここにいる今」
大和はしばらく考えた。
「落ち着いてるかな」
ノルアがこちらを見る。
「それだけ?」
「それだけって」
「今、何考えてた?」
「特に何も」
「じゃあ、気持ちは?」
大和は少し困った。
「だから、落ち着いてる」
「それは状態じゃない?」
「細かいな」
ノルアは何も言わない。大和はもう一度考える。最近起きたこと、自分が目覚めた施設、解凍されていたという記録、覚醒しなかった自分、遺跡都市、人類が作った技術、人口が減っていった世界、そして今の村。
「多分、安心してる」
大和が言った。ノルアが少しだけ頷く。
「何で?」
「村があるから」
答えてから、大和は自分の言葉を聞き直すように少し黙った。
「あと、みんないるし」
ノルアはそれ以上聞かなかった。大和は遠くを見る。少しして、自分から続けた。
「でも、寂しいのもある」
「何が?」
「昔のこと」
自分がいた時代、家、家族、知っていた人たち。いつも見ていた街、仕事、店、電車、スマートフォン。どうでもよかったものまで浮かぶ。
「もう全部ないんだと思うと、やっぱり変な感じする」
「悲しい?」
「……うん」
言ってから、大和は少し驚いた。今まで何度も考えたことだった。昔の人間はもういない。家族もいない。戻ったところで、自分の知っている世界は存在しない。
それは分かっていた。だが、悲しい、と口にしたことはほとんどなかった。大和は自分の手を見る。
「俺、ずっと考えてたんだよ」
「何を?」
「何が起きたのか、とか。何でこうなったのか、とか。どうすればいいのか、とか」
ノルアは黙って聞いている。
「起きた時もそうだった。まずここがどこか考えた。怪物に会ったらどうやって逃げるか考えた。村に来たら、みんなが何者なのか考えた」
大和は少し笑う。
「ずっと考えてるな、俺」
「うん」
「否定しないの?」
「本当だから」
「そうだけど」
また風が吹く。ノルアが聞いた。
「それで?」
「それで?」
「今聞いたのは、考えてることじゃない」
大和が止まる。ノルアは大和を見る。
「今の気持ち」
大和はしばらく答えなかった。考えるなと言われても、それが難しい。何か質問されれば、答えを探し、理由を組み立てる。
それがいつものやり方だった。でも今、ノルアが聞いているのは違う。正しい答えではない。大和は目を閉じ、自分が何を感じているのかを探った。
悲しさも、寂しさもある。そして、怖さもあった。
自分の身体のことを考えると、まだ怖い。これから何が分かるのかも怖い。だが、それだけではない。
「楽しい」
大和が言った。ノルアが少し目を細める。
「今?」
「今も。それだけじゃなくて最近」
道路や水車、中継拠点を作った。失敗もして、みんなに笑われた。アビナに振り回され、レティと川で遊び、シェルドと何度も言い合った。ドランの簡単な言葉に納得させられ、ミナには自分より先に仕組みを作られていた。
そういうものが浮かぶ。
「楽しいんだと思う」
「思う?」
「……楽しい」
今度は言い直した。
「あと、安心する」
村へ戻ると、誰かの声や食事の匂いがする。アビナが何か騒ぎ、シェルドが眉を寄せ、レティが笑っている。ノルアは静かに座っている。それを見た時、特別なことは何も起きていなくても、安心する。
「なくなるのは嫌だな」
大和が言った。
「何が?」
「今の生活」
言葉にした瞬間、少しだけ胸の奥が重くなった。
「村も。みんなも。今やってることも」
大和は苦笑した。
「昔の世界なくなって寂しいって言ってるのに、今の世界もなくなったら嫌って。めちゃくちゃだな」
ノルアは首を傾げる。
「そう?」
「矛盾してない?」
「何で?」
「昔に戻りたい気持ちもある。でも今ここから離れたくない気持ちもある」
「両方あったら駄目?」
大和がノルアを見る。
「駄目じゃないけど」
「じゃあいい」
あっさりしていた。大和は少し笑った。
「ノルアって、たまにすごい簡単にするね」
「難しくする必要ある?」
「俺はしがち」
「知ってる」
「みんな知ってるな」
ノルアも少し笑った。
◇
しばらくして、ノルアが聞いた。
「帰りたい?」
大和はすぐには答えなかった。以前なら、答えはもっと簡単だったと思う。元の世界へ、自分の知っている場所へ帰りたい。だが今は、その言葉の意味が変わっている。
「帰れるなら、帰りたいと思ってた」
「今は?」
大和は森の向こうを見る。
「分からない」
「考えてる?」
「今度は気持ち」
大和が先に言うと、ノルアが少し笑った。
「多分」
大和は言葉を探す。
「昔の場所を見たい」
家があった場所、街、学校、職場。何が残っているのか知りたい。
「でも、それって帰るっていうのかな」
ノルアは黙っている。大和は続ける。
「俺が帰りたい場所って、もうないんだよな」
言ってから、胸の奥が少し痛んだ。それでも、今は前ほど、その言葉だけに押し潰される感じはしなかった。ノルアが聞く。
「じゃあ、帰る場所はない?」
大和は答えようとして止まった。「帰る場所」という言葉を聞いた瞬間、頭に浮かんだのは村だった。森を抜ければ柵が見え、誰かがいて、声をかけられる。昨日も今日も、何度もそこへ戻っている。
「……あるな」
大和が言った。
「どこ?」
ノルアが聞く。大和は少し笑った。
「村」
ノルアも笑った。
「うん」
それだけだった。
◇
日が傾き始め、二人は立ち上がった。来た時と同じ道を村へ戻る。それでも大和は、少しだけ自分の中が静かになった気がした。
何か解決したわけではない。帰れるならどうするのか、これから何が起きるのか、自分の身体が何なのか。何一つ答えは出ていない。それでも、自分が何を感じているかは少し分かった。悲しい。寂しい。怖い。楽しい。安心する。そして、ここを失いたくない。
一つにまとめる必要はない。
「ヤマト」
前を歩いていたノルアが振り返る。
「何?」
「今日は楽しかった」
「俺も」
ノルアは少し考える。
「じゃあ、デート?」
大和が止まった。
「お前まで?」
「アビナが言ってた」
「絶対あいつ全部広めてるだろ」
「違う?」
大和は頭を掻く。
「もう分からない」
「何が?」
「デートの定義」
ノルアが少し笑った。
「じゃあ、分からないままでいい」
「それでいいの?」
「今日は楽しかったから」
ノルアはまた歩き始める。大和もその横へ並んだ。森を抜ける頃、村の方から煙が上がっているのが見えた。夕食の準備だろう。
少し歩けば、誰かの声も聞こえてくる。大和はその方向を見る。昔へ戻ることを考えれば、まだ答えは出ない。だが、今から自分が向かっている場所については、迷わなかった。二人は、そのまま村へ帰った。




