第47話 水
朝、中継拠点へ着いた大和は、入口の横に並べられた水桶を見て足を止めた。いつもより少ない。正確には、桶の数は変わっていないが、中身が減っている。一つは半分ほど、もう一つは底が見え始めていた。
「昨日こんな減ってたっけ?」
近くで記録板を見ていたミナが顔を上げる。
「昨日の夜はもう少しあった」
「誰か使いすぎた?」
「別に」
「じゃあ何で?」
ミナは周囲を見た。道路作業へ出る者たちが道具を準備している。中継拠点へ泊まっていた者もいる。カダへ向かう途中らしい二人組が、入口の近くで荷物をまとめていた。
「人が増えたから」
大和も同じ方向を見る。
「それだけ?」
「それだけ」
単純だった。使う人が増えれば、水も減る。
「じゃあ、もっと運んでくればいいんじゃない?」
ミナはすぐに聞いた。
「誰が?」
大和が止まる。
「……誰か」
「誰?」
「水運ぶ人」
「今も運んでる」
「じゃあ回数増やす?」
「誰が?」
また同じ質問だった。大和は少し考える。村からここまで水を持ってくるだけでも時間がかかる。荷車を使っても、人が必要だ。一日に必要な量が増えれば、その分だけ往復も増える。
「人増やせば」
「道路直す人を減らす?」
「いや、それは困る」
「荷物運ぶ人?」
「それも困るな」
ミナは何も言わない。大和は水桶を見る。
「なるほど」
足りないから増やす。それだけでは済まないらしい。
◇
しばらくしてシェルドが来た。大和はすぐ水の話をした。
「このままだと足りなくなる?」
「今日すぐになくなることはない」
「じゃあ大丈夫?」
「今はな」
シェルドは桶の中を確認した。
「この人数なら補充を増やせば回る。ただ、さらに人が増えれば同じ問題が起きる」
「結局そこか」
「それだけじゃない」
シェルドはミナを見る。ミナが記録板を持ってくる。いくつか数字らしき印が並んでいた。大和にはまだ全部は読めないが、分類されていることは分かる。
「何これ?」
「昨日使った水」
「そんなの記録してたの?」
「昨日から」
「昨日から?」
「減り方が変だったから」
大和は少し笑った。
「俺が気づく前に調べてたの?」
「大和がいなくても減るから」
「それはそうだけど」
ミナが記録板を指す。
「飲む水」
ミナは次の欄を指す。
「料理」
さらに、その次へ指を移す。
「泊まる人」
最後に、別の欄を示した。
「道路」
大和は眉を寄せる。
「道路でも水使うの?」
近くにいたロウが振り返った。
「使いますよ」
「何に?」
「土が乾きすぎてるところ」
「水撒くの?」
「少しだけです。固める時に」
「そうなんだ」
知らなかった。道路を作るとは、石をどけて地面をならすことだと思っていたが、実際には、その日の土の状態によってやることも違う。
「あと道具を洗う」
ロウが続ける。
「泥ついたままにすると傷むんで」
「結構使うな」
「だから最近、こっちで使う分が増えました」
大和は改めて水桶を見る。飲むためだけではない。料理、宿泊、作業、洗浄。怪我をすれば傷を洗うこともある。同じ水でも用途が違う。
シェルドが言った。
「昨日は道路作業から戻った者が、宿泊用の水を使った」
「駄目なの?」
「駄目ではない」
少し間を置く。
「その後、泊まる者が使おうとした時に足りなくなった」
「ああ」
そこで大和にも分かった。水そのものがなくなったわけではない。必要な時に、必要な場所に残っていない。
「じゃあ分ける?」
ミナが答える。
「もう分けた」
「早いな」
建物の横へ案内される。今まで一か所にまとめていた桶が、少し離して置かれていた。札もある。飲用、料理、宿泊、作業。大和は並んだ桶を見る。
「昨日まで一緒だったよね」
「だから困った」
ミナが言う。
「困ったから変えた?」
「そう」
失敗したから変える。難しい理屈ではない。それでも、少しずつ仕組みになっていく。
「でも」
大和は作業用の桶を見る。
「これでも足りなくなったら?」
「補充する」
「誰が?」
ミナが大和を見る。今度は大和も笑った。
「それ決めないと同じか」
「そう」
◇
昼前、ロウたちが道路作業へ出る前に、必要な水の量を確認することになった。
「今日は何人?」
「六人」
「どれくらい使う?」
ロウが少し考える。
「昨日より少ないと思います」
「何で?」
「今日は地面が湿ってるから」
「天気で変わるのか」
「変わります」
大和は記録板へ目を向ける。毎日同じ量を用意すればいいわけではなく、人数、作業、天気、泊まる者の数によってすべて変わる。シェルドがロウへ聞く。
「最低限どれくらい必要だ」
「これくらい」
桶を一つ指す。
「それ以上は?」
「使わなかったら戻します」
「なら、その分だけ最初に分けておく」
「分かりました」
大和は二人の会話を聞いていた。
「毎朝これやるの?」
シェルドが答える。
「毎朝細かく話す必要はない」
「じゃあ?」
「基準を作る」
人数が何人ならこのくらい、泊まる者が何人ならこのくらい、残量がここまで減ったら補充する。そう決めておけば、毎回最初から考えなくていい。
「なるほど」
大和は少し感心した。
「ルール作るんだ」
「大げさなものじゃない」
「でも決まりでしょ」
「そうだな」
シェルドは記録板を見る。
「人が少ないうちは、見れば分かる」
「今は?」
「見ただけでは分からなくなってきた」
大和は周囲を見る。確かに、以前なら、中継拠点にいる者の顔を見れば大体何をしているか分かった。今は違う。誰が泊まり、誰が通過するだけで、誰が道路へ行き、誰がカダから荷物を運んできたのか。大和がすべてを把握しているわけではない。
「人が増えると、こういうの必要になるんだな」
「そういうことだ」
◇
午後、ドランがやって来た。水桶と分けられた札を見てから、大和たちの話を聞いた。
「運ぶのが面倒なんだろ」
「まあ」
大和が答える。
「じゃあ近くから取ればいい」
「近く?」
ドランは中継拠点の裏手を指した。
「少し下ったところに水がある」
「川?」
「細い流れだ」
大和は知らなかった。
「飲める?」
「そのままは知らん」
「知らないのかよ」
「飲む水は村から持ってくればいい」
ドランは普通に続ける。
「洗う水まで運ぶ必要はない」
大和が止まる。
「……あ」
確かに、飲み水と、道具を洗う水。同じである必要はない。
「じゃあ作業用だけ近くの水使う?」
「使えるならな」
シェルドがすぐに言った。
「まず確認する」
「水質?」
大和が聞く。
「それもある。流れが途切れないかも見る」
「雨の時だけとか?」
「その可能性もある」
ドランが少し面倒そうな顔をする。
「見れば分かる」
「だから見に行くんだろ」
シェルドが返す。ドランは何も言わなかった。大和は少し笑った。
◇
中継拠点から歩いて十分ほどの斜面の下に、小さな水の流れがあった。川と呼ぶほどではなく、岩の間から出た水が、そのまま細い溝のように流れている。大和はしゃがんだ。
「こんなのあったんだ」
ロウが答える。
「道路の人は知ってました」
「何で教えてくれなかったの?」
「聞かれなかったから」
またそれだった。大和は苦笑する。シェルドは水の流れを見ている。
「量は多くない」
「でも作業用なら足りる?」
ロウが頷く。
「多分」
ドランは周囲の地形を見る。
「桶を置ける場所を作ればいい」
「ここまで毎回来る?」
大和が聞く。
「今より近い」
確かに、村から運ぶよりは遥かに近い。
「もっと楽にできない?」
大和が言う。ドランが見る。
「何を」
「水を上まで持っていくの」
中継拠点は斜面の少し高い位置にあり、水は下にある。大和の頭には水車や水路、昔の設備などが浮かんだ。しかし、この細い流れでは大きな設備を作るほどでもない。
「桶でいいか」
大和が言った。ドランが鼻で笑う。
「最初からそう言ってる」
「何かもっと便利にできるかなと思っただけ」
「作る方が面倒なら意味がない」
大和は黙った。その通りだった。何でも設備にすればいいわけではない。今必要なのは、十人、二十人程度が使う水。そのために大工事をする必要はない。
「じゃあ」
大和は水辺を見る。
「ここに桶置く場所作って、作業用はここから持っていく」
シェルドが頷く。
「飲み水と料理用は今まで通り村から」
「泊まる人の分も?」
「当面はな」
「減ったら補充」
「そうだ」
ミナが言った。
「残りが二つを切ったら」
「二つ?」
「今の人数なら」
「人増えたら?」
「変える」
大和は少し笑った。最初から完璧な決まりを作る必要はないらしい。今に合わせ、状況が変わったらまた変える。
◇
夕方、中継拠点へ戻ると、水桶には新しい札が付いていた。飲用、料理、宿泊、作業。作業用の桶には、明日から近くの水を使うことも書かれるらしい。ロウが言う。
「これなら村から運ぶ量、結構減りますね」
ミナも頷く。
「多分」
大和は笑った。
「みんな多分って言うようになったな」
「大和が言うから」
シェルドが答える。
「俺のせい?」
「少しは」
「悪影響じゃん」
「便利な時もある」
「褒められてる?」
「多分」
大和は少し笑った。外では、道路作業から戻った者が、今日使った水の量をロウへ話している。宿泊する者の人数をミナが確認している。ドランは明日、水場に簡単な足場を作ると言っていた。シェルドは記録板へ新しい基準を書き加えている。
始まりは、水が減ったという一つの問題だった。ただそれだけのことでも、考えることは一つではない。誰が使うのか、何に使うのか、どれくらい使うのか、どこから持ってくるのか。誰が補充し、なくなる前にどう気づくのか。大和は入口の横へ座った。
「人が増えると、必要な物が増えるだけじゃないんだな」
隣にいたミナが見る。
「何が?」
「決めることも増える」
ミナは少し考えた。
「決めないと困るから」
「そうなんだけど」
大和は水桶を見る。昔、自分がいた社会では、蛇口を捻れば水が出た。誰が水を運ぶかなど考えたこともない。どこから来るのか、誰が管理しているのか、なくなりそうになった時に誰が補充するのか。知らなくても暮らせた。
今は、桶一つでも誰かが運び、誰かが使い、誰かが残りを見る。大和は少し笑った。
「便利って、見えないところで誰かが色々やってたんだな」
ミナは首を傾げる。
「当たり前じゃない?」
「俺の世界だと、当たり前すぎて見えなかった」
ミナはそれ以上聞かなかった。少しして、道路作業へ持っていく桶が一つ、決められた場所へ置かれた。明日の分。それを見ながら、大和は考えた。社会を作るというのは、大きな建物を作ることでも、立派な名前を付けることでもないのかもしれない。
明日の朝、誰かが困らないようにする。そんな小さなことを、一つずつ決めていく。中継拠点では、今日も誰かが明日の水を準備していた。




