表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/40

第二十八話 再歩

 俺は馬車に乗って、ビッケスではない別の街まで移動した。

 目的はない。ただ遠くに逃げたかった。


 馬車を降りたあと、しばらくのあいだ、自分がどこを歩いているのかさえよく分からなかった。

 

 石畳を踏む音も、人の声も、全部遠くの出来事みたいに聞こえる。

 

 心が押し潰されそうだった。

 頭の中では、レンの言葉が何度も反芻される。

 ――私たちの前から消えて。

 

 弓を向けられ、明確に拒絶された。

 俺が重ねた言葉は届かなかった。


 彼女は俺を疑っていた。

 俺が外の人間に集落の存在を知らせたんじゃないかと。

 

 けど、俺はそんなことしていない。

 集落は俺にとっても大切な存在で、守るべきものだった。

 恩人たちを裏切るようなことを俺がするはずもない。


 だが、その証拠はどこにもない。

 俺の心を読めない限りは証明のしようなんてない。

 

 俺は裏切ってなんかいない。それは俺自身がよく理解している。だがーー

 それでも頭の中にはずっと俺が目をそらし続けていた疑念があった。

 

 ーー集落の襲撃は自分のせいで起こったんじゃないだろうか?

 俺が頻繁に街を出入りしていたのは事実だ。

 それがきっかけになって集落の存在が知られてしまった可能性は、あってもおかしくなかった。


 俺に裏切る意思がなかったとしても、きっかけを作ったのは自分かもしれない。

 

 自分の行いが、大事な人たちの人生を台無しにしてしまったのかもしれない。

 その考えが、遅効性の毒みたいに、じわじわと俺の精神を蝕んでいった。


 やがて、歩くことさえやめてしまった。

 気づけば、通りの隅にだらしなく座り込んでいた。


 人の流れから少し外れた影の中で、なにもしない。ただそこにいるだけだった。

 

 空腹さえ忘れて、ずっと空を見ていた。

 雲がゆっくり形を変えていくのを眺める以外、何もできなかったし、何もする気になれなかった。


 全部失って、なにも残っていない――そんな感覚だけが、胸の真ん中に居座っている。


 消えてしまいたいとさえ思った。

 いっそこのまま、死んでしまえればきっと楽なんだろうな。


 そう考えてしまう自分に、奮い立たせる気力も湧いてこなかった。


 それから先の時間の感覚は、だんだん曖昧になっていった。

 

 朝だったはずの空がいつの間にか赤くなって、また暗くなって、また白んでいく。

 その繰り返しを、通りの隅でただぼんやり眺めていた。

 気づけば、そこで三日間を過ごしていた。

 

 最初の一日は、ただ座っているだけだった。

 足を伸ばして、背中を壁にもたせかけて、通り過ぎる人をぼんやり目で追うだけ。

 二日目には、立ち上がるのさえ億劫になった。

 喉が乾いても、どこかへ水を飲みに行こうという気持ちがなかなか湧いてこない。

 三日目には、空腹で腹がきしむ感覚すら、遠くの出来事みたいになっていた。

 

 痩せ細っていくのが、自分でも分かった。

 お金もないし、動く気も起きない。動いたところで、どこへ向かえばいいのかも分からなかった。

 

 もうこのまま終わってしまえばいい――そんな考えを抱いたまま、時間だけが過ぎていく。

 

 いっそ、空を見ているうちに意識が途切れて、そのまま二度と目を覚まさなければ楽なんだろうな、と何度も思った。

 けれど、そう願っても、空はただ淡々と色を変えるだけで、何も終わらせてはくれなかった。


 ◇


 ある日、力なく横になっている俺の前に、誰かが腰を屈めてきた。

 

 足元が視界の端で止まる。

 上等な靴だった。革の質も縫い目も、俺が知っている安物とは明らかに違う。


 高級感のある服装。

 裾の布地の厚さと、さりげなく縫い込まれた模様から、それなりに金を持っている人間だということだけは分かった。


 「……こんなところで、何してるんですか」

 

 声を聞く限り、若い男だ。

 まだ年季の入ったしゃがれ方はしていない、素直な響きの声。

 

 そちらに目をやる気にもなれず、俺はただ男の足元を見ているだけだった。

 

 砂埃のついた靴先が、ほんのわずかに俺の方へ向き直る。

 それでも、俺の視線はその先を追わなかった。追う気力が、どこにも残っていなかった。


 「少し待っていてください」

 

 男は言うと、その場を立ち去った。

 足音が遠ざかる。


 そのままどこかへ行ってしまうのだろうと思っていたが、視界の端で彼の背中が向かいの店に入っていくのが見えた。


 パン屋だった。

 木の看板に描かれたパンの絵と、店先から漏れてくる焼きたての匂い。

 

 久しくまともに嗅いでいなかった香りが、薄れていた空腹を急に思い出させる。

 

 それでも、体を起こす気にはなれなかった。

 匂いに引き寄せられるように動き出すより先に、「どうでもいい」という感情の方が先に立ってしまう。


 俺はただ、彼の足元が戻ってくるのかどうかを、ぼんやり待つしかなかった。


 男は程なくして戻ってきた。

 また俺の前で屈むと、今度はパン屋で買ってきたであろう食べ物の袋を目の前に置いた。


 布越しに伝わる、まだ少しだけ温かい感触が鼻先まで香りを運んでくる。


 俺は思わず、顔を上げて男の顔を見た。

 

 若い男だった。

 整った身なりに似合う、落ち着いた目をしている。じろじろと値踏みするでもなく、ただ俺の様子を確かめるように、まっすぐこちらを見ていた。


 「食べなさい」

 彼はそう言った。

 

 だが、食べる気にもなれず、俺はゆっくりと寝返った。

 

 袋の中のパンの匂いが、背中越しにまだ僅かに漂ってくる。

 

 「余計なお世話です……放っておいてください」

 

 かすれた声でそう吐き出す。

 

 感謝でも拒絶でもなく、ただ今の自分の惨めさをごまかすための言葉だった。


 「まるで死に急いでいるようです」

 

 男は落ち着いた声でそう言った。

 

 「あなたは見たところ若い。こんなところで終わらせてはいけない」

 

 諭すというより、事実を告げるような口調だった。

 

 俺が何も返さないあいだに、袋を開ける音が、くしゃりと静かに響く。


「ほら、食べなさい」

 

 男はそう言って、俺の肩を軽く押し、寝返りを戻すように動かした。

 

 パンの香りが、さっきよりはっきりと鼻腔をついた。

 

 俺はゆっくりと上体を起こし、差し出されたそれを受け取る。

 

 男はそれに対して、なにか言うでもなく、視線だけで「食べろ」と促してくる。

 

 俺はパンにゆっくりと口を近づけ、一口、頬張った。

 

 固くなりかけた表面と、まだ少し柔らかさの残る中身が、舌の上でじわりと広がる。


 一度食べ始めたら、止まらなかった。

 

 俺は残ったパンを、急ぐように食べた。

 食べかすも気にせず、次々と口の中へと流し込んでいく。

 喉の奥が痛くなるほどの速さで噛んで飲み込む。


 さっきまで空腹さえ忘れていたはずなのに、今は体の方が勝手に「もっと」と催促してくるのが分かった。


 そうしているうちに、涙が出てきた。

 

 自分でも理由は分からなかった。

 パンの味に感動したわけでも、助かったと思ったわけでもない。

 

 ただ、乾いていたはずの目から、勝手に水がこぼれてきた。

 熱いのか冷たいのかさえ曖昧な涙が、頬を伝って、パンのかけらと一緒に落ちていく。

 

 みっともないと思う余裕もなかった。

 止めようとしても、指先はただ震えるだけで、涙の方は一向に言うことを聞いてくれなかった。


 男はそんな俺を見て、静かに微笑んだ。


「生きることを諦めてはいけない。

 私にはこれくらいのことしか出来ないが、少しでもあなたの救いになったなら、よかった」


 柔らかな声だった。

 押しつけがましくも、同情たっぷりでもなく、ただ事実だけを告げるような調子で。

 

 その言葉が、さっき飲み込んだパンよりも重たく、胸の奥に沈んでいくのを感じた。

 

 俺は濡れた頬を乱暴にぬぐいながら、ただ視線を落とした。


「ありがとう……ございます」


 かすれた声だった。久々に声を出したせいだろう。

 自分のものなのに、ひどく遠くから聞こえてくるように感じる。


 男は、少しだけ目を細めてうなずいた。

 それ以上は何も言わないまま、俺の返事だけを静かに受け止めている。


 俺はもう一度、小さく「ありがとう」と呟いた。

それを言えた自分が、まだ完全には死にたいわけじゃないんだと分かった。


 自分のせいで、たくさん失って、もう終わりにしたいと思っていた。


 それでも――それでもまだ、どこかで「生きたい」と思っている自分が、はっきりと胸の中に残っている。


 俺の中には、消えたい気持ちも、生きたい気持ちも、両方残っていた。

 その矛盾ごと抱えたまま、それでももう一度立ち上がろうとしている自分に、俺は気付く。


 「目に生気が戻りましたね。もう助力は必要なさそうだ」

 

 そう言って、男はゆっくりと立ち上がった。


 「私は行きます」


 短く告げてから、ふと何かを思い出したように振り向く。


 「迎えも来たようですし」


 男の視線の先には、いつのまにか一人の女が立っていた。

 

 金属のきしむ気配をまとった、騎士然とした格好の女だ。

 肩までの鎧と、腰に下がる長い外套。


 刃を収めた剣の柄に軽く手を添えたまま、彼女は男の前で跪いた。

 

 その姿は、俺のいる場所とはまるで別世界の住人みたいだった。


 「あの……俺、お金なくて。お返しもなにも出来ないんですけど……」


 女騎士に向き直っていた男はこちらを見ると笑った。


 「いいんですよ、お返しなんて。私がしたくてしたことです。

 それよりもあなたは自分の未来のために生きなさい」


 それだけ言うと男は再び女騎士に向き直り、歩き始めた。

 女騎士に警護されるように付き添われ、そのまま人混みの中へと消えていった。


 彼がなぜ俺に施しをしたのかはわからない。

 ただの金持ちの気まぐれかもしれない。


 二度と会うこともないだろう、名前も知らない、通りすがりの他人だ。

 それでも——俺はそれに救われた。


 パン一つと、短い言葉だけで、世界の全部が変わるわけじゃない。

 失ったものが戻ってくるわけでも、過去がなかったことになるわけでもない。


 けれど、あの瞬間、確かに俺は「死にたくない」と思い出した。


 その気持ちを抱えたままなら、もう一度、どこかへ歩き出せるかもしれない。そんな気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ