第30話 文字
「日本では――」
昨日聞いた言葉が、大和の頭から離れなかった。知識蔵へ戻ってからも、何度も思い返した。聞き間違いだったのではないか。古代文明にも、たまたま同じ音の地名があったのではないか。そもそも、自分たちが同じ言葉を使っている時点で、似た名前が存在しても不思議ではないのかもしれない。
考えれば考えるほど、説明はいくらでも作れた。だが一つだけ、確かめられることがある。翌朝、大和は知識蔵へ入るなり言った。
「画面が動くやつを探したい」
シェルドが地図から顔を上げる。
「昨日の装置か」
「うん。声が俺と同じ言葉なら、文字も同じかもしれない」
ルシアンの手が止まった。
「読めるか確認する?」
「それ」
昨日の端末は画面が完全に死んでいた。音声しか残っていない。だから「日本」という言葉を聞いても、それ以上確かめる方法がなかった。
「もし文字まで同じだったら?」
アキトが聞く。大和は少し黙った。
「分かんない」
本当に分からなかった。ただ、それを知らずにいられるほど気楽でもなかった。
「昨日の建物には、同じような黒い板がたくさんあった。全部壊れてるとは限らないと思う」
ドランも頷いた。
「内部まで電気が残っているなら、動くものは他にもあるだろう」
「電気かどうかは分からないけど」
「お前の言葉ではそういうものなんだろう」
「多分」
大和は少し笑ったが、昨日までのような軽さはなかった。目的が変わった。古代文明を見るためではない。確かめるために行く。
◇
白い区画へ着くと、入口の扉は今日も大和の接触で開いた。昨日までなら、それだけで少し嬉しかった。今日は気にならない。大和は真っ直ぐ昨日の端末へ向かった。黒い画面。
大和が触れると、昨日と同じように小さな音がして、しばらくして音声が流れ始めた。
『――本日の気象情報です――』
「今日は天気か」
画面はやはり暗いままだ。大和は端、側面、下と何度か表面に触れたが、何も変わらない。
「これは駄目だな」
「昨日の情報をもう一度聞く?」
ルシアンが聞く。
「選べるなら聞きたいけど、選べない」
流れてくる情報に規則性はない。昨日聞いたナノマシンのニュースも、日本という言葉も、もう一度出てくる保証はなかった。
「別のを探そう」
五人はさらに奥へ進んだ。
◇
端末らしいものは、予想以上に多かった。通路の角、部屋の入口、壁の一部。診察室らしき小部屋にもある。大和は見つけるたびに触れて試した。何も起きないもの、音だけ鳴るもの、一瞬光って消えるものがあり、黒い面に細い亀裂が走っているものもあった。
「古代文明も結構壊れるんだな」
大和が言う。ドランが壁際の端末を覗き込んでいた。
「百年か千年かも分からない」
「そうだった」
時間すら分からない。どれほど昔の文明なのか、いつ滅びたのか、何一つ知らない。それなのに、昨日聞いた声だけは大和の知っている言葉だった。さらに進み、昨日は調べなかった区画へ入った。
扉の向こうには細い通路があり、左右に小さな部屋が並んでいた。そのうち一つだけ、扉が半分開いている。大和が中を覗く。
「ここ、ちょっと違うな」
今までの部屋には、寝台や治療器具らしきものがあった。ここにはない。代わりに、壁沿いへ黒い面が何枚も並んでいる。中央には椅子らしきものがあり、奥には大きな一枚の黒い板があった。
「何する部屋?」
「情報を見る場所かもしれない」
ルシアンが言った。大和もそう思った。
「当たりだったりして」
一番近い端末に触れる。反応なし。二つ目も何もない。三つ目からは短い音が鳴り、期待したが、それだけだった。
「駄目か」
奥、最後の一台。表面には目立った亀裂がない。大和が手を置いた。
――ピッ。
小さな音、その直後、黒かった面の奥から、淡い光が広がった。大和は手を引いた。
「おお」
全員が止まる。画面が生きている。最初は白い光だけだったが、やがて細い線が現れ、形や記号を作った。
そして、文字が現れた。大和は画面を見たまま動きを止めた。
「……読める」
ルシアンがすぐ横へ来る。
「何て書いてある」
大和は画面を見る。一番上に「院内情報端末」、その下に「診療案内」、さらに「医療情報」「研究資料」「報道記録」「施設案内」と並んでいる。大和は一つずつ読んだ。
「病院の中で使う情報端末……みたいな感じ」
アキトが画面を見る。
「昨日の声と同じ言葉?」
「うん」
「似ている?」
大和は首を振った。
「似てるんじゃない」
画面の文字を指す。
「これ、日本語だ」
言ってから、自分でも少し驚いた。昨日までは、同じ言葉に聞こえる。日本という名前が出てきた。そこまでだった。今は違う。
漢字。ひらがな。大和が生まれてからずっと使ってきた文字。見間違えようがない。
「これ、俺が使ってた文字そのものだよ」
誰もすぐには答えなかった。ルシアンだけが記録板に書いている。
「古代文明の文字を大和が読める」
「そうなんだけど……」
大和は画面を見た。それだけ書くと、何か違う。
「読めるっていうより、普通なんだよ」
「普通?」
「俺にはこれが普通の文字なんだ」
生まれてから、学校で習って、家で見て、街で見て、病院でも見た。文字として解読しているのではない。ただ読んでいる。その事実が、昨日の「日本」という言葉をさらに重くした。
◇
画面の下部にいくつかの小さな記号がある。大和が試しに「施設案内」と書かれた部分に触れた。表示が変わった。
「動いた」
地図らしきものが現れる。白い区画全体、複数の建物、通路、階層が色分けされており、昨日まで歩いた場所と形が一致している。
「これ地図だ」
ルシアンがすぐ覗き込む。大和は表示された文字を読む。
「外来……検査……処置……病棟……研究区画……」
ここが病院であることは、もうほぼ間違いない。昨日まで「そう見える」だけだったものが、文字によって役割を持ち始めた。寝台が並んでいた場所は病棟、小部屋が続いていた場所は検査区画、透明な箱が並んでいた場所は薬品管理と表示されている。
「全部書いてある」
大和は画面を操作した。触れるだけで反応し、少し使うと、何となく構造が分かってきた。画面を戻し、項目を選び、一覧を見る。現代の端末とは見た目がまるで違うが、考え方まで理解不能というわけではない。
「使える?」
シェルドが聞く。
「多分」
大和は最初の画面へ戻った。診療案内、医療情報、研究資料、報道記録。
「これ」
報道記録を指す。
「昨日流れてたニュース、ここにあるかもしれない」
ルシアンが言った。
「探せる?」
「やってみる」
触れると表示が変わり、大量の項目が並んだ。大和は思わず黙った。
「何?」
アキトが聞く。
「多い」
一画面では収まらない。横へ指を動かすと、見出しや短い説明、小さな画像を伴う項目が次々に送られていく。その多くが大和には読める。
「ニュースが保存されてる」
「昨日のものも?」
「多分」
大和は画面を探した。医療、技術、社会、経済、生活、災害。大量にある。いつの記録なのか、どれほどの期間なのかは、まだ分からない。ただ一つ分かったのは、昨日は壊れた装置が勝手に選んだ情報を聞くしかなかったが、今日は自分で選び、知りたいものを探せるということだった。
「すごいな」
大和が呟いた。ルシアンが聞く。
「何が」
「ここに来れば、古代文明のこと調べられる」
建物を見るだけではない。推測するだけでもない。ここには、当時の者たち自身が残した情報がある。
◇
大和は一度、報道記録を閉じた。気になることが多すぎる。何から見るか決めた方がいい。
「まず昨日の話を探そう」
「ナノマシン?」
ルシアンが聞く。
「うん」
大和は「医療情報」を選んだ。また大量の項目が並び、その中に「再生医療」という文字を見つけた。指が止まる。
さらに、その下には「医療用ナノマシン」と表示されている。大和はしばらく画面を見た。
「ある」
アキトが聞く。
「昨日聞いたもの?」
「多分」
触れると、今度は文章だけでなく映像も現れた。透明な立体図、細胞のような丸い構造。その間を、小さな点が大量に動いている。
音声も流れる。
『医療用ナノマシンは、損傷組織の状態を検出し――』
昨日とは違い、ニュースではなく説明資料らしい。大和は食い入るように見る。映像の中で、傷ついた組織が少しずつ繋がっていく。
その周囲から材料らしいものが移動してくる。
「……俺みたいだ」
思わず口にした。アキトが大和を見る。大和は自分の腕を見る。傷が治り、骨が戻り、身体が変わる。もちろん、目の前の資料が自分の身体と同じだとは決まっていない。
だが、昨日聞いたニュースより、はるかに自分の身体へ近い。大和は表示を止めた。
「今日はここまでにしない?」
シェルドが少し意外そうに見る。いつもなら先へ行きたがるのは大和だ。
「何で?」
「ちゃんと見たい」
大和は画面を指した。
「これ、適当に見たら駄目な気がする」
ルシアンも頷く。記録する量も多い。一つずつ内容を整理する必要がある。ドランが別の端末を確認しながら言った。
「これが壊れたら終わりだ」
「それもある」
大和は端末に触れた。操作を止めると、画面は暗くなった。完全に消えたわけではない。薄い光だけが残る。
「明日も動くかな」
「大和が触れば」
ルシアンが言う。
「そうだといいけど」
大和は少し離れた。出口へ向かいかけて、一度だけ振り返る。昨日、声を聞いた。今日は、文字を読んだ。そして、映像まで見た。
「古代文明」と呼んできたものが、急に自分から遠い存在ではなくなってきた。分からない記号を使う誰かではない。自分と同じ言葉を話し、同じ文字を書き、日本という名前を知っている。大和は歩きながら言った。
「明日、ニュースも見よう」
シェルドが聞く。
「何を調べる」
大和は少し考えた。
「日本」
昨日聞いた言葉。それを、今度は自分で探す。
「それと」
大和はもう一度、自分の右腕を見た。
「ナノマシン」
日本とナノマシン。今まで別々だった二つの疑問が、同じ端末の中へ入っていた。




