第31話 地図
翌朝、大和はいつもより早く目を覚ました。眠れなかったわけではない。ただ、目が覚めた瞬間に昨日の端末を思い出した。日本、ナノマシン、読める文字、動く画面。そこまで揃っているのに、まだ何も分かっていない。
大和は寝床から起き上がり、しばらく座ったまま考えた。昨日の最後に決めたことは二つ。ナノマシンについて調べる。そして、日本について調べる。どちらを先にするか。
少しだけ迷った。身体のことなら、ナノマシンだ。怪物へ刃を刺した時に何が起きたのか、なぜ自分は治るのか、知りたい。けれど――
「……日本だよな」
声に出した。昨日聞いたのは、確かにその言葉だった。もし本当に自分の知っている日本なら、その先にあるものは、自分の身体の謎よりずっと大きい。
◇
知識蔵には、すでにルシアンがいた。
「早いね」
大和が言う。
「お前も」
「寝れなかった?」
「寝た」
「俺も」
少し間が空く。ルシアンは昨日持ち帰った記録を整理していた。病院らしき施設、日本語、医療用ナノマシン、再生医療、大和には読める情報端末。どれも昨日まで存在しなかった情報だった。
「今日は日本から見る」
大和が言った。ルシアンは手を止める。
「昨日聞いた名前?」
「うん」
「大和のいた場所」
「国の名前」
そこへアキトも入ってきた。
「もう始めていたのか」
「まだ」
大和は立ち上がる。
「でも今日は、ちょっと怖い」
アキトが大和を見る。
「行きたくない?」
大和は少し考えた。
「行きたい」
それは迷わなかった。
「でも、何が出るか分かんないから」
昨日までとは違う。古代文明の正体を知りたい。ただそれだけではなくなっていた。
◇
白い区画へ着くまで、大和はあまり喋らなかった。シェルドも無理に話しかけない。ドランだけは途中で崩れた構造物を見つけ、しばらく立ち止まっていた。
「これ、あとで見てもいいか」
「今日は駄目」
大和が即答した。ドランが少し驚く。
「お前が言うのか」
「今日は端末」
「分かった」
病院の入口が見えてくる。赤い十字は、昨日までは珍しい一致にすぎなかった。今日は違う。あれも、本当に自分が知っているものなのかもしれない。
そう思うと、見慣れた形が急に不気味に見えた。大和が扉に触れると、音が鳴り、光が走って扉が開く。五人は昨日見つけた端末の部屋へ向かった。
途中に並ぶ扉、色分けされた通路、人が横になる設備。どれも昨日と同じだ。だが、大和の見方だけが変わっていた。昨日までは『異世界にも似たものがある』だったのが、今日は『本当に似ているだけなのか』になっている。端末の部屋へ入ると、大和は一番奥の端末に手を置いた。
――ピッ。
画面に光が入り、昨日と同じく日本語の文字が表示された。大和は少し息を吐いた。何度見ても読める。
偶然ではない。
「報道記録」
大和は画面に触れた。大量の情報が開く。昨日はそこで止めた。今日は探す。
「検索できるかな」
画面を見ながら、使えそうな場所を探す。虫眼鏡のような記号、その横に文字入力らしき欄。
「多分これ」
触れると画面の一部が変わり、文字を入れるための表示が出た。ただし、大和の知っているキーボードではない。
「どうするんだこれ」
しばらく触っていると、入力候補が現れた。指で文字を選べる。大和は「日」「本」と一文字ずつ入力した。画面が変わった。
「出た」
表示された一覧は膨大だった。ニュース、行政情報、医療、経済、災害、文化、スポーツ、大和の知らない組織名、知らない人物名。そのすべてに、日本という言葉が普通に使われている。
「同じ名前が一個あるとかじゃないな」
誰に言ったわけでもない。ルシアンが聞く。
「何が」
「日本って言葉が、普通に出てくる」
大和は一つの記事を開いた。映像が始まる。空から見た土地、海、島。大和は数秒、何も言わなかった。画面の中央、細長く伸びた島々、北海道、本州、四国、九州。
「……嘘だろ」
アキトが画面を見る。
「知っている?」
大和は答えなかった。画面へ近づく。形が少し違って見える場所もある。海岸線、都市、埋め立てられた場所。それでも間違えない。
学校でも、テレビでも、天気予報でも、何度も地図で見た。
「日本だ」
声が小さくなった。
「これ、本当に日本だ」
画面に文字が重なる。日本列島。大和には読める。さらに地名が表示される。東京、大阪、北海道、九州。
「東京……」
大和は指で触れた。東京周辺が拡大される。そこに映った都市は、大和の知っている東京とは違った。建物、道路、巨大な構造、海岸線、交通網。知らないものばかりだ。
それでも地形は同じだった。大和は画面から目を離せなかった。
「俺の知ってる東京じゃない」
シェルドが聞く。
「違うのか」
「場所は同じ」
大和は画面を指す。
「でも、こんな街じゃなかった」
「昔の記録では?」
大和は一瞬止まった。シェルドからすれば当然の疑問だ。この施設を古代文明のものだと思っているなら、大和の時代より古い可能性もある。だが、大和には、自分の知っている東京より進んでいるように見えた。ただ、それだけでは証拠にならない。
「日付」
大和が呟いた。
「日付?」
「ニュースなら、いつの情報か書いてあるはず」
画面の端を見る。数字で記された年月日を、大和は一度読み、もう一度読み直した。
間違っていない。
「大和?」
アキトが呼ぶ。
「これ……」
大和は数字を指す。
「俺が寝た後だ」
「どれくらい」
大和は答える前に計算した。簡単な引き算だった。それでも時間がかかった。
「百年以上」
部屋が静かになった。
「俺が眠った年より、百年以上あと」
もう一度画面を見る。そのニュースが作られた時点で、大和はすでに眠っていた。少なくとも、自分の時代より未来だ。
「じゃあ」
アキトが言う。
「この建物も、その頃のもの?」
「分からない」
大和は首を振る。
「もっと後かもしれない」
画面には記事の日付しかない。施設がいつ建てられたか。都市がいつ滅びたか。現在がいつなのか、それはまだ分からない。
だが、もう目を背けられない事実が一つある。大和は検索画面へ戻り、今度は「地球」と入力した。
結果はすぐ出た。気候、宇宙開発、地球環境、人口、衛星、海洋、大量の記事。一つを開くと、青い球体、雲、海、大陸――宇宙から見た地球の姿が現れた。大和はそれを知っていた。
教科書でもテレビでも、何度も見た。
「……地球だ」
誰も言葉を挟まない。大和は椅子に座り、しばらく画面を見ていた。「異世界」という言葉が頭に浮かぶ。
森、亜人、怪物、自分の身体。何もかも、自分の知っている世界ではあり得なかった。だからそう考えた。死んだ。別の世界へ来た。
神様が怪物を倒す力をくれた。それが一番分かりやすかった。だが、違った。大和は死んでいない。別の世界にも来ていない。
ずっと、ここにいた。
「……俺、転生してないじゃん」
誰も意味を理解できなかった。大和は少し笑おうとした。うまく笑えなかった。
「何だったんだよ」
神様、異世界、勇者、全部。自分が勝手にそう思っていただけだ。観測したものは本物だった。森も、怪物も、亜人も、遺跡都市も。間違っていたのは、その意味だった。ルシアンが静かに聞いた。
「ここは、大和がいた場所?」
大和は画面を見る。日本列島、地球、自分の時代より後の日付が揃っている。
「うん」
少し間を置く。
「俺がいた世界だ」
その言葉を口にして初めて、別のことに気づいた。ここは、俺がいた世界だった。大和は画面から目を離した。
「じゃあ……」
家、家族、自分が暮らしていた町、病院、友達、知っている店、見慣れた道路、全部。この世界のどこかにあった。異世界へ飛ばされたのなら、元の世界は残っている。自分だけがそこから離れた。そう思えた。
だが、ここが未来の地球なら、元の世界は残っていない。時間が過ぎた。自分だけが置いていかれた。大和は急に立ち上がった。
「検索」
大和は端末に触れた。
「何を探す」
ルシアンが聞く。大和は答えなかった。自分の住んでいた場所。入力しようとする。指が止まる。
家族の名前。入力すれば何か出るかもしれない。病院、自分が眠った施設。それも探せるかもしれない。知りたい。
だが、もし何も出なかったら。もし出たら。どちらも怖い。大和は手を下ろした。
「今日は……やめる」
シェルドは何も言わなかった。ルシアンも止めない。アキトが大和の隣へ来た。
「帰る?」
その言葉に、大和は少しだけ反応した。一瞬、どこへ帰るのかと思ったが、アキトが言っている場所は分かっている。
村だ。アビナがいる。レティがいる。ノルアがいる。知識蔵がある。
自分が寝起きしている家がある。大和は息を吐いた。
「うん」
端末の画面を消す。
「帰ろう」
◇
村へ戻ったのは夕方だった。アビナが最初に大和たちを見つけた。
「おかえりニャ」
いつもと同じ。レティも来る。
「今日は何か分かった?」
大和は二人を見る。猫の耳、犬の耳、尻尾。少し前まで、異世界に来た証拠だと思っていた。今は違う。何なのかはまだ分からない。
どうしてこんな姿の者たちがいるのか、何が地球で起きたのか、何一つ答えはない。それでも、アビナはアビナだった。レティはレティだった。自分を受け入れてくれた。一緒に飯を食った。
水車を作った。怪物と戦った。カダへ行った。道を戻した。それまでの時間が、世界の正体一つで消えるわけではない。
「ヤマト?」
アビナが首を傾げる。
「何でもない」
大和は少し笑った。今度は普通に笑えた。
「ただいま」
知識蔵へ入る。今日分かったことを記録する。古代文明で使用されていた言語・文字は、大和が使用していた日本語と同一。日本という国名を確認、日本列島の地形を確認。東京など、大和の知る地名を確認。
記録の日付は大和が眠りについた時代より後、地球という名称と、宇宙から見た地球の映像を確認。ルシアンが最後に聞いた。
「結論は?」
大和は少し考えた。もう仮説ではない。これだけ揃えば、違う世界という説明はできない。大和は言った。
「ここは異世界じゃない」
ルシアンが書く。大和は続けた。
「地球だ」
もう一つ。
「俺がいた時代より、ずっと後の」
そこまで言って、大和は止めた。どれだけ後なのかはまだ分からない。分からないものを決めないことも覚えた。その夜、大和は村の外へ出た。暗い森の遠くに、遺跡都市の影がある。昔なら異世界の景色だと思ったが、今は地球だ。
自分が生まれた星、自分が家族と暮らした場所。そして、知らないうちに、こんな世界になった場所。大和はしばらく立っていた。帰る場所がなくなった。そう思うと、胸の奥が重くなる。
だが、背後から声がした。
「ヤマト」
振り返る。ノルアがいた。
「何してるの?」
「ちょっと見てた」
「何を?」
大和は森を見る。
「俺の世界」
ノルアには意味が分からないらしい。大和はそれ以上説明しなかった。明日、みんなに話せばいい。今は、もう一度だけ村を見る。灯りがあり、声が聞こえ、誰かが夕飯の片付けをしている音がする。ここに帰ってきた。それだけは、間違っていなかった。




