第39話 残っていたもの
西側の中継拠点を使い始めてから、そこへ置かれる物は少しずつ増えていた。最初は水と食料、次に縄、工具、予備の槍、布、記録板。そのうち、誰が持ってきたのか分からない物まで棚に置かれるようになった。大和は壁際の籠を覗いた。
「これ誰が持ってきたの?」
中には、少し縦に長く、表面に浅い凹凸のある赤紫色の実がいくつも入っていた。色は一様ではなく、黄色に近いものも混ざっている。
アビナが横から一つ取った。
「カダから来た人じゃない?」
「聞いてない?」
「聞いてないニャ」
「適当だな」
「食べられるからいいニャ」
アビナは服で軽く表面を拭くと、そのまま齧った。しゃり。硬い音。
「うまい?」
「いつものニャ」
「そうだよね」
大和も一つ取った。珍しい食べ物ではない。村の周辺にも生えている。季節によっては普通に食卓へ出る。保存もしやすいらしく、カダから持ってくることもあった。
大和も何度食べたか分からない。齧ると、甘さの中に少し酸味があり、独特の香りがした。果肉はリンゴより少し硬い。
「うん」
普通にうまい。もう一口。そこで、大和の口が止まった。
「……あれ?」
アビナが見る。
「何ニャ?」
大和は手の中の実を見た。赤紫色をした見慣れた形で、今では何とも思わない。だが、森で一人だった最初の頃は違った。
腹が減っていたが、何を食べればいいのかも分からず、毒かもしれないと思いながら少しだけ齧った。その時――
「……これ」
大和は実を持ち上げる。
「俺、最初に食ったやつだ」
アビナが首を傾げた。
「最初?」
「目覚めてから」
村へ来る前、アビナと会うより前。怪物から逃げて、森を歩いて、腹が減って、木になっていた実を食べた。
「これだった」
「それがどうしたニャ?」
「いや……」
大和はもう一度齧った。味も同じだ。甘い。酸っぱい。リンゴに少し似ている。
そこで、昔の自分が何を考えたかまで思い出した。異世界にも、リンゴみたいな味の果物がある。
「俺さ」
「うん?」
「これ、異世界の果物だと思ってた」
アビナの耳が動いた。
「異世界?」
「うん」
大和は少し笑った。
「見たことなかったから」
「今も見たことない?」
「今は何回も見てる」
「じゃあ見たことあるニャ」
「そういう話じゃなくて」
うまく説明できない。大和は実を見る。自分の時代に、こんな果物はなかった。少なくとも、大和は知らなかった。見た目はリンゴではなく、香りも甘さも少し違う。だが、味のどこかは確かに似ている。だから最初は、異世界にも偶然似た味の果物があるのだと考えた。
それで終わった。だが――
「……ここ、地球なんだよな」
大和が呟いた。アビナが聞く。
「また地球の話?」
「うん」
ルシアンが記録板から顔を上げた。少し離れた机で、昨日の調査内容を整理していた。
「何かあった?」
大和は実を見せる。
「これ」
ルシアンが見る。
「食べ物」
「そうなんだけど」
「何」
「俺のいた時代に、リンゴっていう果物があったんだよ」
「前に聞いた」
大和は少し驚いた。
「話したっけ」
「一度」
「覚えてるんだ」
「記録した」
「そこまで記録してるの?」
ルシアンは答えない。大和は続けた。
「これ、味がリンゴに似てるんだ」
「同じもの?」
「違うと思ってた」
「今は?」
大和は手の中の実を見る。少し迷う。
「……分かんない」
ルシアンは待っている。大和は言った。
「でもさ。前は、異世界だから別の果物がたまたまリンゴみたいな味なんだと思ってた」
「今は異世界ではない」
「そう」
大和は実を指で回した。
「なら、これって本当に全然別の果物なのかな」
アビナが実を齧りながら聞く。
「リンゴなの?」
「分かんない」
「似てるならリンゴじゃない?」
「見た目は全然違うんだよ」
「じゃあ違うニャ」
「早いな」
ルシアンが言った。
「似ているだけかもしれない」
「それも分かってる」
「同じものが変わった可能性もある」
大和が顔を上げる。
「そう。それ」
言葉にされると、自分が何に引っかかったのか分かった。
「リンゴが、長い時間で変わったとか」
「可能性」
「誰かが違う種類を作ったとか」
「可能性」
「昔からあったけど俺が知らなかっただけとか」
「それもある」
大和は笑った。
「何でもあるな」
「分からないから」
「だよね」
結論は出ない。実を調べる方法もない。昔のリンゴと比べることもできない。大和が知っているのは、味が似ている。それだけ。
だが、以前とは違った。知らない果物。だから異世界のもの。ではない。ここは、自分の世界の続きだ。
だったら、この実も、この森も、そこに生える植物も、すべて自分の知らない何かではなく、自分の知っていた地球から続いているのかもしれない。そう考える余地ができた。
「変な感じだな」
大和が言う。アビナが聞いた。
「何が?」
「最初に見た時は、これが異世界っぽく見えたんだよ」
「果物が?」
「うん」
大和は笑った。
「今は逆」
「何が逆ニャ?」
「昔の世界が残ってるように見える」
アビナはよく分からないという顔をした。それでいい。大和自身も、まだうまく説明できない。
◇
大和はもう一口食べた。味から、別の記憶が戻ってきた。白い病室、窓、皿、小さく切られたリンゴ。母親が剥いていた。癌が進んで、食欲が落ちて、何なら食べられるか聞かれた。
リンゴなら食べられると、そう答えた。死ぬ前の自分が食べていたものと似た味のものを、今、何百年後かも分からない地球で食べている。大和は少しだけ目を閉じた。
あのリンゴとは違う。多分、母親が剥いてくれたものの方が柔らかかった。もっと甘かった気もする。だが、記憶なんてそんなものかもしれない。今食べても、同じ味には感じないだろう。
「ヤマト?」
アビナの声。大和は目を開けた。
「何?」
「それ食べないならもらうニャ」
大和の手には、まだ半分残っている。
「食べるよ」
「止まってたから」
「ちょっと思い出してただけ」
「リンゴ?」
「うん」
アビナは自分の実を食べ終えた。すぐ籠へ手を伸ばす。大和も残りを食べる。母親はいない。昔の家もない。
昔のリンゴも、もしかすると、もうない。だが今は、アビナが隣で同じ実を食べ、ルシアンが少し離れたところで記録を書いている。外では誰かが荷車を動かしている。そのためか、妙に寂しいだけではなかった。
大和は籠へ手を伸ばした。
「もう一個食おうかな」
手が止まる。
「あれ?」
籠の中に残っている実は、二つだけだった。アビナも見る。
「少ないニャ」
「さっきもっとあったと思ったけど」
「私、一個しか取ってないニャ」
「今二個目取ろうとしてたじゃん」
「まだ取ってないニャ」
「そうだけど」
大和は棚を見る。減っているのは果実だけではなく、干した肉も残り少ない。水の容器を持ち上げると、軽かった。
「水もない」
ルシアンが立ち上がった。
「ない?」
「ほとんど」
別の容器も見る。こちらも少ない。
「誰か今日使った?」
「道路班が来た」
「何人?」
「七人」
「それか」
アビナが棚の下を覗く。
「縄も少ないニャ」
大和も見る。確かに、何本かあったはずの縄が一本しかない。
「何これ」
「使った?」
ルシアンが記録板を調べる。中継拠点へ置いた物は、使った時に簡単な記録を残すことになっている。まだ細かな制度ではなく、記すのは何を持っていったか、どの班が使ったか、それだけだった。
「縄」
ルシアンが読む。
「昨日、崩落箇所で二本」
「じゃあ普通に使ったのか」
「布も使ってる」
「怪我?」
「道路班。一人」
「大丈夫だった?」
「軽い傷」
「ならいいけど」
ルシアンがさらに見る。水、食料。何人かが使っている。誰も大量には使っていない。持ち去った者もいない。
大和は記録と棚を見比べる。
「じゃあ……」
アビナが言った。
「みんな使っただけ?」
「みたいだね」
使うために置いた。だから使う。何もおかしくない。大和は空に近い水の容器を見る。
「補充は?」
ルシアンが記録を見る。
「ない」
「誰も?」
「書いてない」
「じゃあ、持ってきてないってこと?」
「多分」
大和は少し考えた。
「なくなったら持ってくればいいだけじゃない?」
入口から声がした。
「誰が?」
大和が振り返る。ミナだった。後ろにはロウもいる。カダから物資を運んできたらしい。ミナは小さな袋を棚へ置いた。
「誰って」
大和は少し止まる。
「誰か」
ミナが大和を見る。
「誰かって誰?」
答えが出ない。アビナが言う。
「持ってくる人?」
「だから、その人を誰にするの」
「……誰かニャ」
大和はアビナを見る。
「同じこと言ってる」
「ヤマトも言ったニャ」
「そうだけど」
ミナは棚を見る。
「カダから来る人が持ってくるの?」
「それでもいいんじゃない?」
「何を?」
「水とか食料」
「毎回?」
「必要なら」
「誰が必要か確認する?」
また止まる。大和は棚を見る。水、食料、縄、布、工具。使った人はいる。だが、使った者が必ず次を持ってくるわけではない。
道路班は道路を直しに来て、探索班は調査に来る。怪物が出れば戦う者も来て、そのたびに必要なものを使う。
「これ」
大和は少し笑った。
「置けば終わりじゃないんだな」
ミナが答える。
「当たり前でしょ」
「いや、今分かった」
「本当に?」
「本当に」
そこへシェルドが戻ってきた。話を聞く前に、棚を見た。水を見る。食料を見る。縄を見る。
「減ったか」
「知ってた?」
大和が聞く。
「減るとは思っていた」
「なら言ってよ」
「思ったより早かった」
シェルドはルシアンの記録を見る。しばらく黙る。
「使い方に問題はない」
「やっぱり?」
「ああ」
必要なところで使われている。無駄遣いでもない。
「補充を決めていなかった」
シェルドが言った。大和が少し驚く。
「シェルドでも忘れるんだ」
「忘れたわけではない」
「じゃあ?」
「決めるのが遅かった」
それだけ言う。言い訳はしなかった。
「使う人が増える方が早かった」
ルシアンが言った。シェルドが頷く。大和は少し納得した。誰かが悪かったわけではない。場所を作った。
便利だったから、思ったより多くの人が使った。それだけだ。
「じゃあ決める?」
大和が聞く。
「決める」
シェルドは答えた。
◇
その日の夕方、中継拠点にはいつもより多くの者が集まった。大和たちの村やカダ村から来た者、道路を直す者、調査へ入る者、物を運ぶ者。話すのは、何が減り、何が必要で、どう補うかということだけで、難しい話ではないはずだった。だが、始めてみると、思ったよりいろいろあった。
「水はカダから運ぶ方が近い」
「でも毎日は無理だ」
「村から来る荷車に積めばいい」
「荷車が来ない日は?」
「食料は両方から出す?」
「同じ量?」
「人数が違う」
「工具は持ち出したら戻す」
「壊れた時は?」
「誰に言う?」
大和は途中から黙って聞いていた。自分が口を挟めるところはあまりない。水をどう運ぶか、カダと村のどちらから何を出すか、何日に一度補給するか、使った量をどう記録するか。それぞれに事情があり、大和が全部決めてもうまくはいかないだろう。
ミナが言う。
「大和に運ばせれば一番早いけど」
大和が顔を上げた。
「できるよ」
かなりの量でも運べる。普通の者より早い。
「でもやらない」
ミナが続けた。
「え?」
「毎回、大和が運ぶ形にはしない」
大和は少し驚いた。
「何で?」
「大和がいなかったらどうするの」
「いない時?」
「怪物を倒しに行ってる時。病院を調べてる時。怪我してる時」
「怪我は治るけど」
「そういう話じゃない」
大和は黙った。以前にも、似たことを言われた気がする。大和が全部やれば早い。だが、大和が全部やる必要はない。ミナが言う。
「できる人がいるから、その人に全部やらせるって決めたら、その人がいないと何もできなくなる」
シェルドが頷いた。
「俺もそう思う」
大和は少し考えた。
「でも、重い物とかは俺がやった方がいいでしょ」
「必要なら頼む」
「ならいい」
そこは簡単に納得した。できることまでやらない必要はない。ただ、最初から大和がやる前提にはしない。その違いだった。話はしばらく続いた。
最終的に、大がかりな仕組みにはならなかった。水は最後に残量を見て、少なければ記録する。食料は使った量を簡単に残し、縄や布は使った場所を書く。最後に拠点へ戻った班が不足を確認し、翌日来る荷車へ不足品を載せる。村とカダでは、持って来られるものを分ける。
「これだけ?」
大和が聞いた。シェルドが答える。
「まずは」
「もっとすごい管理方法にしなくていい?」
「必要になったら変える」
「そういうもの?」
「最初から全部決めても、使えなければ意味がない」
大和は少し笑った。
「何か知識蔵と同じだな」
「何が」
「試して、駄目なら変える」
シェルドも少しだけ笑った。
「そうだ」
◇
数日後、大和は西側の調査から拠点へ戻った。暑い中をかなり歩いたため、入るなり水の容器へ向かい、持ち上げた。
重い。
「お」
中を見る。入っている。大和は器へ水を入れて飲んだ。冷たくはない。でもうまい。
棚には食料があり、縄も補充されている。横の小さな板には、誰かの字で「水、残り多」「食料、残り中」「布、補充必要なし」「縄、一本使用、次回一本補充」と書かれていた。大和には、それを書いたのが誰か分からなかった。
「ちゃんとあるな」
後ろからアキトが入ってくる。
「何が?」
「水」
「あるだろう」
「前なくなったから」
「だから補充した」
当たり前のように言う。大和は水をもう一口飲んだ。棚の端にある籠を見ると、赤紫色の実が入っていた。
前より少ない。だが、なくなってはいない。大和は一つ取る。アキトが見る。
「それ好きなのか」
「昔から好きだったのかもしれない」
「昔?」
「分かんない」
大和は笑った。齧る。甘い。少し酸っぱい。やっぱりリンゴに似ている。
リンゴなのかもしれないし、まったく違うものかもしれない。昔から残っていたものなのか、途中で変わったものなのか、誰かが新しく作ったものなのか、今は分からない。それでよかった。
答えはない。だが、一つだけ以前とは違う。もう大和は、それを異世界の果物とは思わなかった。大和は実を食べながら棚を見る。
水、食料、道具、記録。数日前には、なくなりかけていた。今は、誰かが確認して、誰かが運んで、誰かが書いて、残っている。昔からあるものも、今作ったものも、何もしなければ、いつかなくなる。残すなら、誰かが続けなければならない。
そこまで考えて、大和は少し笑った。
「何?」
アキトが聞く。
「何でもない」
大和は最後の一口を食べた。種が手の中に残る。捨てようとして、少し止まった。
「これ植えたら生えるかな」
アキトが種を見る。
「知らない」
「やってみる?」
「好きにすればいい」
「じゃあドランに聞こう」
「何でドラン」
「何となく知ってそう」
「畑の者に聞け」
「ああ。そっちか」
大和は種を捨てずに持ったまま外へ出た。ここが、昔と同じ世界なのか、昔からどれだけ変わったのか、まだ分からない。だが、全部なくなったわけではない。少なくとも、大和の手には、リンゴに似た味の実から取れた種が一つ残っていた。




