第46話 休みの日
朝、大和は目を覚ますと、しばらく天井を見ていた。何か忘れている気がして、身体を起こす。今日の予定は西側の調査――違う。昨日戻ったばかりだ。道路の確認には、今日はロウたちが行く。中継拠点にはミナがいるし、物資の整理も自分が行かなくても回っている。大和は少し考えた。
「……何もない?」
口に出してから、自分でも変な感じがした。目を覚ましてから、ずっと何かがあった。食べ物を探し、怪物から逃げ、怪物と戦った。村へ行き、自分の身体を調べ、遺跡都市を探し、文字を覚え、道や中継拠点を作った。古い記録を読み、世界の正体を知った。気がつけば、いつも何かしら次にやることがあった。なのに今日は、特にない。
大和は外へ出た。村はいつも通り動いている。畑へ向かう者、水を運ぶ者、道具を持ってどこかへ行く者。誰も大和を待っていない。それは良いことだった。
少し前なら、自分がいなければ進まないこともあった。今は違う。
「ヤマト」
声がした。振り返るとレティがいた。手には小さな籠を持っている。
「おはよう」
「おはよう。何してるの?」
「何もしてない」
レティが止まった。
「何も?」
「うん」
「ほんとに?」
「そんな驚く?」
レティは少し考えた。
「珍しい」
「俺だって休むよ」
「いつ?」
「……」
大和は答えられなかった。レティが笑う。
「ほら」
「最近忙しかっただけ」
「ずっと忙しかったよ」
言われてみれば、そうだった。大和はレティの籠を見る。
「それ何?」
「取りに行くものがあるの」
「どこへ?」
「少し南」
「森?」
「森っていうほど奥じゃないよ。道からちょっと外れるだけ」
「何取りに行くの?」
「香草と実。料理に使うやつ」
「一人で?」
「うん」
大和は少し考えたが、予定は本当に何もない。
「じゃあ、俺も行こうかな」
レティの耳がぴんと立った。
「来る?」
「邪魔?」
「全然!」
答えが早く、尾まで動き始めた。大和は笑った。
「じゃあ行く」
「今?」
「今でいいよ」
「ほんと?」
「何でそんな確認するんだよ」
「だってヤマト、すぐ何か思い出すから」
「今日は思い出さない」
「絶対?」
「多分」
レティの目が細くなる。
「絶対」
「……はい」
◇
村を出ると、道は以前よりずっと歩きやすくなっていた。倒木は除かれ、大きな石も端へ寄せられ、ところどころには目印まである。大和は歩きながら周囲を見る。
「ここも結構変わったな」
「道?」
「うん」
「毎日使うからね」
レティは普通に答える。大和が知らない間にも、少しずつ直されているのだろう。以前なら、森へ入るだけで緊張していた。怪物がいるかもしれない。道を外れれば戻れないかもしれない。
今も危険がなくなったわけではない。それでも、今日は槍を持つ者が何人も周囲にいるわけではない。怪物を探しているわけでも、遺跡都市へ向かっているわけでもない。レティと二人で歩いている。
それだけだった。
「変な感じ」
大和が言う。
「何が?」
「森歩いてるのに、何も探してない」
「探すよ?」
「香草とかじゃなくて」
レティが笑った。
「それも探すものだよ」
「まあ、そうなんだけど」
しばらく歩く。道の脇に小さな花が咲いている。レティが立ち止まった。
「これ」
レティがしゃがみ、大和もその横に立った。細い葉の間に、薄い紫色の花が咲いている。
「これが香草?」
「これは違う」
「違うの?」
「きれいだったから」
「……それだけ?」
「それだけ」
レティは花を少し眺めると、また歩き始めた。大和はその背中を見てから、もう一度花を見る。少し前までの自分なら、立ち止まらなかったと思う。目的地へ行き、必要なものを探し、危険がないかを確認する。それだけだった。大和も歩き出した。
「レティって、こういうのよく見るの?」
「花?」
「うん」
「見るよ」
「知らなかった」
「ヤマト、いつも急いでるから」
「そんなに?」
「うん」
即答だった。大和は少し苦笑した。
「今日は急がない」
「じゃあいっぱい見れるね」
「何を?」
「いろいろ」
◇
道から外れたところに、小さく開けた場所があった。木々の間から光が差し、足元を覆う低い草には、赤みのある小さな実がいくつもなっていた。
「これ」
レティが籠を下ろす。
「食べられる?」
「食べられる」
「甘い?」
「ちょっと酸っぱい」
一つ取って渡される。大和は眺めた。
「そのまま?」
「そのまま」
口へ入れて、噛む。
「酸っぱ!」
レティが笑った。
「言ったでしょ」
「ちょっとじゃないだろ」
「これ甘い方」
「嘘だ」
「ほんと」
レティも一つ食べる。平気な顔をしている。大和はもう一つ取った。
「本当に料理に使うの?」
「肉と一緒に煮る」
「ああ、それなら分かるかも」
「ヤマトのところにもあった?」
「似たようなのは」
大和は木の根元へ座った。レティも籠を横へ置き、近くへ座る。
「ヤマトのところの食べ物、もっと聞きたい」
「また?」
「だって色々あるんでしょ」
「あるけど」
「前に言ってた、冷たい甘いやつ」
「アイス?」
「それ」
「好きだな、それ」
「食べてみたい」
大和は少し笑った。
「作れるかな」
「作れるの?」
「材料があれば……いや、冷やすのが難しいか」
レティが首を傾げる。
「冷たいってどれくらい?」
「冬の水よりもっと冷たい」
「凍ってる?」
「そう」
「食べるの?」
「食べる」
レティが少し嫌そうな顔をした。
「お腹痛くなりそう」
「ならないよ」
「ヤマトの世界、変なもの食べるね」
「俺が猫とか犬とか言ってた相手に、変だって言われたくないな」
「私は犬じゃないよ」
「分かってる」
大和は自然に答えた。少しして、自分でも、その返事が妙に普通だったことに気づいた。最初は、犬の耳、猫の耳、尻尾、鼻。そういう違いばかり見ていた。今はレティを見ても、最初に目に入るのは、表情だった。
楽しそうだとか、怒っているとか、困っているとか。耳や尾も見るが、それは人間の眉や口元を見るのと、あまり変わらなくなっていた。
大和はそのことを深く考えず、地面へ落ちていた小枝を拾った。
「休みの日って、こういう感じだったな」
「休みの日?」
「仕事とか学校とか、何もしなくていい日」
「何もしない日?」
「何もしなくてもいい日」
「何するの?」
「だから、何してもいい」
レティがますます分からない顔になる。
「寝てもいいし、遊んでもいいし、出かけてもいい」
「今みたいに?」
「そう。今みたいに」
大和は言ってから、少し止まった。今のように二人で出かけ、特に大きな目的もないまま、途中で立ち止まり、食べ物を食べて話をする。大和の頭に、昔の言葉が一つ浮かんだ。
「……デートみたいだな」
「でーと?」
聞こえた。大和はしまったと思った。
「いや」
「何?」
「こっちの言葉」
「どういう意味?」
「別に大した意味じゃない」
レティがじっと見る。
「またそれ」
「何が?」
「ヤマト、説明したくない時すぐ『こっちの話』って言う」
「便利なんだよ」
「ずるい」
大和は笑った。レティはまだ見ている。逃げられそうにない。
「デートっていうのは」
言いながら、何と説明すればいいのか考える。
「二人で出かけたり」
「今みたいに?」
「まあ」
「それだけ?」
「いや」
大和は困った。友達同士でも、家族でも、二人で出かけることはある。では、何が違うのか。
「好きな相手と」
口から出た。大和は止まった。レティも止まった。風が通る。葉が揺れる。
大和は視線を少し横へずらした。
「……まあ、そういう感じ」
レティの耳が少し動いた。
「じゃあ」
嫌な予感がした。
「今の私たち、それ?」
「え」
大和は固まった。レティは本気で聞いているようだった。
「二人で出かけてる」
「うん」
「ヤマトが一緒に来た」
「うん」
「だからデート?」
「いや、それは」
大和は言葉を探す。
「その……」
何でこんなに困っているのだろう。怪物相手なら、倒すか逃げるかでいい。古代の記録なら、分からなければ調べればいい。なのに、これは答えが分からない。
「好きな相手って言ったでしょ?」
レティが聞く。
「言ったけど」
「じゃあ違う?」
大和はレティを見る。すぐには答えられなかった。レティも目を逸らさない。茶色い耳が、いつもより少しだけ前を向いている。尾は、動いていない。
大和は頭を掻いた。
「……分からない」
「分からないの?」
「俺も今考えたばっかりだから」
レティが少し笑った。
「変なの」
「俺もそう思う」
「じゃあ」
レティは籠から実を一つ取った。
「分かるまで、デートでいいんじゃない?」
大和が止まる。
「そんな適当でいいの?」
「嫌?」
「嫌ではないけど」
答えたあと、大和は自分で言った言葉を思い返した。嫌ではない。レティの尾が動き始めた。それを見て、大和は少し笑った。
「分かりやすいな」
「何が?」
「何でもない」
「またそれ」
◇
香草も集めた。レティに教えられながら、大和も手伝う。似た葉が多い。
「これ?」
「違う」
「じゃあこれ」
「それも違う」
「全部同じに見える」
「全然違うよ」
「どこが?」
レティが二枚の葉を並べる。
「ここ」
「分からない」
「形違うでしょ」
「誤差だろ」
「違う!」
大和は笑った。気づけば随分長くそこにいた。急ぐ理由もなく、帰り道は行きより遅かった。途中で川へ寄った。
水を飲んでいると、レティが靴を脱ぎ、足を水へ入れた。
「冷たい!」
「そりゃそうだろ」
「ヤマトも」
「いいよ」
「なんで?」
「面倒」
レティが水を蹴った。飛沫が大和へかかる。
「冷たっ!」
「入った」
「入ってないだろ!」
大和も水を蹴り返す。レティは笑いながら避け、もう一度水を蹴った。今度は大和の方が多く濡れた。
「お前絶対わざとだろ!」
「何が?」
「とぼけるな!」
森の中に、二人の笑い声が響いた。怪物を警戒する声ではない。何かを発見した声でもない。ただ、楽しかったから笑っている。大和は途中で、そのことに気づいた。
だが、わざわざ口にはしなかった。
◇
村へ戻る頃には、空が少し赤くなり始めていた。入口の近くでは、アビナが木箱の上に座っている。大和たちを見て、次に籠へ目をやり、それからもう一度二人を見た。
「遅かったニャ」
「そんなに?」
大和が聞く。
「朝から行ってた」
「まあ、ちょっと寄り道してた」
アビナの耳が動く。
「楽しかった?」
大和は少しだけ考えた。
「うん」
普通に答えた。隣でレティも言う。
「楽しかった」
アビナは二人を見る。
「ふーん」
「何だよ」
「何もニャ」
「絶対何かあるだろ」
アビナは木箱から降りた。大和の横を通り過ぎる。
「デート楽しかった?」
大和の足が止まった。レティも止まる。アビナはそのまま歩いていく。
「おい!」
振り返らない。尾だけが楽しそうに揺れている。
「何で知ってんだよ!」
「聞こえたニャー」
「どこで!?」
返事はなかった。大和は頭を抱えた。レティは横で笑っている。
「笑うなよ」
「だって」
「絶対しばらく言われるぞ」
「いいじゃん」
「よくない」
レティの尾はまだ動いていた。
◇
夜、大和は寝床へ横になった。静かな一日だった。今日は怪物と戦わず、古代の記録も読んでいない。新しい場所も見つけておらず、世界の謎も一つとして解けていない。
香草を取り、酸っぱい実を食べ、川で濡れ、レティと話した。それだけだった。大和は天井を見る。
「デート……」
口に出して、少し恥ずかしくなる。レティはどう思っているのか、自分はどう思っているのか、分からない。少し前まで、そんなことを考える余裕さえなかった。目を覚ました時は、生きることで精一杯だった。その次は、この世界が何なのか知りたかった。
今は、明日食べる物がある。寝る場所がある。戻る場所があり、自分がいなくても村や道、中継拠点は動いている。だから今日は、一日くらい何の役にも立たないことをして過ごせた。大和は少し笑った。
「……悪くないな」
明日になれば、また何かあるだろう。調べることも、考えることも、やることもある。それでも、今日くらいはこれでよかった。




