第4話 猫の少女
道は森の奥へ続いていた。
大和は歩く速度を上げた。目覚めてから、何が起きても一人で考えるしかなかった。だが、この先には道を使っている誰かがいる。人と話せるかもしれない。道には、ときどき足跡も残っていた。
人間の靴跡に見えるものもある。ただ、大和が知っている靴とは少し形が違った。細長いものもあれば、幅の広いものもある。
「まあ、行けば分かるか」
大和は足跡から目を上げ、道を進んだ。しばらくすると、前方の木々の間で何かが動いた。大和は足を止める。人影だった。
「いた」
思わず声が出た。相手は背を向けていた。大和よりかなり小さい。細身で、身軽そうな体つきをしている。肩のあたりまで伸びた髪は、木漏れ日を受けて明るい金色に見えた。
腰には小さな袋がいくつか下がっている。服装は大和の知っているものとは違うが、森を歩くための格好なのだろう。布と革らしき素材を組み合わせた、動きやすそうな服だった。少なくとも後ろ姿だけなら、若い人間の女の子に見える。
大和は手を上げた。
「おーい!」
人影が止まった。頭の上で何かが動いた。大和は一瞬、それが何なのか分からなかった。相手が振り返る。
「……え?」
大和の足も止まった。十代後半くらいだろうか。顔は人間と驚くほどよく似ていた。やや大きな黄緑色の目で、大和をまじまじと見ている。金色の髪の上から、三角形の耳が二つ出ている。髪飾りではない。
大和の声を聞いた時にも動いたし、今もこちらへ向けるように角度を変えている。猫の耳。大和は思わず、少女の顔の横へ視線を落とした。自分なら耳がある位置。そこに、人間の耳はなかった。代わりに頭の上に二つある。
鼻も、人間とよく似てはいるが少し違う。鼻筋が低く、鼻先が小さい。さらに少女が身体の向きを変えた時、腰の後ろから細い金色の尾が現れた。ゆっくり左右へ揺れている。大和は口を開けたまま、しばらく何も言えなかった。
さっき、猫耳とかいたりしてな、と冗談を言ったばかりだ。本当にいた。しかも、飾りの耳を付けた人間とは違う。少女の視線も、大和の顔から頭、肩、腕、脚へと遠慮なく動いていた。少女の耳がぴくりと動いた。
大和もつられて、その耳を見る。そして、口から言葉が出た。
「……猫?」
少女が首を傾げた。
「ねこ?」
大和の目が見開かれる。通じた。完全に同じ発音ではない。少し訛ったように聞こえるし、言葉の調子も違う。それでも意味は分かる。
「喋った」
少女の眉が寄った。
「しゃべるニャ」
「いや、そうじゃなくて」
大和は頭を掻いた。猫の耳と尻尾があって、語尾までそれらしい。何より、普通に会話ができていた。少女はそんな大和を気にする様子もなく、一歩近づいた。大和は反射的に一歩下がる。少女が止まる。
また一歩近づく。大和がまた下がった。
「いやいや、近いって」
手で制すると、少女は不思議そうな顔をした。
「なんでニャ?」
「なんでって。初対面だろ」
「そうだけど」
「そうだけどじゃなくて」
距離感がおかしい。少なくとも大和なら、森で見たこともない男に出会ったらもっと警戒する。しかも相手は変な服を着て、血まで付いている。それなのに少女は逃げるどころか、さらに興味深そうに大和の顔を覗き込んできた。
鼻先が少し動く。大和は嫌な予感がした。少女が顔を近づける。
「ちょっと待て。何してる?」
「においニャ」
「嗅ぐな」
少女は真顔だった。
「なんでニャ?」
「普通、初対面の相手の匂いなんて嗅がないだろ」
少女は少し考えたあと、もう一度鼻を動かした。
「へんなにおい」
「失礼だな!」
大和が声を上げると、少女の耳が一瞬後ろへ傾いた。けれど、すぐにまた大和へ向く。
「でも、いやじゃないニャ」
「それ、フォローになってる?」
少女は分からないという顔をしている。大和はため息をついた。目の前の鼻先がまた動いた。姿だけでなく、こういう確かめ方もするのか。
「異世界じゃん……」
小さく呟く。少女の耳がすぐに反応した。
「いせかい?」
「ああ、いや。こっちの話」
少女はまだ気になるらしい。今度は大和の横へ回った。さらに後ろへ。
「何?」
「ない」
「何が?」
「しっぽ」
大和は反射的に自分の尻を見る。
「あるわけないだろ」
少女が今度は大和の頭を見る。
「みみもないニャ」
「あるよ」
大和は自分の耳を指した。
「ここ」
少女の目が少し大きくなる。また近づいてきた。顔の横にある大和の耳を、かなり近くから見る。指まで伸びてきたので、大和は顔を引いた。
「触るなって」
「ちいさい」
「普通だ」
「へんニャ」
「お前に言われたくない」
少女は一瞬きょとんとして、それから笑った。大和もつられて笑う。不思議だった。姿は明らかに人間とは違う。何者なのかも分からない。それでも会話が成立しただけで、さっきまで身体のどこかに残っていた緊張が少しずつ抜けていった。
少女の方も相変わらず大和を見ている。警戒というより、珍しいものを見つけた時の目だ。
「なまえ」
少女が言った。
「え?」
「なまえニャ」
「ああ」
大和は自分を指した。
「藤原大和」
少女の眉が寄る。
「ふじ……」
「藤原」
「ふじわら」
「そう」
「やまと」
「そうそう」
少女は何度か口の中で繰り返した。
「ヤマト」
「うん」
名前を呼ばれただけなのに、大和は少し嬉しくなった。ここへ来てから初めて、自分以外の誰かが自分の名前を口にした。
「お前は?」
「アビナ」
「アビナ」
「うん」
「よろしく、アビナ」
大和は反射的に手を差し出した。アビナはその手を見る。
「何ニャ?」
「握手」
「?」
「挨拶みたいなもの。こうやって」
大和が手を少し前へ出すと、アビナも真似をするように右手を出した。そこで大和は初めて、彼女の手をきちんと見た。五本指。形も関節も、ほとんど人間の手と変わらない。少し細く、大和よりずっと小さい。
ただ、指先の爪は人間よりわずかに鋭く、手のひらには薄い膨らみがある。肉球。という言葉が頭に浮かんだ。動物の足ほど厚くはない。人間の掌に薄いパッドが付いているような感じだ。手の甲にも、金色の細い毛がわずかに生えている。
大和が軽く握ると、アビナの耳がぴんと立った。
「これ何ニャ?」
「だから挨拶」
「ふーん」
大和が手を離す。アビナは自分の掌を見る。それから、もう一度大和へ差し出した。
「もう一回やるの?」
「うんニャ」
大和は笑って、もう一度握る。今度はアビナの方が先に力を込めた。
「痛い痛い」
「よわいニャ」
「いや、お前が強いんじゃないか?」
細い腕なのに、意外なほど握力がある。大和は手を離しながらアビナを見る。この細い腕で、こんなに強く握れるのか。自分の力の加減も分からない大和には、比べようがなかった。
「そうだ」
大和は周囲を見た。
「この辺に村とかある?」
「あるよ」
即答だった。大和の表情が変わる。
「本当に?」
「うんニャ」
「人いる?」
アビナが少し考えた。
「いる」
「人間?」
今度はアビナの方が分からない顔をした。
「にんげん?」
「俺みたいなの」
アビナは改めて大和を見る。顔から頭、身体へ目を動かし、鼻を少し動かした。
「いない」
「いない?」
「ヤマトみたいなの、はじめてニャ」
大和は黙った。自分と同じ人間はいない。少なくとも、アビナは見たことがない。それでも村はある。
「アビナみたいなのがいる?」
「いる」
「猫?」
「ねこも」
「他は?」
「いぬ」
大和は止まった。
「犬?」
「うんニャ」
「犬耳の人?」
アビナは何を言っているのか分からないという顔をした。
「いぬは、いぬ」
「そうだよな」
大和は空を見上げた。猫に似た人も犬に似た人もいて、自分のような姿は見たことがないという。もう、未来医療だけで説明するのは無理がある。さっきまでは半分冗談だった。異世界。今は、その言葉の方が目の前の現実に合っている。
「本当にあるんだな」
「なにが?」
「何でもない」
アビナは今度は大和の服に興味を移した。
「それ」
「服?」
「へんニャ」
「また失礼だな」
「見たことない」
大和も自分の格好を見る。コールドスリープに入った時の薄い専用衣服。森を歩くためのものではない。怪物との戦闘でところどころ破れ、血も付いている。アビナの視線が、その血で止まった。さっきまでの楽しそうな表情が少し変わる。
「けが?」
「もう治った」
アビナが首を傾げた。
「怪物に襲われたんだ」
今度は耳がぴんと立った。
「どこニャ?」
大和は来た方向を指す。
「向こう」
「ひとりで?」
「うん」
アビナの視線が大和の身体を走る。傷を探しているらしい。
「逃げた?」
「まあ……最後は倒した」
アビナの動きが止まった。
「……たおした?」
「ああ」
「ヤマトが?」
「俺が」
先ほどまでとは違う種類の興味が、アビナの顔に浮かんだ。大和の腕へ視線が集中する。
「どうやってニャ?」
「それが俺にもよく分からない」
大和は右腕を見る。
「腕が変な形になって」
「刃みたいなのが出たんだ。骨みたいなやつ」
大和は腕を見たまま話を続けた。
「向こうも傷がすぐ治るんだけど、最後は何か再生しなくなって。そのまま死んだ」
アビナは黙っていた。大和がようやく顔を見る。
「どうした?」
「からだ」
「ん?」
「いまは、へんじゃない」
「ああ。今は普通」
大和は右腕を上げて見せる。
「俺も自分で出そうとしてるんだけど、出ないんだよ」
アビナはその腕をじっと見た。すぐには近づかない。大和にも、そのわずかな変化は分かった。
「……怖い?」
アビナは大和の顔を見る。耳が少し動いた。
「ちょっと」
「だよな」
大和は苦笑した。自分だって怖い。自分の身体なのに、何が起きたのか分からない。けれどアビナはすぐにもう一歩近づいた。今度は大和の腕を横から覗き込む。
「でも、いまは普通ニャ」
「さっきも言っただろ」
「どうやって出る?」
「分からない」
「もう一回できる?」
「分からない」
「見たい」
「怖いんじゃなかったのかよ」
「怖いけど見たいニャ」
大和は呆れて笑った。怖がりながらも、アビナの目は腕から離れなかった。
「村」
アビナが急に言った。
「え?」
「来る?」
「いいの?」
「うんニャ」
「知らない奴だぞ?」
「だいじょうぶ」
答えが早い。大和は少し笑った。
「信用しすぎじゃない?」
アビナは初めて少し考えるような顔をした。大和を見る。鼻を動かす。
「うーん……」
数秒。
「だいじょうぶニャ」
「根拠ないだろ」
「ある」
「何?」
アビナは答えようとして止まった。耳が少し横へ向く。結局。
「なんとなく」
「一番信用できない理由だな」
「でも、だいじょうぶニャ」
アビナはそう言うと、もう話は終わったとばかりに歩き始めた。細い尾が後ろで揺れる。大和はその背中を見ながら迷った。出会ったばかりの相手について、知らない村へ行くのか。それでも、自分には他に行く場所がない。
一人で森を歩き続けるよりはるかにいい。
「待って」
大和はアビナを追った。アビナが振り返る。
「村までどれくらい?」
「ちょっと」
「そのちょっと信用していい?」
「うんニャ」
「何分?」
アビナが首を傾げる。
「ふん?」
「ああ……」
大和は頭を抱えた。時間の単位まで同じとは限らないらしい。
「まあいいか」
二人で道を歩く。
しばらくして、アビナが横から大和を見る。
「ヤマト」
「ん?」
「ほんとに、みみないね」
「その話まだする?」
「ないニャ」
「あるって」
大和は自分の顔の横を指した。
「ここ」
アビナは大和の耳を見て笑った。大和も笑う。金色の尾が隣で揺れている。怪物だけでも信じられなかったのに、今はこんな少女と話しながら歩いていた。
「……すげえな」
「なにニャ?」
「いや」
大和はアビナの動く耳を見て笑った。
「異世界って、本当にあるんだなと思って」
アビナは意味が分からないらしく首を傾げた。大和はそれ以上説明しなかった。道の先に村がある。そう聞いてから、大和は寝床の心配をしていなかった。




