第三十話 祝杯
俺は二階に呼ばれ、椅子に腰をかけていた。
場違い感がすごすぎて、肩身が物理的に狭くなっている気がする。
壁際には酒瓶と帳簿が雑に並べられ、ソファには兄貴と呼ばれていた男が大きく腰を落としていた。
「で? 話ってなんだ?」
ソファにだらしなく座ったまま、男がこちらを見る。
足を組み、背もたれに体を預けながらも、視線だけは鋭く動いていた。
「えっと……ここで働かせてもらいたくて……その相談をと……」
俺は緊張気味にそう言った。
ここに通されるまでの間も、明らかに堅気じゃない人たちばかりで、ビビり通しだった。
喧嘩と笑いと酒の匂いに満ちた階下を通り抜け、階段を上ってくるだけで、緊張で変な汗をかくほどだった。
それでも、ここで引き返したくないという気持ちだけを頼りに、一段一段を踏みしめてこれた。
だが、目の前にいる男は、雰囲気が他の階下の荒くれ者たちとは明らかに違っていた。
ただ顔が怖いだけじゃない。
凄みというか、オーラというか、何か圧のようなものを感じていた。
「おまえ、名前は?」
男は腰を少し屈め、頬杖をつきながら、こちらを値踏みするようにじっと見ている。
「藍人です。三日月藍人って言います……」
どうしても語尾が小さくなっていくが、なんとかそう返答した。
「そうか……じゃあアイト。おまえ、商人になりたいのか?」
男はそう問いかけてきた。
「はい!」
ほとんど条件反射だった。
思わず、大きな声で答えてしまう。
「急に元気だな」
男はおかしそうに笑った。
「す、すみません……」
反射的に謝ると、男は俺の額にデコピンを食らわせた。
「ばーか。謝んな。てめぇのやりたいことなんだろ。元気で何が悪いってんだよ」
痛みよりも先に、その言葉が胸に刺さる。
ここまで来て初めて、「俺がやりたいこと」という言葉を、誰かに正面から投げられたのが少し嬉しかった。
「しかしよー、なんでよりによってウチに来た? ウチの評判はぶっちゃけ最悪だぜ?」
男は天井を見上げながらそう言った。
まあ、それはそうだろうと、俺も内心で納得してしまう。苦笑いが漏れそうになる。
ここは、他のどの商会とも比べものにならないくらい治安が悪い。足を踏み入れた瞬間から、それは嫌でも分かった。
「当ててやろうか?」
男はソファに大きく寄りかかったまま、首だけをこちらに向けてそう言った。
「他の商会にも顔出したが、門前払い。で、ウチは残りもんだったんだろ?」
言葉に詰まる。
まさに図星だったからだ。
「おいおい、ちょっとは誤魔化せよ。それでも商人志望か、おまえ?」
男はけらけらと笑う。
「すみません……おっしゃる通りです……」
残り物を認めて申し訳ない気持ちと、「商人志望としては不合格」の反応をしてしまった自覚に、返す言葉もなかった。
「見ての通り、ウチはこんなんだ」
男は片手を軽く振って、階下から届く怒号と笑い声の方を示す。
「商人見習いなんざ、初めからここを選択肢から外すもんだ」
並べられる言葉は事実ばかりだ。俺にも余裕があれば、入り口の時点で引き返していたことだろう。
「下のバカども見ただろ? 半分くらいは客だが、残りはウチの従業員だ。まともなやつはいねぇ」
男はさっきまでの軽い笑いを引っ込めて、真剣な顔で続けた。
さっき階下を通ってきた光景が、すぐに脳裏に浮かぶ。
喧嘩している男、賭場の卓を囲んでいる男、半裸で酒をあおって怒鳴り笑う男たち。
あれの半分が「従業員」だと言われて、思わず喉がごくりと鳴った。
「それでもここで働きたいか?」
真正面から、そう問われる。
ここがどういう場所かは、もう十分に分かっている。
まともなやつはいないと言われる職場に、今の俺が本当に飛び込む覚悟があるのかどうか。
ほんの一瞬だけ、言葉が喉で止まる。
それでも、俺は膝の上で握りしめた手に力を込めて、顔を上げた。
ここで「嫌です」と言うなら、もうどこにも行く場所はない――そんな行き止まりが、頭の隅でひっそりと告げていた。
「……はい。ここで、働かせてください」
声は震えていたが、それでもはっきりと届くように、できる限りまっすぐに答えた。
◇
「はいはーい、バカども、聞け」
男はパチパチと手を叩き、階下の荒くれ者たちの注目を誘った。
「こいつはアイトっていうんだが、今日からウチで働くことになった。おまえら、ほどよくかわいがってやれ」
そう言って、男は俺の肩をぐいっと押し出し、階下に向かって紹介する。
「よ、よろしくお願いします」
俺は深々と頭を下げて、出来るだけ声を大きく出した。
下の男たちは一瞬だけ静かになり、それから一斉に笑い声を上げた。
「ウチに新人かよ。明日は槍の雨で降るんじゃねぇか!」
誰かが面白おかしく叫ぶ。
「そんなモヤシにウチの仕事が務まんのかー?!」
別の男がヤジを飛ばす。
笑い声と野次が入り混じって、さっきよりもさらに酒場の空気が熱を帯びる。
その全部が、自分一人の方へ向かってきているのが分かって、背中にじっとりと汗がにじんだ。
歓迎されてるのか、されてないのかよく分からないが、皆、総じて楽しげだった。
◇
「祝杯じゃー! 酒持ってこい!」
先ほど、男にガイと呼ばれていた赤髪の男が、俺の首を脇でガッチリ締め、片手でジョッキを高々と掲げる。
周りからも「おう、新人だ!」「飲ませろ飲ませろ!」と野次なのか祝福なのか判然としない声が飛んでくる。
階下に降りてすぐ、俺はガイに捕まった。
強引に首を掴まれ、今は脇に抱えられて身動きが取れない状態だ。見た目どおりすごい腕力だ。
俺はもはや、借りてきた猫のような気分だった。
何を返せばいいのかも分からず、ただ締めつけられている首と、耳元で響く笑い声を聞いていた。
「そういや、自己紹介がまだだったな」
男は向かいの席に腰かけると、改めてこちらを見た。
「俺はロンだ。ロン・ヒヴラギス。知っての通り、ここの代表だ」
男――ロンはそう名乗った。
代表というと、社長のようなものだろうか。
細かい役職は分からないが、とにかくここで一番偉い人なのは間違いないだろう。
「んで、おまえを締め上げてるその木偶の坊がガイだ。ガイ・ローレント」
今度は、俺を拘束している赤髪の男を顎で指す。
ガイはやたらと大柄で、隣に並ぶと自分の身体が縮んだ気分を味わえるほどだった。
「木偶の坊はひどくない、兄貴……」
赤髪の巨体が、むすっとした顔で抗議する。
そこで俺は、締め上げからようやく解放された。
「うっせ、筋肉だるま。文句が言いたきゃ、おまえも文字くらいまともに読めるようになれや」
ロンは鼻で笑いながら、軽口で返した。
そのやり取りを聞きながら、俺は、この騒がしい酒場の中にも「代表」と「従業員」という関係がちゃんとあるのだと、少しだけ実感した。
見た目はどうあれ、ここが紛れもなく「商会」なのだということを、ようやく理解し始めていた。
「さっきも言ったが、ここはろくでなしの掃き溜めみたいな商会だ。
バカばっかりでな。文字の読み書きも数も弱いから、従業員は、俺以外全員、肉体労働専門なんだ」
ロンは肩をすくめてみせてから、じろりと俺を見た。
「おまえ、文字と数はいけるか?」
ロンは続けて、俺に問いかけてきた。
俺は姿勢を正し、若干前のめりに座る。
「文字は完璧ではないですけど、ある程度は。計算も、日常で使うレベルであれば問題ないです」
俺は、見栄を張らずに正直に答えた。
「そりゃ助かる」
ロンは、心底ほっとしたように笑う。
「ウチは俺より下が全員、肉体専門でな。中間管理がいないから、事務も段取りも全部、俺がやる羽目になってる」
そう言って、面倒くさそうに頭をかいた。
「おまえの働き次第だが、役職もある程度つけてやる」
その言葉に、酒場のざわめきとは別の意味で、胸の奥がじわりと熱くなる。
ここでただの「使いっ走り」ではなく、肩書きのある立場を目指せる――
そんな未来が、ほんの少しだけ具体的な形を伴って見えた気がした。
「まあ、最初は雑用だがな。肉体労働もしてもらう」
ロンはそう言ってから、言葉を区切る。
「そこがちょっと心配なところだがな……」
そうつぶやいて、ロンはじろじろと俺の身体を眺め始めた。
「……まあ、働いてるうちに身体は出来上がってくるだろ」
少し残念なものを見るように息を吐きつつも、ロンはそう続ける。
「しょ、精進します」
ロンが言わんとしていることがわかり、思わず言葉がつっかえた。
集落で畑仕事をして、少しはたくましくなったと思っていた。
だが、周りを見回せば、どいつもこいつも筋肉の塊みたいな人たちばかりだ。
あれらと比べるのも酷な話じゃないか――そんな弱音が、喉元までせり上がってくる。
「よく食って、よく働いて、寝ろ。糞もしろよ」
ガイが俺の背中をバシバシ叩きながら、妙に元気よく鼓舞してくる。
彼なりの励ましなのだろうが、かなり背中が痛い。
それでも、そのぶんだけ「仲間として数に入れてもらえた」ような気がして、俺は苦笑いをこぼした。
「ところでおまえ、住むところはあるのか?」
ロンが、ふと思い出したように俺へ視線を向けてくる。
「実は、住むところはなくて……」
俺は、隠しても仕方がないと判断して正直に答えた。
「まあ、そうだろうとは思ってたよ。その身なりだしな」
ロンは俺の服と靴を一瞥して、納得したように鼻を鳴らす。
「ウチの従業員たちも、住む場所がねぇやつは多い。だから粗末だが社宅を用意してる」
粗末でも、屋根があって壁があるなら、それだけで十分だ――そう思った。
昨日までの自分には、地面と空しかなかった。
これからは、夜になったら帰る場所ができるのはとてもありがたかった。
「家賃は給金から差し引くが、住んでいいぞ」
「それは助かります……」
思わず、胸の奥から素直な言葉が漏れる。
給金が入るまでは、野宿もやむなしと覚悟していた。
雨風をしのげる屋根と、鍵のかかる戸がある――。
その事実だけで、いきなりこの街での「生き延びられる確率」がぐっと上がった気がした。
「あれ、でも兄貴。確か、部屋いっぱいじゃなかったか?」
ガイが飲み干したジョッキを乱暴にテーブルへ置きながら、首をひねる。
「あー、いっぱいだな」
ロンは面倒くさそうに頭をかいた。
「だから、相部屋だ。おまえの部屋に住まわしてやれ」
あまりにも自然な調子で言われて、思わず俺はガイの顔を二度見した。
ガイは一瞬だけきょとんとしたが、すぐにニヤリと口角を上げる。
「俺と同じ寝床ってことだな。よろしくな、新人」
ガイは楽しそうに、また俺の首を脇に抱え込んできた。
彼としては俺とのシェアハウスは歓迎だったようだ。
しかし、暑苦しい……。
まとわりつくような体温と、筋肉の塊みたいな腕の重みで、肩から先がすっかり拘束される。
ガイとのシェアハウスは、いろんな意味で退屈しなさそうな予感がした。
息苦しさと同時に、ほんの少しだけ心強さみたいなものも混ざっているのを、俺は自覚していた。
この街での暮らしが、ここから本当に始まる――そんな予感が、ジョッキの向こうで静かに泡立っていた。




