第1話 目覚め
暗い。
藤原大和は何度か瞬きをした。目を開けているのか閉じているのか、それすら分からなかった。
すう、と空気を吸う音がする。自分の呼吸だった。周囲が静かすぎて、妙に大きく聞こえる。
機械も空調も動いていない。人の声もしなかった。病院では、夜中でも遠くを走る台車や誰かの咳、ナースステーションの電子音が聞こえていたはずだ。
「……あれ?」
少し掠れた声が返ってきた。思ったより楽に声が出たことに、大和は戸惑った。
喉が痛くない。胸も苦しくない。
胸から腹、脇腹へと手を滑らせる。何度触っても、あの痛みがなかった。
「治った……?」
白い病室を思い出した。医者の向かいに座る母親の目が泣き腫らしていた。父親は何度も同じ質問を繰り返した。
――他に方法はないんですか。
答えは変わらなかった。
癌が見つかった時には、もう治療の手立てがなかった。病気は進み、最後に提示されたのは、身体を低温状態で保存する方法だった。治療技術が進歩するまで待ち、未来で蘇生させる。
いつになるのかも、本当に目覚められるのかも分からない。それでも大和は受け入れた。死ぬよりはましだと思った。
最後の日、母親が手を握っていた。
「ちゃんと起きてよ」
冗談めかして言おうとして、途中で声を詰まらせた。父親は何も言わず、大和の肩を叩いた。
そこから先の記憶がない。
「じゃあ……」
身体を起こそうとした途端、額を何かにぶつけた。
「痛っ!」
反射的に伸ばした指先が、冷たく滑らかな表面に触れた。金属だろうか。手を横へ滑らせると、すぐ壁に当たる。反対側も、足の先も狭かった。
「カプセル……?」
まだコールドスリープ装置の中にいるらしい。それなら暗いのも分かるが、照明くらい点いていないのだろうか。
大和は内側を手で探った。指先に僅かな段差がある。ボタンかと思って押したが、反応はなかった。もう一度、今度は強めに押す。
「おい……」
別の場所を探しても同じだった。
「まさか壊れてるとかないよな」
笑おうとして、うまくいかなかった。両手を前へ伸ばし、蓋らしきものを押す。力を込めても動かない。
「ちょっと待てよ」
急に狭さが気になった。暗いまま、誰にも気づかれず閉じ込められている。呼吸が速くなる。
「冗談だろ」
さらに押すと、ぎ、と音がした。
大和は手を止めた。動いた気がする。もう一度押すと、今度ははっきり軋みが伝わってきた。
「開く……?」
全身に力を入れた。
ばきん、と何かが折れ、蓋が大きく傾いた。
大和は隙間から身体を抜き出した。周囲はまだ暗かったが、遠くに光が見えた。
夢中でそちらへ進んだ。眩しさに目を細め、頬に風を感じて、ようやく外へ出たのだと気づく。
目の前は森だった。
両腕を広げても届かないほど太い木々に、蔓が絡んでいる。地面は植物に覆われ、頭上から木漏れ日が降っていた。鳥らしき声まで聞こえる。
「……何これ」
大和は辺りを見回した。道路も、人の姿も見当たらない。
「おーい!」
返事はなかった。
「誰かいませんかー!」
森の奥から鳥が飛び立った。
大和は近くの木に背を預けた。顔を上げて待っていたが、誰も来ない。
ふと足元を見た。ここまで普通に歩いてきた。今もふらつかずに立っている。
何日寝ていたのか知らないが、長く眠っていた人間がこんなに動けるものなのか。医学には詳しくない大和にも、妙に思えた。
幹から背を離し、膝を曲げ伸ばしする。むしろ身体が軽い。癌になる前より、これまで生きてきた中で一番調子がいい気さえした。
「……すげえな、未来医療」
笑いが漏れた。治してくれたのだろう。生きていて、痛みもない。まずは喜んでいいはずだ。
それにしても、ここはどこだ。
治療のためにどこかへ移されたのか。それなら知らない場所にいてもおかしくないが、こんなところに放り出す理由が分からない。
医者でも研究者でも、管理者でもいい。自分を起こした誰かがいるはずだ。
大和は腕を組んだ。困った。どう考えても困った状況なのに、外に出ると幾らか気が楽になっていた。
今は身体が動く。探しに行ける。
「まあ、人を探すしかないか」
大和は木々の間へ足を向けた。
何がいるか分からないので、太めの枝を拾った。蛇や猪ならともかく、熊には役に立ちそうもない。試しに一振りする。
「まあ、ないよりはましか」
十分、二十分と歩いても、森は途切れなかった。
やがて大和は立ち止まり、自分の呼吸を確かめた。ほとんど乱れていない。足場の悪い山道を歩いているのに、疲れてもいなかった。
「体力も戻ったってことか」
未来医療すげえ。またそう考えて歩き出した。
腰より高い倒木が行く手を塞いでいた。迂回しかけたが、面倒になって手をついた。
「よっと」
飛び越え、二歩進んで止まる。
「……今」
振り返って倒木を見た。ほとんど助走もしていない。
「こんな跳べたっけ?」
戻って軽く膝を曲げ、もう一度跳んでみる。今度も余裕をもって越えられた。
「……おお」
少し嬉しくなった。
「治療ついでに身体能力まで上がったとか?」
癌を治せる時代だ。それくらいできてもおかしくない気がする。試したくなったが、太陽の位置が変わっているのを見て先を急いだ。
腹も減ってきた。木に実はあるが、見たことがない。毒だったら困る。水も要る。
「やっぱ人探さないとまずいな」
その時、森が静かになった。
足を止める。風に葉が擦れる音はする。さっきまでの鳥や虫の声だけが、急に聞こえなくなっていた。
何かいる。
大和は枝を握り直した。
「熊とかやめてくれよ」
前方の茂みが、ざ、と揺れた。続けて大きく揺れ、奥から黒いものが出てくる。
最初は頭かと思った。脚だった。太く、節があり、昆虫の脚にも似ている。ただし、大きさがまるで違う。
さらに一本、もう一本。茂みを押し分けて、胴体が現れた。
大和は口を開けたまま動けなかった。
黒ずんだ巨大な胴には、白い骨のような突起が露出している。脚は四本――いや、六本。左右で長さも太さも揃わず、背中には使い道の分からない肉塊が盛り上がっていた。
頭らしき場所に、目があった。一つ見つけると、その横にも、さらに離れたところにも見つかった。
その目が順番に、大和へ向いた。
枝が手から落ちる。
「……何だよ」
声が震えた。
「それ」
互いに動かなかった。数秒か、もっと長かったか。大和が少し後ろへ下がると、相手の脚が動いた。
止まる。相手も止まった。
心臓の音がうるさい。未来の動物か、と思いかけて、その考えは消えた。知っているどんな動物にも重ならない。
怪物。その言葉しか浮かばなかった。
もう一歩下がると、怪物の身体が低く沈んだ。
「……まさか」
地面が爆ぜた。
考えるより先に背を向けていた。
「うわあああああっ!」
森の中を走る大和の背後から、木が折れる音が迫ってきた。




