第二十九話 入門
俺は、その日から新しく仕事を始めることを決意した。
どんな仕事でもいい——そう思いながらも、今度こそ、最後までやりきれる仕事を探そうと決める。
自分のために、生きるために金を稼ぐ、それだけの当たり前を、もう一度自分の手でつかみに行こうと、静かに心の中で誓った。
とは言いつつもーー。
仕事をすると言っても、何から始めればいいのかさえ分からなかった。
元いた世界には、職を斡旋してくれる仕組みがあった。紙切れ一枚に名前と希望を書けば、誰かがどこかの職場へと橋を渡してくれた。
だが、この世界にも同じものがあるのか、俺には見当もつかない。
それでも——何も知らないからといって、何も選べないわけではない。
この世界に来てからの自分を振り返る。俺が深く関わったものはひとつだけ、はっきりと思い出せる。
取引だ。
相場を学び、商品を仕入れ、工夫して売り捌いた。
やっていたことは単純な作業ばかりだったから、商売の世界で通用するとは思わない方がいいだろう。だが、経験は経験だ。
今の俺にとって、胸を張れるものがあるとしたら、それくらいしかない。
この世界に来てから、心から面白いと思えたのは、取引だった。
今、一番、興味が持てると言う意味でも、商会で働きたいと思っている。
物と金が動く場所なら、まだ俺にも居場所を作れる気がした。
ならば、そこから始めればいい。
この世界に、職を斡旋する誰かがいるかどうかは分からない。
それでも、市場はある。金を払う者と、物を並べる者がいる限り、そこには必ず、商いの余地が生まれる。
俺は、あの男から渡されたパンの温もりを思い出す。
あれは施しだったが、同時に「もう一度、自分で稼いで食え」という無言の促しにも思えた。
仕事を始めると決めた以上、もう「何も分からないから」と膝を抱えているわけにはいかない。
相場を学び、商品を仕入れ、工夫して売り捌いたあの経験を最大限生かす。
それを、これからの俺の「生き方」に繋げていく。
この世界で、もう一度、取引を仕事にする。
そう腹を決めた瞬間、胸の奥で、かすかな不安と同じくらいの大きさの期待が、静かに息をついた。
◇
早速、俺はこの街――「ランケル」で商会を探し、片っ端から声をかけて回ることにした。
ビッケスに比べれば、ランケルはずいぶんと小規模な街だ。
石畳はところどころ土に飲まれ、水路も細く心許ない。
インフラと呼べるようなものは最低限しか整っておらず、旅人よりも地元の顔が目につく場所だった。
当然、商会の数も多くはない。
いくつかの建物の看板を見て回った限りでは、商会らしい名前を掲げられているのは、せいぜい両手で数えられる程度だろう。
それでも、少ないなら少ないなりに、そこから当たりを引き当てるしかないだろう。
ありがたいのは、文字がある程度読めるという事実だった。
看板の文字を追い、扉横の札に記された「商会」「卸」「取引」といった言葉を拾い上げられるだけで、探すべき場所はぐっと絞られた。
もしフィーレアの個人授業がなかったなら、今頃、俺はこの街を右往左往していたに違いない。
看板を眺めては首をひねり、片っ端から扉を叩いて、用も違えば相手も違う場所に何度も頭を下げる羽目になっていただろう。
そう思うと、あのとき文字を教えてくれた彼女の顔が、ふいに脳裏に浮かぶ。
「これくらい読めれば、困らないはずですよ」と微笑んでいた声が、今になって背中を押してくる。
俺は一度、深く息を吸った。
看板の文字を確かめながら、最初の商会の扉へと手を伸ばす。
片っ端から声をかける――そう決めたなら、あとは一つずつ、声をかけていくだけだ。
◇
だが、世の中は、そう甘くはない。
訪ね歩いた商会は、ことごとく俺を門前払いにした。
ドアを開けた途端に値踏みするような視線を向けられ、ろくに話も聞かれないまま「今は人手はいらない」「紹介がないなら帰ってくれ」と、丁寧ともそっけないともつかない言葉で追い返される。
俺は下を向き、自分の姿格好を眺めた。
ボロボロの身なりでは、まず「仕事を探している」という言葉に耳を傾けてもらえそうになかった。
靴は擦り切れ、上着はところどころほつれている。
自分でも分かるほど「金のない、行き場のない人間」の格好で、商いの場の敷居をまたごうとしているのだから、怪しまれて当然だ。
だが、服を買うにしても金はない。
身なりを整えれば印象が変わることくらい、分かってはいる。
けれど、その「体裁を繕うための金」を稼ぐために、今こうして仕事口を探しているのだ。
堂々巡りだった。
金がないから仕事を探すのに、金がないせいで、その仕事に近づくことさえ難しい。
結局、誠意だけでなんとか押し切るしかない状況なのが現状だった。
「働かせてください」「取引の経験があります」「給金は少なくても構いません」
そう繰り返し頭を下げるしか、今の俺には差し出せるものがない。
一件目で断られ、二件目でも断られ、三件目では入り口に手をかけた時点で顔をしかめられた。
それでも足を止めてしまえば、ここでまた「どうでもいい」と言い出す自分が顔を出すのが分かっていたから、意地でも探し回った。
みっともなくても、格好悪くてもいい。
今の俺には、見せられる誠意と、しがみつくような「生きたい」という意思しか残っていないのだから。
そして、おそらく次が最後の商会になる――そう覚悟を決めて、俺は人気の少ない通りへと足を向けた。
人通りが途切れ、少し寂れた空気が漂う一角に、その商会はあった。
扉の上の看板には、くすんだ金文字で「ヒヴラギス商会」と記されている。
その下にぶら下がる小さな木札には、酒杯の印が刻まれていた。
どうやら、商会だけでなく酒場も兼業しているらしい。
扉越しにも分かるほど、中は騒がしい様子だった。
荒くれ者が多いのか、怒号と豪快な笑い声が、混ざり合ってこだましている。
椅子のきしむ音、卓を叩く鈍い音、誰かが歌っているのか、半端な節回しまで聞こえてくる。
これまで回ってきた「きちんとした商会」とは、空気がまるで違っていた。
静かで、事務的で、冷たい視線の代わりに、ここには酒の匂いと人の熱気が満ちている。
最後に残ったのが、こんな場所だというのも、今の俺らしいと言えばらしいのかもしれない。
逃げ出したくなる足を、なんとかその場に縫い止める。
もしここで引き返したら、商人を目指す道は閉ざされるかもしれない。
俺は、深く息を吸い込み、喉の奥でわずかに震えるのを誤魔化すように息を吐いた。
そして、「ヒヴラギス商会」と書かれた扉へと手を伸ばした。
——ここでだめなら、商会は諦めるしかない。
そんな言葉を、心の中でそっと飲み込みながら。
◇
中は、想像していた以上に凄まじい有様だった。
店の一角では、男が二人、激しく殴り合っている。
テーブルがひっくり返り、割れた皿やこぼれた酒が床に散らばる中で、周囲の連中は止めるどころか面白がって野次を飛ばしていた。
別の一角では、賭け事でもしているのか、何人かがカードを握りしめて卓を囲んでいる。
札を切る音と、勝ち負けに一喜一憂する声が、さっきの喧嘩とはまた違う熱を帯びて響いていた。
女子供の姿は一人もない。
視界に入るのは、どれもこれも、粗野な男ばかりだ。
そのほとんどが上着を脱ぎ捨て、半裸同然の格好で酒をあおり、怒鳴り、笑い、荒ぶっている。
汗と酒と煙草のような匂いが混ざり合い、空気そのものが重くなっている気がする。
ここまで来ておいてなんだが、「仕事を探しに来た場所」とは到底思えない光景だった。
覚悟を決めていたつもりだが、顔が自然と引きつりそうになる。
それでも、足を引っ込めずになんとか戸口で、立ち尽くしていた。
こんな場所でも、いや、こんな場所だからこそ、まだどこかに「取引の余地」が残っているかもしれないと、わずかな望みにすがるように。
俺は奥のカウンターの前まで歩く。
そこにはやたらと大柄な赤髪の男がいた。
他を見渡してもだいたい取り込み中でとてもじゃないが話しかけられそうになかった。
「す、すみません。ここの商会の方に、お話があって来たんですけど……」
周りの気迫に押しつぶされそうになって、声が勝手に小さくなる。
喧嘩の怒号と、賭けの笑い声と、酒に酔った歌とが入り混じった空気の中で、俺の言葉だけがひどく場違いに思えた。
周りを見る限り、どう見ても堅気ではない雰囲気だ。
腰に刃物を差したまま笑っている男、腕に刺青を入れたカードを切る男、殴り合いを眺めながら酒をあおる男。
どいつもこいつも、「商売人」というより「荒くれ者」と呼ぶ方がしっくりくる面々ばかりだった。
萎縮するのも仕方ない。
ここにいる誰よりもみすぼらしい格好で、仕事を求めてきたのだから。
「あー? 聞こえねえーよ」
返ってきたのは酒臭い息とそんなやる気のない声だった。
強面とはこういう人のことを言うのだろうと思う。とにかく顔が怖い。
俺は肩をびくりと震わせて、それでももう一度、喉の奥から声を絞り出す準備をした。
ここで怯んで黙り込めば、本当に何も始まらない――そう、自分に言い聞かせながら。
「だから、ここの商会の人にお話があって!」
なんとか声を張り上げると、近くにいた男たちが、ようやくこちらへ顔を向けた。
怒号と笑い声の合間に、俺の声がかろうじて紛れ込んだらしい。
「お話ぃ? ……あー、俺も一応、商会の人間だが?」
肩で笑いながら、さっきまで酒をあおいでいた男が、面倒くさそうに言った。
片手にはまだ空になっていないジョッキを握りしめたまま、もう片方の手で自分の胸を親指で指す。
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
俺は目を瞬かせて、男の顔と、その周りの荒れた空気を見渡した。
こんな荒くれ者が、商人なのか。
今まで訪ねてきた商会には、こんなガサツな人間は一人もいなかった。
きちんとした服に、きちんとした言葉。
静かな事務所の空気と、帳簿の紙の匂いが当たり前だと思っていた。
それなのに、目の前の男は、汗と酒の匂いをまとい、半裸同然で笑っている。
「商会の人間」と自分で名乗っているのに、その姿からは、俺の知る商人像が一つも見つからなかった。
驚きに、少しだけ戸惑いが混ざる。
それでも――ここまで来た以上、「違うから帰ります」と言える立場でもないのだ。
「まあ、難しい話は俺、無理だかんなー」
男は耳をほじりながらそう言って、手にしたジョッキを片手で振りながら、酒場の天井――二階の方へ向かって声を張り上げた。
「おい、兄貴ぃー!! こいつ、話あるってよー!!」
怒号と笑い声に負けない声量で、その一言が店内に響き渡る。
さっきまでただの客の一人だと思っていた男が、あっさりと「自分より上」を呼び出したのを見て、俺は胸の奥で小さく息を呑んだ。
二階へ続く階段の上の方で、椅子のきしむ音と、誰かが立ち上がる気配がする。
どうやら、この騒がしい酒場のどこかに、「ヒヴラギス商会の兄貴」と呼ばれる人物がいるらしい。
荒くれ者ばかりの空気の中で、ようやく「話を聞いてくれるかもしれない誰か」に、細い糸が繋がった気がした。
「うるせぇーよ、ガイ。聞こえてるっつの」
心底めんどくさそうな声が、酒場の二階から響いた。
その一言だけで、さっきまで騒がしかった店内の空気が、ほんの少しだけ「その声の主」に意識を向ける。
程なくして、二階の柵から身を乗り出す男の姿が見えた。
ターバンを巻いた半裸の男だ。
胸元には筋肉と古い傷があちこちに刻まれていた。腰には布を雑に巻きつけただけの、豪快というかだらしない格好をしている。
男は、めんどくさそうに首の裏を掻きながら、こちらを見下ろしてきた。
「で? どいつが、俺に話があるって?」
低い声で、投げやりな質問が降ってくる。
その視線が、まるで獲物を選ぶように、ゆっくりと店内をなぞるのが分かった。
俺は反射的に背筋を伸ばしながらも、喉の奥で小さく息を飲む。
次の瞬間、その視線が、はっきりと俺に止まった。




