第九話 事件
いつも通り、畑で鍬を振るう。
ここへ来てから、気づけば三週間ほどがたっていた。
最初は芋一本抜くのにもぜえぜえ言っていた俺だが、最近はどうにか息が上がらずについていけるくらいにはなってきた。
「そろそろ休憩にしよっか」
ユイリーがそう声をかけてくれて、俺たちは畑の端に腰を下ろした。
「はい、アイト。お弁当」
促されるまま、腰に下げていた布袋から木の箱を取り出す。
手のひら二つぶんくらいの、小さな箱だ。
ふたを開けると、煮た芋と塩ゆでの野菜、それから昨晩の残りの炒め物が、ぎゅっと詰め込まれている。
「やっぱ便利だよねー、これ」
ユイリーが、嬉しそうに身を乗り出して箱の中をのぞき込んだ。
「いっつも干し肉とか、そのまま持ってきてたし。これならお野菜とかも崩れないで持ってこれるもんね」
ユイリーは嬉しそうにそう言って笑う。
この木で作った弁当箱は、ここ数日の俺の成果だ。
木彫りをレンに教えてもらいながら、何度も失敗して、ようやく形になったもの。
角は少しいびつで、ふたもぴたりとは合わない。
それでも、中身を守るには十分だった。
「粗末な出来だけどね。木彫りもっと練習しないとなー」
そう呟くと、ユイリーは俺の言葉を聞き、嬉しそうに笑った。
「レンもアイトに慣れてきたみたいでよかったよ。相変わらずぶっきらぼうだけどなんだかんだ面倒見いいんだ、レンは」
ユイリーの言う通り、最近料理を手伝うようになって以来、レンと話す機会は増えた。
警戒心が解けたとは言い難い態度ではあるけど。
それでも出会った当初に比べれば、まともにコミュニケーションを取れるようになったのは喜ばしいことだ。
今は警戒心もあるけど、いつか普通に話して笑い合えるようになれたらいいが。
そんなことを取りとめもなく考えながら、俺たちは木の弁当箱を二人でつついた。
まだ今日のノルマは終わっていない。腹を満たしたら、また鍬を握って畑に戻らなければならない。
◇
日が少し傾きはじめたころ、俺たちはその日の畑仕事を切り上げた。
鍬を肩に担いで歩く土の道は、昼の熱気がゆっくり冷めていく途中で、足元からふわりと土の匂いが立ちのぼる。
「アイトの畑仕事もそろそろ板についてきたし、次は他のお仕事も考えないとねー」
ユイリーが、そんなことを言いながら俺の横を歩いてくる。
「他の仕事って、どんなのがあるの?」
鍬を肩に担いだまま尋ねると、ユイリーは指折り数えるように空を見上げた。
「えっとね、皮の加工とか、布を織ったりとか。あとは、森に行って木の実とか果物の収穫なんかかな」
「なるほど。いろいろあるんだな」
言いながらも、ひとつだけひっかかる。
「でも、森の中には狩人以外は入っちゃダメなんじゃなかったっけ?」
「そうなんだけどね」
ユイリーはくるりとこちらを向いて、にこりと笑った。
「狩人の人と一緒ならいいんだー。ちゃんと護ってくれる人がいれば大丈夫なの。こないだアイトを見つけたのも、その収穫で森に入ってたときなんだよ」
「そうだったのか……」
俺がファングァと命がけの鬼ごっこをしていたときに、ユイリーたちが森の中にいたのはそういう理由だったらしい。
もしあの時、ユイリーたちが収穫に出ていなければ、今ごろ俺はファングァの血肉になっていたのかもしれない。
そう思うと、背筋のあたりがぞくりと冷たくなった。
「まあ、今アイトができそうなのは森での収穫くらいかなー」
ユイリーは軽く笑ってそう言うと、すぐに肩をすくめて続けた。
「とは言っても、しばらくは森には入れないかもね。ファングァが集落の周辺をうろついてて危ないし」
ユイリーの言葉に、今朝レンが言っていた話を思い出す。
最近は、集落の周辺をうろついているファングァを討伐するために、集落のほとんどの狩人が森へ出払っているようだ。
危険だから、子どもはもちろん、大人も森には近付かないようにと言われている。
まさに厳戒態勢だ。あんな危なっかしい生き物が周辺をうろついているのなら、そうなるのも仕方のないことだろう。
レンのことだから心配はないと思うが、何事も起こらず、早期に解決することを祈っていた。
◇
集落のほうへ戻る道すがら、広場の手前で子どもたちの声が聞こえてきた。
「そこだー!」「やったなー!」
笑い声と、地面を蹴る軽い足音。
覗き込むと、小さな子たちが木の枝を剣代わりに振り回しながら、ぎゃあぎゃあと騒ぎつつ追いかけっこをしている。
石ころを並べて作った陣地を挟んで、「こっち側はオレの城だ」と言い合っている子もいた。
その様子を見ていると、胸の奥がふっと緩んだ。
森の向こうでは今狩人たちがファングァの件で忙しくしている。けれど、この広場には、それが遠い世界の出来事みたいな日常の気配が満ちていた。
そのときだった。
バサバサ、と乾いた羽音が、空気を裂くように響いた。
視線を上げると、集落の外れ、その先の森の一角から、鳥の群れが一斉に飛び立っていくのが見えた。
黒い影がいくつも、木々の上を払いのけるみたいに舞い上がる。
さっきまで穏やかだった胸のあたりが、きゅっと冷たくなった。
理由はわからない。ただ、胸の奥がざわつく。
さわさわ、と風に揺れる木の音が、さっきよりもずっと遠く、薄く聞こえた。
「ファングァだーーー!」
どこからか上がった叫び声が、広場のざわめきを一瞬で塗りつぶした。
さっき鳥たちが飛び立ったあたり――森の斜面の下のほうから、土煙を巻き上げながら、見覚えのある巨体が飛び出してくる。
背中には、数え切れないほどの矢が突き刺さっていた。
黒く固まった血が毛並みにこびりつき、口の端からはとろりとよだれが垂れ、ほとんど白目を剥いていた。
「……嘘だろ」
思わず、声にならない声が漏れた。
そいつは集落の外れで一度よろめき、ぐらりと体勢を崩しかける。
それでも足を止めることなく、スピードを落とさずに、一直線にこちらへ向かって走ってくる。
地面を踏みしめるたび、低く鈍い衝撃が足元から腹に響く。
さっきまで遊んでいた子どもたちが、その振動に気づいて悲鳴を上げ、ばらばらと四方へ駆け出した。
矢だらけの背中を揺らしながら、ファングァは転びそうになりながらも、それでも前へ前へと足を運び続けていた。
俺は息を呑んだまま、足を一歩も動かせなかった。
頭のどこかが、警鐘を鳴らしている。
――やばい。
それだけが、はっきりとわかった。
あんなもの、こんなところにいたらダメだ。
なぜ、ここにいる?
頭の中がぐちゃぐちゃにかき回される。
考えられる理由があるとすれば、狩人たちが――レンたちが、仕留め損ねたということだ。
視界の端に、小さな影が見えた。
反射的にそちらへ顔を向ける。
そこは、さっきまで子どもたちがちゃんばらをしていた場所だった。
まだ、ひとり残っていた。
慌てて走り出して転んでしまったのか、その子は地面にへたり込んでいる。
どうしていいのかわからないのか、その場でわんわん泣きじゃくっていた。
獣の進行方向。
そのすぐ先に、子どもはいた。
「アイトっ!!」
背中のほうで、ユイリーの制止するような叫び声が聞こえた気がした。
俺は、考える暇もなく駆け出していた。
こんなに全力で走るのは、たぶん人生ではじめてかもしれない。
荒い息に、情けない声が混じる。
それでも足を止めるわけにはいかなかった。




