第2話 怪物
枝が顔に当たった。大和は構わず走り、草を踏み潰し、木の根を飛び越えた。
背後の音が離れない。ばき、ばきばきと、怪物は進路の木を押し倒して追ってくる。
「なんなんだよ、あれ!」
速度を上げる。石や根だらけの地面でも、足は勝手に着地点を選んだ。倒木が見えた時には、もう踏み切っていた。先ほどより高く跳び越え、ほとんど速度を落とさず走り続ける。
「おいおい……」
自分の身体に驚いている暇はなかった。すぐ後ろで低い唸り声がした。
横へ飛ぶ。
黒い塊が、直前までいた場所へ突っ込んできた。土が飛び散り、怪物の前脚が木の幹へめり込む。そのまま幹が折れた。
「当たったら死ぬだろ、あれ」
怪物がゆっくり向きを変えた。
近くで見ると、六本の脚はますます不揃いだった。一本だけ妙に太く、別の一本は途中で二股に分かれている。黒い硬そうな皮膚の間から赤黒い肉が露出し、背中の肉塊が脈打っていた。
顔がどこなのかも分からない。ただ、いくつもの目だけがこちらを見ている。
「……話し合いとか」
大和は後ずさった。
「できる見た目じゃないよな」
怪物が動いた。走り出そうとした大和の横へ、何かが飛んでくる。腕か脚か、見分ける前に左腕で受けていた。
「――っ!」
身体が回転し、地面へ叩きつけられた。転がった先で木の根に背中をぶつけ、ようやく止まる。
左腕が熱かった。
肘から先の肉が裂けている。めくれた皮膚の下に赤い筋肉と白い骨が見えた。血が地面へ落ちていく。
「ぐ、ああっ……!」
激痛に腕を押さえた。救急車を呼ばなければ。止血をしなければ。頭の中を言葉だけが駆け巡った。
ここには病院も、助けてくれる人もいない。
顔を上げると、怪物が近づいていた。
「こんなの……」
せっかく目が覚めた。癌の痛みもなくなった。何年眠ったのかも、家族がどうなったのかも、まだ何一つ聞いていない。
「こんなところで死ねるかよ」
左腕を抱えて立ち上がり、走った。
数歩、十歩と進むうちに、痛みが薄れた。動かせば悪化するはずなのに、血も止まりかけている。
「え?」
走りながら見た傷口が動いていた。裂けた肉の端から赤い組織が伸び、互いに繋がっていく。
大和は足を緩めた。
「何だ……これ」
露出していた骨が覆われ、その上を皮膚が閉じる。長くても十数秒ほどで、傷は消えた。血の汚れだけが残っていた。
腕を曲げ、指を握る。動く。痛みもない。
「……は?」
背後の咆哮で我に返った。
「うわっ!」
地面を蹴ると、横へ数メートルも飛んだ。怪物が空振りする。着地してよろめいたが、転ばなかった。
「治った……?」
怪物の背中が膨らんだ。嫌な予感がして走ると、背後の木に何かが突き刺さった。長い骨の棘が、幹を貫いている。
「飛ばすのかよ!」
近づいても、離れても危ない。だが、このままどこまで逃げればいい。森を抜けた先に人がいるかどうかも分からない。
また棘が飛んだ。身体を低くすると、頭上を通り過ぎていく。
見えていた。避けられた。
目覚めてから身体がおかしい。疲れず、高く跳べて、傷まで治る。未来の治療で何をされたのだろう。
太い木の裏へ回り込んだが、怪物は木ごと突っ込んできた。
「ダメだ」
相手の方が速い。障害物も役に立たない。いつ諦めるかも分からない相手から、逃げ続けることはできそうになかった。
落ちていた太い枝を拾い、両手で構えた。手が震えた。
「やるしかないのか……?」
怪物の向こうで、今しがた折れた木が倒れた。
「いや無理だろ」
枝で何ができる。喧嘩もろくにしたことがないのに。
怪物が脚を曲げた。
「来るな」
通じるはずがない。それでも声が出た。
「来るなって!」
突進に合わせて枝を振る。前脚にぶつかった途端、枝が折れ、大和は後ろへ弾き飛ばされた。
地面へ叩きつけられ、息が止まる。立とうとした時には、怪物が目の前にいた。口らしい裂け目が開き、内側に白い歯が並んだ。
後ろへ這った背中が木に当たる。
もう逃げられない。
病室で、治療法がないと聞いた時の感覚が戻ってきた。何もできず、ただ死ぬのを待つしかない。あれを、またやるのか。
「ふざけんな」
怪物が覆い被さってきた。
「一回死にかけてんだぞ、こっちは!」
右手を突き出した。止められるわけがないのに、そうせずにはいられなかった。
「もう一回なんか――」
腕が熱くなる。
「――死ねるか!」
皮膚の下で何かが動いた。腕全体が内側から押し広げられ、骨の軋む音がした。
「ぐっ……!」
筋肉が盛り上がり、指先まで痺れた。噛みつこうとする怪物へ腕を振ると、硬い感触が返ってきた。
黒い液体が飛んだ。怪物の頭部が横へ弾かれ、身体ごと倒れる。
大和は右腕を見た。
「……何だよ」
肘の少し下から、白いものが伸びていた。骨に見える。それが皮膚を押し分け、三十センチ以上もある刃物の形になっている。
「俺の……骨?」
震える左手で触れようとした時、怪物が立った。頭部に深い傷があり、黒い液体が流れていた。
「切れた……」
大和も立ち上がった。怖さは消えないが、腕を前に出して構えることはできた。
怪物をぎりぎりまで引きつけて横へ避け、右腕を振った。肉を裂き、硬いものを断ち切る感触。脚が一本落ち、怪物が倒れた。
「いける!」
距離を取り、切断面を見た。
赤黒い肉が盛り上がっている。糸のようなものが伸び、骨ができ、その上を肉が覆っていく。
「……お前もかよ」
自分より速かった。数秒前に切り落とした脚で、怪物が再び立つ。頭部の傷も塞がっていた。
「どうやって倒すんだよ……」
襲ってくる怪物を避け、胴を斬った。また治る。飛んできた棘を避けきれず、今度は大和の肩が貫かれた。
「がっ!」
棘を引き抜くと、その穴も塞がり始める。
互いに傷を負っては治った。だが大和には痛みも、少しずつ溜まる疲れもあった。頭を潰されても治るのか、心臓を砕かれても平気なのか。試せるはずがない。
「一発で……動けなくするしかない」
呼吸を整えた。首か、頭か、心臓か。どこが急所なのかさえ分からない。ならば、できるだけ深く壊すしかない。
右腕の刃へ意識を向けた。もっと深く切れるものが欲しい。こいつを倒せるものを。
腕に熱が走った。
白い刃が太くなり、滑らかだった表面に細かな筋が走る。先端が鋭く伸びた。
大和は踏み込んだ。怪物の攻撃で左肩を抉られたが、止まらなかった。治る。そう言い聞かせ、歯を食いしばった。
「おおおおおっ!」
右腕を胴体へ深く突き刺した。白い先端が反対側から突き出る。暴れる怪物から腕を抜き、そのまま横へ薙いだ。
胴が大きく裂け、黒い液体が溢れた。怪物が崩れ落ちる。
大和は数歩下がった。左肩が治っていくのを感じながら、荒い息を吐く。
「これなら……」
傷口が動き始めた。
「やっぱり……」
また立ち上がるのか。
だが、伸びかけた組織が途中で止まった。もう一度動こうとして、崩れる。黒く変色した肉が、ぼろぼろと地面へ落ちた。
怪物が大きく震え、声を上げた。それまでの咆哮とは違い、悲鳴に聞こえた。
脚で傷口を掻いている。肉が伸び、崩れ、また伸びては崩れた。
「何が……」
近づけなかった。怪物は木へぶつかり、地面を掻き、激しく暴れた。背中の肉塊が脈打ち、白い突起が伸びたり縮んだりしている。
その目が大和を向いた。
怖い。けれど一瞬、その目の中にも何かの感情があるように思えた。
「……?」
前脚が伸びてきた。身構えたが、脚は届かず地面へ落ちた。
身体が崩れていく。傷を治そうとするたびに組織が壊れ、やがて動きが止まった。
大和は刃を向けたまま待った。一分、二分。怪物は起き上がらない。
「……死んだ?」
一歩ずつ近づき、刃の先で触れた。反応がなかった。
その場に座り込む。
「勝った……?」
切った脚まで戻る相手だった。最後の傷だけが治らなかったのは、深さのせいか、斬った場所か。それとも、刃が変わったからなのか。
「何なんだよ……」
右腕に違和感があった。白い刃が、身体へ引き込まれるように縮んでいる。盛り上がった筋肉も戻り、皮膚が閉じた。
数十秒後には、傷跡すら残らなかった。
大和は手を握って開いた。どこから見ても自分の手なのに、さっきまでと同じものには思えない。
「俺……」
醜く歪んだ死体と、元に戻った腕を見比べる。傷が治るだけではなかった。力も速さも、身体の形さえ変わった。
「……何になったんだよ」
震える息を吐いた。森には、鳥の鳴き声が戻り始めていた。




