第三十一話 日常
目を覚ますと、目の前に筋肉があった。
あまりにパワーワードだが、そう表現するしかない。
俺はガイに抱き寄せられ、まるで抱き枕のように扱われていた。
社宅に入って最初の朝からずっとそうだが、ガイは異様なほど寝相が悪い。毎回のように俺の寝床に侵入してくるのだ。
今朝から全力で締め付けられていて、最悪の寝起きである。
息をするたびに、胸板の硬さと腕の重さを全身で味わう羽目になっているのだから、もう笑うしかなかった。
そうしていると、突然ガイの唇が、ちゅぱちゅぱと動き始めた。
生々しい音がやけに耳に響く。
「え、ちょ、ガイさんー??」
ガイの顔が、ゆっくりとこちらへ迫ってくる。
夢でも見ているのか知らないが、本人はすごく気持ち良さそうな表情をしていた。
「ちょ、ま、ガイさんっ?!」
俺は慌ててガイの顔に手を押し当て、必死に押し返そうとする。
だが、筋肉だるまの腕力の前では、俺の抵抗などまるで意味をなさなかった。
「起きて、ガイさん! や、やめ――!」
情けない声だけが、社宅の狭い部屋にむなしく響いた。
◇
ヒブラギス商会の従業員として働き始めてから、数日の時が流れた。
やることと言えば、専ら荷物の運搬だ。
今日は露店に回す食材を荷車に詰め込む仕事がメインである。
現在、俺がいるのはヒブラギス商会が所有する倉庫の内の一つである、食品用の倉庫だ。
酒場の真向かいの位置にある。
先輩従業員たちが倉庫前の荷車へ、次々と食材を積み込んでいく。
俺は、必要な荷を仕分けし、並べていく担当している。
先輩たちから教えられた通りに並べ替えながら、数を間違えないように札の確認も怠らない。
肉体労働が中心とはいえ、こういう細かい動きも多く、覚えることは多い。
肉体労働だからある程度、過酷なものは想像していたが、体力だけではなく頭もある程度使うようだ。
俺は、非力だということと、細かい作業が向いているという理由で今のポジションにあてがわれている。
大変な仕事ではあるが、だいぶ現場の流れには慣れてきた。
荷を持ち上げ、運び、並べ直す。
その一連の動作にも、少しずつ無駄が減ってきている。
そうしているうちに、周囲の動きも自然と目に入るようになってきた。
肉体的にはまだまだだが、現場のだいたいの要領は掴み始めた頃だった。
「アイトー、いるか?」
荷の仕分けをしていると、現場にロンの声が響いた。
「どうしました?」
俺は手を止めてロンの方を向いた。
ロンがわざわざ現場まで出てくるのは、けっこう珍しい。
普段は帳簿と段取りで手一杯で、遠くから怒号だけ飛んでくることの方が多いくらいだ。
だからこそ、何かいつもと違う用事なんだろう――そんな予感が、少しだけ背筋を伸ばさせた。
「そろそろ帳簿の仕事も教えてやろうと思ってな。現場はとりあえずバカどもで足りてる。やってみるか?」
ロンが、軽く顎で酒場の方を指しながら言った。
「はい!」
俺は即答していた。
「お、やる気だな、アイト」
大きな荷物を両肩に乗せながら、ガイがニヤリと笑う。
「バカバカ言いやがってよー……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、周りの従業員たちは手を止めずに作業を続けている。
現場は現場のまま動き続け、その少し外側で、俺の仕事が一段階変わろうとしていた。
◇
酒場の二階に上がると、俺は早速ロンから手ほどきを受けることになった。
取引の内容や、動いた金額の記録。
在庫を数えて、入った分と出ていった分をきちんと帳簿に落とし込む作業。
数字を扱う仕事が中心だ。
俺はロンに教えてもらったように帳簿に数字を埋めていく。単純な計算でも仕事としてやるとやはり分量は多く、手間もかかる。電卓なんて気の効いたものもないのだからなおさらだった。
ロンはこれを毎日のようにこなし、そのうえで営業や交渉で外に出ているらしい。
教わるほど、ロンがどれだけのハードワークを一人で抱えていたのかが、少しずつ分かっていくのだった。
「これだけ計算できるなら、書式さえ覚えれば帳簿の仕事もある程度こなせそうだな」
ロンは、俺が書き込んだ帳簿を持ち上げて、ざっと目を通しながらそう言った。
数字の並びと字の形を一通り確かめてから、ふっと口元を緩める。
その何気ない一言が、胸の奥にじんわりと染みていく。
少しでも仕事が出来ると認めてもらえたようで安心する。
「こういう細々した仕事なら良くできそうだな。まあ、現場だとまだまだぺえぺえだが」
ロンは帳簿をぱたりと閉じて、けらけらと笑った。
「あはは……戦力になれるように頑張ります」
俺も苦笑いで返す。
実際、現場ではまだ、すぐにバテてしまって、ガイたち他の従業員たちの足を引っ張っている状態だ。
まだまだ身体作りが足りていないと言わざる終えなかった。
「帳簿はまた次、機会があれば教えてやるさ。現場の仕事も身体さえ出来ちまえば、なんてこたない。まあ、焦らずやれ」
ロンはそう言って、閉じた帳簿で軽く俺の頭をはたいた。
痛みというほどでもない、ただの軽い衝撃。
それが「期待」と「信頼」を込めた合図のように感じられて、思わず頬が緩んだ。
焦らずやれ。とロンが言う通り、荷運びも、帳簿も、社宅での暮らしも。
この商会での新しい毎日を、少しずつ自分のものにしていこうと、そう思った。
◇
この世界で商人になるのに、決まった資格はないのだと聞いた。
商会を構え、商品を揃え、それを売り捌く。
それさえ出来れば、事実上の商人として扱われるらしい。
もちろん、領主に届け出て許可を得る必要はあるし、売り上げに応じた税金も納めなければならない。
けれど、その条件さえ整えられるなら、誰だって「商人」を名乗ることは出来るのだ。
今の自分は、まだその商会で働かせてもらっている一従業員に過ぎない。
商人を目指すのであれば、現場を知り、事務作業にも精通し、営業や交渉なども覚えていく必要があるだろう。
商人になるまでも、なってから一人前になるまでも、そう簡単な道のりではないのだろうと思う。
だが、帳簿に並ぶ数字を追いかけながら、荷の流れと金の動きを見ていると、どうしても考えてしまう。
いずれはこの商会の一員としてではなく、自分の商会を立ち上げたい――そんな途方もない夢を。
今の自分には、資金も人脈も何もない。
まだスタート地点に立っただけだ。
夢としては、笑われても仕方がない。
それでも、無謀だと分かったうえで、それを手放したくない自分が、胸の奥にしっかりと座っていた。
◇
「よう、アイト。こんな遅くまでなにやってんだ」
営業を終えて、客のいなくなった酒場の片隅で帳簿を広げていると、ガイがドスンと向かいの席に腰を下ろした。
俺の手元を、興味深そうに覗き込んでくる。
「今日、ロンさんから教わったこと、復習しようと思って」
俺がそう答えると、ガイは腕を組み、天井の方をぼんやりと見上げた。
「あー、今日は帳簿のやり方教わったんだってなー。こんな遅くまで精が出るな」
感心しているのか呆れているのか分からない声色で言いながら、ガイはニヤリと口角を上げる。
「すみません、紙だってタダじゃないのに」
俺はつい、申し訳なさそうに言ってしまう。
元いた世界よりもこの世界の紙の価値は高い。勉強のためとはいえ、使わせてもらうのは少し気が引けていた。
「気にすんなって」
ガイは片手をひらひら振った。
「それ、使い古しの帳簿の裏使ってんだろ? どうせ捨てるくらいなら、こうやって使ってやった方が紙も喜ぶってもんだ」
この帳簿をもらうときにロンにも似たようなことを言われたのを思いだし、笑ってしまう。
「俺たちはよー、見ての通りバカなんだ。文字もまともに読めんし、計算なんてなおさらダメだ」
ガイは少し真面目な表情になって続ける。
「だから兄貴の世話になりっぱなしでよ。手伝ってもやれねぇんだよな……」
実際、帳簿の仕事を教わって、ロンがどれだけ忙しくしているかも想像が出来た。
いつもあんなやり取りをしているが、ガイたちなりに従業員たちはその事に苦悩しているのかもしれない。
「おまえがウチに来てくれてよ、ほんとに助かってんだ。兄貴もなんだかんだ言って、おまえには期待してるだろうし、感謝もしてると思うぜ」
その言葉に、思わず照れくさくなって視線を落とした。
「お役に立ててるならとても嬉しいです。それならもっと頑張らないとですね」
俺はそう言って、もう一度帳簿の余白に視線を落とした。
ペン先を動かし、数字を丁寧に書き足していく。
「あー、頼りにしてるぞ、相棒」
ガイはキシッと白い歯を見せて無邪気に笑った。
前から思っていたが、この人は見た目や言動からは想像できないほどいい人だ。
「しかし、勤勉だよなー、おまえ。商人志望とは聞いてたけどよ、なんでそんなに商人になりたいんだ?」
ガイが椅子の背にもたれかかりながら、ふいにそんなことを聞いてきた。
帳簿の数字を追っていた視線を止めて、俺はゆっくりと顔を上げた。
「俺、金持ちになりたいんです」
そう答えると、ガイは一瞬、動きを止めた。
「おまえ、正直すぎるな……」
ぽつりとそう言って、頭をかきながら苦笑する。
けれど、呆れたように見えるその顔の奥に、ほんの少しだけ「分かるぞ」という色が混ざっていた。
「だから、商人になって、自分の商会を持ちたいんです。そのためにも頑張らないとと思って」
俺は、少しだけ息を吐いてから言葉を続けた。
ガイは目を丸くして、しばらく俺の顔をじっと見つめる。
「独立するつもりでいるってことか。……すげぇでっかい夢じゃねぇの」
そう言って、感心したように笑った。
からかい半分の口調ではあるけれど、その声の端には、どこかほんの少しだけ尊敬めいた響きが混ざっているように感じられた。
「まあ、まだ始まったばかりで、ぺえぺえの新人がなに言ってんだって感じですけどね……」
俺は、ははは、と乾いた笑いをこぼした。
こんな駆け出しで、まだなんの実績もない俺がこんなことを語るのは早すぎる、そう思ったのだ。
「なーに言ってんだ、おまえ。男なら大きい夢持ってなんぼだろ」
ガイは当然のような顔でそう言って、どん、と自らの胸を軽く叩いた。
「でっかい夢があるから、今みたいに遅くまで勉強してるんだろ? すげぇよ、おまえは。胸張っとけ」
その言葉に、俺は思わずガイの顔を見返した。
こんなふうに真正面から褒められるのは、少し照れくさい。
「俺は応援してるぞ」
そう言って、ガイは親指をぐっと立てて見せた。
その一本の指は、妙に重たく、ありがたく感じられた。
無謀だと自分で決めつけている夢に対して、それでも真正面から「応援する」と言ってくれる人がいる。
その事実だけで、大きな夢を持つのも悪くないと思えた。
「どうせならロンの兄貴なんかよりもビッグになれよなっ! あんなやつ、抜かしてやんな」
ガイは勢いよく親指を突き出したまま、豪快に笑う。
「兄貴ってよ、あれで結構、小心者なんだぜ。根に持ってネチネチするしよー」
ガイは楽しそうに語り始めた。
子供の頃からあーだの、大人になってからはこーだのと。
実に楽しそうに語っており、彼らの付き合いの長さを感じさせられる。
この酒場でいちばん偉い男と、その部下の筋肉だるま。
その距離感の近さに、改めてこの商会の「家族みたいな」空気を実感していた。
「っ!」
そんなときだった。
俺はガイの話を聞きながら苦笑いしていたが、ただならぬ気配を感じとり、そちらを見た。
そこにはロンがいた。どうやらまだ二階で仕事をしていたようで、階段からこちらを無表情で見下ろしていた。
酒場は客もいないから静かだった。おそらく全部丸聞こえだ。
「あ、あのガイさん、それ以上は……」
「やめた方がいい」。そう続けようとした。だが、ガイはニヤニヤしながら肩をすくめてみせるだけだった。
ガイの、ロンの暴露話は止まらない。
ガイの背後に、無言で忍び寄るロン。もうほとんどゼロ距離でガイの後頭部を無表情で見ていた。
ガイは全くロンの存在に気付かず、話をまだ続けている。
「ガイさんっ、ガイさんっ!」
俺は声を潜めて呼びかけながら、ちょんちょんと指でガイの隣――背後のあたりを指した。
「んあー?」
ガイはのんきな返事をしつつ、ようやく自分の後ろを振り返る。
その瞬間、動きがぴたりと止まった。
背後に立つロンの存在を認識したらしい。
さっきまでの勢いが嘘みたいに、ガイの笑い声がぴたりと途切れ、酒場の空気が一段階ひんやりした気がした。
「誰が小心者だって? え?」
ガイの背後から、低い声が落ちてきた。
「あ、兄貴……冗談ですやん」
ガイが慌てて笑いながら振り返る。
尋常じゃないほど汗をかいている。
ロンは満面の笑みになると、無言のままガイの両脇に手を差し込んだ。
そして、腹の辺りでがっちりと掴む。
そのまま、ぐっと腰を落としたかと思うと――
ロンはその場で跳ねるように反り上がり、その勢いのままガイの巨体を引っ張り、くるりと翻した。
「ぴぎゃっ!」
ガイから奇妙な悲鳴が出た。続けて、どごっ!っと今まで耳にしたことのないような鈍い音が響いた。
流れるような、見事なジャーマン・スープレックスだった。
リアルで見るのは初めてだ。
テーブルの向こう側でガイの背中が床に叩きつけられ、ピクピクと痙攣している。
俺は思わず口をぱくぱくさせながら、プロレス技が日常会話の延長みたいなノリで飛び出してくるこの職場に、改めて戦慄した。




