第三十二話 商都
その日の仕事も、ようやく締めに入っていた。
倉庫の端で、今日出した分の在庫を数え直していく。
木箱の蓋を開け、札に書かれた数と実際の数を照らし合わせる。入った分と出た分をきっちり合わせるのは、地味だが大事な作業だ。
「ここ、十じゃなくて九ですね」
俺が札を見ながら言うと、向かいで荷をまとめていた従業員が「おう」とだけ返した。
現場の喧騒も、だいぶ落ち着いてきている。
酒場の方からはまだ笑い声が聞こえるが、倉庫の中は、仕事を終えたあとの少しだけ静かな空気に包まれていた。
そんなときだった。
「アイト」
背後から、ロンの声が飛ぶ。
「はい、なんでしょう」
振り向くと、ロンは帳簿を片手に、倉庫の入口のあたりに立っていた。
「明日、少し付き合え」
「付き合う、って……何かあるんですか?」
俺が尋ねると、ロンは帳簿を閉じながら言った。
「商談だ。知り合いの国家商人に会いに行く」
「国家商人……?」
聞き慣れない単語に、思わず首をかしげる。
ロンは面倒くさそうに鼻を鳴らした。
「国の商人たちが集まって運営してる商業団体のことを国家商会連合って言うんだ。国にも認められた組織だな。
国家商人ってのは、その国家商会連合に認められた商人のことだ」
「へえ……」
思っていたより、ずっと大きい話だった。
商人の世界には、ただ商会を持って売り買いしているだけじゃない、もっと上の仕組みがあるらしい。
俺がまだ知らない世界の輪郭が、少しだけ見えた気がした。
「そんな人と知り合いなんですか。すごいですね」
思わずそう言うと、ロンは一瞬だけ目を細め、それから鼻で笑った。
「まあ、俺も一応、国家商人だからな」
「……え?」
意味を飲み込むまで、一拍遅れた。
「は?」
間の抜けた声が、そのまま口から漏れる。
ロンはそんな俺を見て、わざとらしく肩をすくめた。
「そんな顔するな。意外だったか?」
「い、いや……ロンさんが国家商人って……」
今の話を聞く限り、国家商人とは国に認められた商人だ。おそらくそれなりに品位が求められる立場なんじゃないだろうか。
もっと、きちんとした服を着て、立派な屋敷に住み、言葉も所作も隙がないような人間を想像していた。
少なくとも、酒場で怒鳴っている姿や、筋肉だるまを投げ飛ばしている姿とは、どうにも結びつかない。
ロンは帳簿を脇に抱え直しながら、淡々と言う。
「ただの肩書きさ。国家商人だろうが普通の商人だろうが、やることは変わらねぇよ。物を回して、金を動かして、信用を積む。それだけだ」
その言葉は、妙に重かった。
たぶんロンにとっては、国家商人も、ヒヴラギス商会の代表も、どちらも特別に飾るものじゃないのだろう。
ただ、当たり前のように積み重ねてきた結果が、その肩書きにつながっている。
「ロンさんって、思ってたよりずっとすごい人なんですね……」
ぽつりとこぼすと、ロンは少しだけ呆れた顔をした。
「見ての通り、ウチは貧乏商会さ。肩書きだけなら立派だが、国家商人もピンからキリまでってことさ。国家商人イコール成功って訳でもねぇ」
「それでも国に認められてるってすごいことなんじゃないですか?」
国家商人になる資格がどんなものなのかはまだ判然としないが、国から認められるって簡単なことじゃないんじゃないだろうか。元いた世界で言うところの国家資格みたいなものを想像する。
「さあな。まあ明日会う国家商人はいわゆる勝ち組だ。実際に会ってみてどんなもんか実感してみろ」
そう言って、ロンは倉庫の外へと目を向けた。
俺はその横顔を見ながら、静かに息を呑んだ。
一商会の代表だと思っていた男は、国家商人でもあった。
俺が知っている商売の世界は、まだほんの入り口にすぎないのだろう。
明日の商談が、少しだけ怖くて、けれど少しだけ楽しみになっていた。
◇
翌日、俺はロンとともに馬車に揺られていた。
窓の外では、街道沿いの景色がゆっくりと流れていく。木々の切れ目の向こうに、畑や低い丘が見えては消えた。
向かいに腰かけるロンはいつもとは違う装いだ。
しっかりとローブを羽織り、いかにも商人らしい装いをしている。
さすがに商談ともなると身だしなみは整えるようだ。いつもの半裸の姿とは違い、新鮮だった。
「今日はこれからどこへ行くんですか?」
俺は向かいに座るロンへ、改めて尋ねた。
すでに目的地の話は聞いている。けれど、何となくちゃんと把握しておきたかった。
ロンは腕を組んだまま、外を見ていたが、やがて短く答えた。
「ティグノーだ。セントラルの近郊の街だな」
ロンは淡々と続けた。
「特に鉄鋼に関する技術の開発が活発な地域だ。この国じゃ一番の工業地帯だな」
俺は少し身を乗り出した。
「開発が活発ってことは、すごく栄えてるんですか?」
「まあ、そうだな。少なくとも、ウチみたいな辺鄙な場所とは比べものにならねぇ」
そう言って、ロンは鼻で笑う。
俺は思わず馬車の揺れに合わせて、窓の外を見直した。
セントラルに近い街。国の中枢に近い場所。開発が進んでいる地域。
そう聞くだけで、これから向かう先が、今いる場所とはまるで違う世界のように思えてくる。
「ティグノーか……」
小さくつぶやくと、ロンがちらりとこちらを見た。
「これから会う商人は『ティコ』って男なんだが、鉱石や宝石なんかの採掘資源で成り上がってきた家の商人だ」
「いわゆる宝石商ってやつですか?」
「厳密には違ぇな。だが、宝石に強い商人なのは間違いない。おまえも商人目指すなら一応頭には入れておけ」
ロンの言葉に、思わず俺は目を瞬かせた。
「へえ……宝石に強い商人、ですか」
なんとなく想像していた商人像より、ずっと専門性が高い。
どんなものなのだろうかと想像を膨らませると、ロンは咳払いをする。
「おまえ独立したいらしいしな。見て盗めるものはなんでも盗んでいけ」
ロンはそう言って、少しだけ口角を上げた。
「あ、やっぱり全部聞こえてたんですね……」
思わず、顔が熱くなる。
ガイの前で語った将来の夢。独立の話を聞かれていたようだ。
「悪ぃな、盗み聞くつもりもなかったが、聞いちまった。いい夢持ってんじゃねぇか」
「あ、あれは……」
言い訳しようとして、うまく言葉が出てこない。
「隠すようなことじゃねぇだろ」
ロンは窓の外を向いたまま、淡々と言った。
「夢があるなら、見ておくもんは見ておけ。相手の商売のやり方、金の流れ、信用の作り方。そういうのは全部、あとで役に立つ」
その言い方はぶっきらぼうだったが、ありがたかった。
夢を否定するようなことはせず、アドバイスまでしてくれている。
これはロンなりの激励なのだろう。
俺は小さく息を吐いて、姿勢を正した。
「……はい。しっかり見てきます」
「そうしろ」
ロンは外の景色を見て、片手を振りながらそう言った。口元は少し緩んでいるようだった。
馬車は揺れながら、ティグノーへと向かっていく。
◇
やがて、馬車は目的の街へと入っていった。
ティグノーは、想像以上に人通りが多かった。
ビッケスのように露店がずらりと並んでいるわけではないが、それでも道行く人の数は明らかに多い。商人、職人、荷を運ぶ者、案内をする者。行き交う人の服装も、どこか整って見えた。
足元の道は、煉瓦でしっかりと敷き詰められている。車輪が跳ねるたびにガタガタと揺れるような、あの辺鄙な道とはまるで違った。
馬車専用の道まで用意されていて、車両の流れもきちんと整理されている。
「……すごいな」
思わず、そんな言葉が漏れる。
俺の声を聞いたロンは、窓の外を見たまま短く鼻を鳴らした。
「ここは数ある街の中でも、かなり整備が進んでる方だからな」
整えられた街路を眺めながら、俺はただ目を見張っていた。
公園があり、そこには噴水すらあった。住宅と思われる立派な建物も建ち並び、道沿いの景観は、これまで見てきた街とはまるで違っていた。
こんな場所があるのか、と素直に感心してしまう。
石畳の道は広く、人の流れも整っていて、ただ歩いているだけでも街全体に余裕があるように見えた。
「待ち合わせには少し時間があるし、見物していくか?」
ロンは、俺が辺りを見回しているのを察したのか、そんな提案をしてきた。
「それじゃあ少しだけ。商会を覗きに行きたいです」
「せっかくの遠征で市場調査か? まあ、おまえらしいが」
ロンはそう言って、けらけらと笑いながら先を歩き始めた。
「こっちだ。そんなに時間に余裕があるわけでもねぇから、手短にな」
◇
俺たちは商業地区へ足を運び、いくつか目ぼしい商会を覗いていった。
ビッケスやランケルの商会よりもはるかに規模が大きく、どこも清潔感が行き届いていて、思わず圧倒される。
並べられている品も、やはり高価そうなものが多かった。見慣れない装飾品、繊細な布地、用途の分からない道具。どれもこれも、俺の知っている商いの範囲を軽く飛び越えている。
「……すごいですね」
思わず漏れた声は、自分でも少し頼りなく聞こえた。
ロンはそんな俺を横目に見て、鼻で笑う。
「ここらの商会は、どこもそれなりに上澄みだからな。まあ、目の保養にはなるだろ」
そう言われて、俺はもう一度店先を見回した。
商会の大きさも、扱う品も、客の身なりも、何もかもが違う。
同じ商人でも、こんなにも世界が違うものなのかと、ただ呆然としてしまう。
そうして、俺たちはしばらくのあいだ商業地区を見て回った。
立ち並ぶ商会の外観だけでも、ここがただの地方都市ではないことは十分に伝わってくる。品ぞろえも人の流れも、あまりに洗練されていて、見ているだけで目が疲れるほどだった。
それでも、知らないものをひとつずつ目に入れていくのは、妙に楽しかった。
そうこうしているうちに時間が過ぎていった。
◇
目の前にあるのは、広く大きな屋敷だった。
門扉の前には、警備と思しき男が二人の男が、無言で控えている。格子越しに目をやれば、庭師らしき人間の姿も見えた。
その手入れの行き届いた敷地は、外から眺めるだけでも相当に格式の高いものだと分かる。
思わず背筋が伸びるのを感じながら、俺は屋敷の正面を見上げた。
「ロン・ヒヴラギスだ。ティコ殿と商談の約束を取り付けてある」
ロンは警備の男にそう告げると、手形らしきものを差し出した。
警備の男はそれを受け取り、短く目を通す。すると、もう一人の警備の男へと目配せをした。
「話は伺っております。ティコ様がお待ちしておりますので、どうぞ中へ」
丁重ながらも隙のない応対だった。
いよいよ屋敷の中へ通されるのだと、俺は無意識に息を整えた。
◇
「ガチガチだな、アイト」
ロンは俺の様子を見て、からかうように笑った。
そりゃそうだ。これから会うのは、国家商人なんて肩書きを持つ相手だ。失礼があってはいけないと思えば思うほど、どうしても動きがぎこちなくなってしまう。
「ティコは確かに格式こそ高い家柄だが、当人はそういう堅っ苦しいのが好きじゃないタイプの人間だ。まあ礼儀は大事だが、そこまでかしこまらなくていい」
ロンはそう言って、肩の力を抜くように笑った。
その口調は軽いが、言葉の端々には妙な説得力がある。
少しだけ張り詰めていた気持ちが、ほんのわずかにほどけた。
使用人に案内され、俺たちは屋敷の奥へと通された。
中もまた、外観に負けず劣らず豪奢だった。広さだけでも十分に圧倒されるのに、隅々まで手入れが行き届いていて、どこか澄んだ空気さえ感じる。
これだけの規模の屋敷なのに、少しの乱れも見当たらない。
思わず見回していると、ここがただの大きな家ではなく、細部まで積み上げられた格式の場なのだと嫌でも分かった。
「ティコ様はこちらでお待ちになっております」
使用人の女性はそう言うと、扉の横に控え、取っ手へと手を掛けた。
いよいよ、という空気が漂う。
俺は無意識に息を整え、扉の向こうにいるティコという人物へと意識を向けた。
「やっと来たわねー、待ってたのよ」
扉の先にいたのは、中肉中背の男だった。だが、どこか妙に癖のある――いや、ひどく印象に残る雰囲気をまとっている。
男なのに、妙に柔らかく、それでいて芝居がかった口調。
その声音と佇まいが、場の空気を一気に塗り替えた。
俺は思わず、その人物を見つめ返した。
「待ったわよー。商談だって言うから、おめかしして来たわ。どぉ~?」
男はそう言って、わざとらしくくるりと一回りしてみせた。
――どう見ても、ただの商談相手には見えない。
だが、その妙に芝居がかった態度すら、この男の持ち味なのだろう。俺は返す言葉を探しながら、思わずその姿を見つめた。
「死ぬほどどうでもいいな」
胸元へ怪しく指を滑らせるティコを気にする様子もなく、ロンは平然と受け答える。
どうやら、こういうやり取りはいつものことらしい。
その様子を見て、俺はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「その子が噂のアイトちゃん?」
ティコは、興味深そうに俺へと視線を向けた。
その呼び方に、俺は一瞬だけ面食らう。
「あら、かわいいじゃない。好みよ」
こちらを見るティコの目が、一瞬ぎらりと光ったような気がした。
なんだか、いろんな意味で近寄りがたい人だ。
「おまえ、こいつには手ぇ出すなよ。こんなんでトラウマになったら笑えん」
「もう、信用ないのね。大丈夫! あたしはロンちゃん以外になびいたりしないから」
語尾に小さな飾りでもつきそうな、甘ったるい口調だった。
「こいつがティコだ。商人としては一流だが、一癖も二癖もある男だよ。気ぃ付けろよ、アイト」
ロンは迫ってくるティコの胸板に手を当て、ぐいと押し返して近寄らせないようにしている。その手つきはあまりにも慣れていて、思わず俺は苦笑いした。
やっぱり、こういうやり取りは日常茶飯事なのだろう。
ティコはなおも楽しげな笑みを浮かべたまま、ロンの手を気にする様子もなかった。
こんな人が国家商人なのか。
想像していた堅苦しさとはまるで違うその姿に、俺はただ面食らっていた。




