第41話 夜を越す
西側の調査範囲は、また少し伸びていた。伸びたと言っても、地図の上では短い線が増えただけだ。だが実際には、村から中継拠点までの道のりに加え、そこからさらに西へ進みながら道を確認し、危険な場所を避け、立ち止まって周囲を見て、帰る時間も考えなければならない。すべてを合わせると、一日のうちかなりの時間を移動に使う。
その日も、大和たちはまだ西へ進めそうな場所で引き返していた。太陽は高い。
「今日もここまで?」
大和が聞いた。シェルドが答える。
「戻る」
「まだ行けるよ」
「帰りがある」
「拠点まではそんなに遠くないじゃん」
「拠点から村までがある」
「じゃあ」
大和は少し考えた。
「拠点で寝ればいいじゃん」
シェルドが大和を見る。
「前にも言ったな」
「言った」
「その時は駄目と言った」
「でも、今は前より整ってるでしょ」
それは確かだった。中継拠点には水も食料もあり、簡単な扉や布、道具も揃っている。休める場所もあり、昼間に使うだけならかなり便利になった。
「寝るだけならできそうだけど」
大和が言う。ルシアンが答えた。
「寝るだけなら」
「何か問題ある?」
「夜を見てない」
「夜?」
「ここで夜を過ごしたことがない」
大和は少し黙った。確かに、中継拠点ができてから、夕方になる前には必ず村へ戻っている。夜、この辺りがどうなるのか、知らない。怪物が来るのか、動物が来るのか、何も起きないのか、それすら分からない。シェルドが言った。
「そろそろ確認は必要だ」
大和が顔を上げる。
「泊まる?」
「一度だけ」
「やった」
「遊びじゃない」
「分かってるって」
シェルドは地図を見る。
「まず建物をもう一度確認する」
「ドラン?」
「呼ぶ」
「泊まるの嫌がりそう」
「泊めない」
「そこは泊めないんだ」
「建物を見るだけだ」
大和は少し笑った。
◇
翌日、ドランは中継拠点の外壁を一周していた。以前も見た場所だが、今度は目的が違う。昼間に休むだけでなく、人が中で眠ることになる。
「どう?」
大和が聞いた。
「待て」
「さっきから待ってる」
「ならもう少し待て」
ドランは入口の上を見た。木で追加した扉とその内側、壁、屋根、床、窓のような開口部を順番に確認する。
「屋根は今すぐ落ちる感じじゃない」
「じゃあ大丈夫?」
「今すぐ、だ」
「言い方怖いな」
「永遠に大丈夫な建物はない」
大和は黙る。その言い方なら何も言えない。ドランは扉を開け閉めする。
「閂を付ける」
「今のじゃ駄目?」
「夜は内側から閉める」
「なるほど」
「火はここでは使うな」
ドランは中央を指した。
「何で?」
「煙が抜けにくい」
「寒かったら?」
「外側に場所を作る」
「夜に外で火?」
「入口の近く。見張りがいる時だけ」
シェルドが横から聞く。
「雨なら」
「中では小さい火だけ。位置を決める」
「換気は?」
「入口上を少し開ける」
大和は二人の会話を聞いていた。泊まるだけのつもりだったが、本当に夜を越すなら、考えることは多い。扉を閉め、火を使い、見張りをし、逃げ道を決め、何かあった時には眠っている者を起こす。そのすべてが必要になる。
「大和」
シェルドに呼ばれた。
「何?」
「お前は外で寝るな」
「何で俺だけ?」
「寝相が悪いからではない」
「分かってるよ」
「怪物が来た時に、外にお前だけいる形にしない」
大和は少し考えた。
「俺が外の方が安全じゃない?」
「何が」
「何か来ても俺なら大丈夫」
アキトがすぐに言った。
「それを前提にしない」
大和が振り返る。
「まだ何もしてないよ」
「考えた」
「考えただけで怒られるの?」
「怒ってない」
ノルアも横から言った。
「大和がずっと起きてる前提なら、泊まれる場所じゃないでしょ」
大和は二人を見る。
「何か今日、厳しくない?」
アキトは答えない。ノルアも普通の顔をしている。大和だけが少し不満そうだった。
「分かったよ。みんなと同じにする」
シェルドが頷いた。
「それでいい」
大和は小さくため息をついた。
◇
泊まる者はすぐ決まった。大和、アキト、ルシアン、ノルア、シェルド。そして――
「私も行く」
レティが言った。誰もすぐには答えなかった。
「何?」
レティが全員を見る。
「駄目?」
「見張りはできる?」
シェルドが聞く。
「できる」
「夜に起きられる?」
「起きる」
「勝手に外へ出ない?」
「出ない」
「ならいい」
「本当?」
「人数はいた方がいい」
レティは少し嬉しそうに頷いた。アキトはそれを見た。何も言わない。ルシアンも見た。何も言わない。
ノルアだけが少し笑った。レティが気づく。
「何?」
「別に」
「何か笑った」
「笑ってない」
「笑った」
「ちょっとだけ」
「何で?」
ノルアは首を振る。
「何でもない」
レティは納得していない。だが、それ以上は聞かなかった。
◇
夕方、いつもなら村へ戻る時間になっても、その日は誰も帰らなかった。中継拠点の外、入口近くに小さな火を焚き、その周りで簡単な食事を取る。
「変な感じだな」
大和が言った。アキトが聞く。
「何が」
「この時間にここにいるの」
「泊まるからな」
「分かってる」
大和は周囲を見る。夕方の遺跡都市に影が長く伸びていた。昼間とは違い、見慣れた建物も暗くなると少し遠く感じる。音も変わる。
鳥の声、虫、風、遠くで何かが落ちる音。大和はそちらを見る。
「今の何?」
ルシアンが答える。
「分からない」
「見に行く?」
「行かない」
「まだ近くじゃん」
アキトが大和を見る。大和は言うのをやめた。
「分かったって」
火が小さくなり、空が暗くなる。完全に夜になる前に、全員で入口や水、武器、逃げる方向をもう一度確認し、誰が最初の見張りをするかを決めた。
見張りは二人一組で、一人では外へ出ない。何かあっても、まず皆を起こす。大和は何度か、
「俺なら」
と言いかけた。そのたびにやめた。言う前から、誰かに止められる気がした。
◇
夜、建物の中は思っていたより暗かった。入口を閉めて木の閂を掛けても完全な密閉にはならず、隙間から外の光が僅かに入る。中にある明かりは小さな火だけだった。
「寝れる?」
大和が聞く。レティが答える。
「寝れる」
「床硬いよ」
「村でも硬い」
「そう?」
「大和の寝るところが柔らかいだけ」
「俺そんな良いの使ってる?」
「使ってる」
知らなかった。大和は布を丸めて頭の下へ置いた。
「俺、最初の見張り?」
シェルドが答える。
「違う」
「じゃあ寝ていい?」
「寝ろ」
「本当に?」
「寝ろ」
「分かった」
大和は横になる。目を閉じる。眠れる。そう思った。だが、意外と眠れない。
外の音が気になる。村では、風や家、人、動物が立てる夜の音を何となく聞き分けられるが、ここでは何もかもが分からない。遠くで何かが鳴き、近くで葉が擦れる。時々、古い建物のどこかから「ぱき」と音がする。大和は目を開ける。
隣を見る。アキトは寝ている。レティも、ノルアも、ルシアンは見張りに出ている。
「……寝れるのすごいな」
小さく呟く。目を閉じる。少しして、眠った。
◇
どれくらい経ったか分からない。何かが崩れるような「がら」という音で目が覚め、大和は起き上がった。
外だ。近い。すぐに身体が動き、右腕の骨が動こうとする。
大和は立ち上がる。扉へ向かう。
「待て」
アキトの声。起きていた。
「今の聞いた?」
「聞いた」
「見てくる」
「一人で?」
大和が止まる。アキトも立つ。ノルアが目を開けた。
「何?」
「音」
ルシアンが外から入ってきた。
「西側」
「見た?」
大和が聞く。
「見えない」
「じゃあ行こう」
「二人で」
アキトが言う。大和は少しだけ笑った。
「はいはい」
「返事が軽い」
「ちゃんと行くって」
ルシアンも武器を持つ。
「俺も行く」
「三人?」
「確認するだけ」
シェルドも起きていた。
「遠くまで行くな」
「分かった」
「何かあったら戻れ」
大和が言う。
「怪物なら?」
シェルドが答える。
「位置を見て戻れ」
「倒せそうでも?」
「戻れ」
「厳しいな」
「夜の確認が目的だ」
「分かった」
今度は、大和も普通に頷いた。
◇
外は暗かった。昼間なら何でもない道。今は輪郭しか見えない。火の光が届く範囲を離れると、急に世界が狭くなる。大和は地面を見る。
目は慣れる。だが、見える量は少ない。
「夜ってこんな見えないんだな」
アキトが小声で言う。
「当たり前だ」
「村だともう少し分かる気がする」
ルシアンが前を見る。
「慣れてるから」
三人は音がした方向へ進む。あまり離れない。建物、壁、木。昼間に見た場所のはずなのに、別の場所のように見える。大和は少し足を止めた。
「何かある?」
アキトが聞く。
「いや」
地面からは振動が伝わってこない。大きなものが走っている様子はなく、怪物ならもっと分かるかもしれない。だが、それだけで安全とは言えない。
少し先に何か白っぽいものが見えた。ルシアンが手を上げ、三人は立ち止まって見る。動かない。
近づくと、上から崩れて道へ落ちた古い壁の一部だった。
「これか」
大和が言う。
「多分」
ルシアンは周囲を見る。新しい足跡はなく、怪物の痕跡も見えない。
「戻る?」
アキトが聞く。
「戻る」
大和が答えた。アキトが少しだけ大和を見る。
「何?」
「何でもない」
「俺が素直だから?」
「少し」
「ひどいな」
三人は戻った。
◇
拠点へ戻ると、シェルドが聞く。
「何だった」
「壁」
ルシアンが答える。
「一部が崩れた」
「怪物は?」
「確認できない」
大和が付け加える。
「振動もなかった」
シェルドが頷く。
「明るくなってから見る」
「うん」
それで終わった。大和は少し不思議だった。以前なら、何かないか、危険がないかと、そのままもう少し調べたかもしれない。全部確認してから戻っただろう。だが今日は戻り、それで困らなかった。むしろ、その方がいい気がした。
◇
見張りの交代、夜の後半。大和とノルアが外へ出た。火は小さい。静かだった。大和は壁にもたれた。
「眠くない?」
ノルアが聞く。
「ちょっと」
「寝てていいよ」
「見張りの意味ないじゃん」
「大和なら何か来たら起きそう」
「それ、また俺の身体前提にしてない?」
ノルアが少し笑った。
「覚えたね」
「今日何回言われたと思ってるの」
二人とも少し笑い、それからしばらく何も話さなかった。遠くから虫の声が聞こえ、風が夜の街を抜けていく。
大和は空を見る。
「こういうのも悪くないな」
「夜?」
「ここで泊まるの」
「昼より怖いけど」
「うん」
大和は少し考える。
「でも、村から結構遠いのに」
「遠いね」
「今日は帰らなくていいって思うと、変な感じ」
ノルアは大和を見る。
「帰りたい?」
「今?」
「村に」
大和はすぐ答えなかった。質問の意味を考える。
「そりゃ帰るよ」
「今日じゃなくて」
「ん?」
ノルアは少し迷った。昨夜聞かなかったことを、そのまま尋ねるのは何となく違う気がした。大和にとって、自分たちや村は何なのか。
「村に戻ると、どう?」
「どうって?」
「落ち着く?」
大和は少し笑った。
「落ち着く」
答えは早かった。
「中心区域とか白いところも慣れてきたけど」
「うん」
「村に戻ると、帰ってきた感じする」
ノルアは黙る。大和は何でもないことのように続ける。
「最初は、ここで暮らすしかないって感じだったけど」
大和は火を見る。
「今は違うかな」
ノルアが聞く。
「何が?」
「帰る場所っていうか」
大和は少し考えた。
「家って言うと変だけど」
「何で?」
「家は一軒だから」
「そうなの?」
「俺の感覚では」
ノルアは少し笑う。
「村は?」
「村は……」
大和は考える。
「帰るところ」
それだけだった。だが、ノルアには十分だった。
「そっか」
「何で急に聞いたの?」
「別に」
「何かあるでしょ」
「ない」
「昨日からみんなちょっと変なんだよな」
ノルアの顔が少し止まる。
「そう?」
「アキトとノルア、今日やたら俺止めるし」
「いつも止められてるでしょ」
「それはそう」
大和は納得した。
「じゃあ普通か」
「普通」
ノルアは小さく笑った。大和は、昨夜の話を知らない。知らないまま、答えた。帰るところ。その言葉を、ノルアは覚えておこうと思った。
◇
朝になり、夜が終わった。何も大きなことは起きず、怪物も来なかった。怪我人もいない。だから成功、という話にはならなかった。シェルドは朝から改善点を並べていた。
「扉の閂を強くする」
ドランへ伝える。
「火の位置はもう少し離す」
「煙?」
大和が聞く。
「風向きで中へ入った」
「ああ」
「夜用の水を別にする」
「何で?」
「昨日、飲み水を使いすぎた」
レティが少し目を逸らす。大和が見る。
「飲んだ?」
「少し」
「少し?」
「少し多く」
「まあいいけど」
ルシアンが言う。
「夜間の音を記録する」
「そこまで?」
「昼と違う」
「確かに」
崩れた壁。朝に確認する。怪物の痕跡はなかった。単純に、時間が経って崩れただけらしい。
「でも夜だと怖かったな」
大和が言う。アキトが頷く。
「見えないからな」
「昼なら壁ってすぐ分かったのに」
「だから夜の確認が必要だった」
シェルドが言った。大和は少し笑う。
「泊まって正解だった?」
「一晩なら」
「じゃあ次も?」
「条件を直してから」
「厳しいな」
「そういうものだ」
拠点の板に、新しい決まりが増えた。夜間に利用できるのは許可された班のみ。二人以上で見張り、一人では外へ出ない。水は昼間の分とは別に確保し、夜に周囲を調べない。何かあっても、朝まで待てるなら待つ。大和は最後の一行を見る。
「俺向け?」
シェルドが答える。
「全員向けだ」
アキトは何も言わない。ノルアも同じだった。だが、大和は二人を見る。
「本当に?」
「本当に」
ノルアが答えた。
◇
太陽が上がる。いつもなら、この時間はまだ村からこちらへ向かっている途中だった。だが今日は、もう中継拠点にいる。
荷物もある。水もある。昨日までの記録もある。大和は西を見る。
「行く?」
アキトが槍を持つ。
「行く」
ルシアンは地図を持った。ノルアも立つ。レティが荷物を背負う。シェルドが人数を確認する。大和は少しだけ空を見る。
朝、村ではない場所から、一日が始まる。
「何か変だな」
レティが聞く。
「何が?」
「ここから始まるのが」
レティは周囲を見る。
「もう慣れた」
「早いね」
「大和が遅いだけ」
「そうかな」
大和は笑って歩き始める。中継拠点を背に西へ向かう。昨日までなら、まだここへ来ていなかった時間から、もう先へ進める。道が伸びたわけではない。
怪物を倒したわけでも、新しい技術を見つけたわけでもない。ただ一晩、ここで夜を越しただけで、世界はまた少しだけ遠くまで使えるようになっていた。




