第二十七話 決別
ビッケスの町が見えてきたころには、すっかり日が昇っていた。
瓦屋根と白い壁が陽の光を受けて眩しく見える。煙の筋と人の声。前に来たときと同じ景色のはずなのに、今はどこか遠く感じられた。
大通りに足を踏み入れると、相変わらず人通りは多い。
荷馬車を引く商人、籠を抱えた女の人、走り回る子どもたち。
ユイリーたちは、いつもの薄いフードを頭からかぶっていた。
耳の形が目立たないように、布の影に隠している。そのおかげで、通りの人間たちは俺たちを「少し変わった旅人」くらいにしか見ていないようだった。
それでも、視線は気になった。
誰も彼も、みんな怪しく見えた。誰かが教団の信者で、誰かが教団に知らせるんじゃないか――そんな疑いが、頭の隅で静かに膨らんでいく。
「こっちだよ」
ユイリーが前に出て、少しだけ歩みを速める。
彼女は街の端にある道を、覚えているようだった。
俺は、今までビッケスに来るとき、取引のための大通りしか通ったことがなかった。
荷車を転がして、行きと帰りの道を確認するだけ。路地に入る必要はなかった。
今日は、ユイリーの案内で大通りを外れる。
路地に入り、住宅地とおぼしき場所を進む。
石畳はところどころ欠けていて、家の前には小さな庭や水桶が並んでいる。
大通りに比べて人通りは少ない。
肩に乗っていた見えない重さが、ほんの少しだけ抜けていくのが分かった。
「……あそこ」
ユイリーが足を止め、指先で斜め前を示す。
「ロブおじいちゃんの家、あそこだよ」
彼女の視線の先に、小さな木の家があった。
窓の下に植えられた草。入口の横に置かれた椅子。どこか素朴な佇まい。
その家の前には、簡素な物干し台が立っていた。
そこに、色の違う布がいくつも揺れている。
洗濯物だ。
誰かが住んでいるような生活感が、庭や窓の隙間から滲んでいた。
それを見た瞬間、もうロブの家が他人の家になっていることを悟った。
ユイリーの横顔が、わずかに強張る。
その目に、懐かしさと戸惑いとが一緒に浮かんでいるのが分かった。
「少しここで待ってて……」
俺はそう言って、ユイリーとレンを路地の角のあたりに下がらせた。
人目が少ない場所を選んで、壁際に立ってもらう。
ひとりで家の前まで歩く。
木の扉の前に立つと、喉の奥が少しだけ重くなった。
軽く息を吸って、ノックする。
手の甲で二度、短く音を鳴らした。
ほどなくして、中から足音がした。
扉が開く。
顔を出したのは、中年の女の人だった。エプロン姿で、手には布巾を握っている。さっきまで台所にいたのだろう。
「はい?」
少しだけ警戒した声。だが、露骨な敵意はない。
俺は、旅人に偽装したまま、当たり障りのない言葉だけを選んだ。
「すみません。昔、ここにロブという人が住んでいたと聞いたんですが……この家でしょうか?」
女の人は「ロブ」という名前に少しだけ眉を動かしてから、静かに頷いた。
「ええ、たぶんここですよ。確か、前の持ち主が、そんな名前の方だったと思います……」
穏やかな声だった。
「でも、その方はもうずいぶん前に亡くなっていて。今は、私たちがこの家を買って住んでいるんです」
――やっぱり。
胸の奥で、静かに何かがひとつ沈んだ。
「そうですか。教えてくれて、ありがとうございます」
俺はそれ以上踏み込まず、簡単に頭を下げた。
家の中を覗くこともしない。余計なことは何ひとつ言わない。
扉が静かに閉まる音を背中で聞きながら、路地の角へ引き返した。
ユイリーとレンが、少し離れたところでこちらを見ている。
その視線を受け止めながら、俺は首を横に振った。
「……今は、別の人の家だ」
それだけを伝えれば、二人には十分だった。
◇
ロブの家から離れた路地を、三人でしばらく歩いた。
もうユイリーの思い出の家は、他人の家になっていた。
ロブが亡くなって数年経っている。家が他人の所有物になっていたとしても不思議なことではない。
あれからユイリーは口を開いていない。
無理もないだろう。彼女が今なにを考えているかまではわからないが、複雑な心境でいるであろうことは想像に難くなかった。
「このまま街の中をうろつくのは、あまり良くないね」
俺は辺りを見渡して二人にそう言う。
ロブの家が選択肢から消えてしまった以上、改めて今後の話をしなければならない。だが、人気のある場所で、そんな話をするわけにはいかない。
場所を変える必要がある。
「……人あんまり来ないところ、知ってるよ。こっち」
ユイリーはそう言うと、俺の前を歩き始める。
彼女の案内で、さらに街の端へと向かった。
石畳はだんだんと荒くなり、家の数も減っていく。
広い通りのざわめきは遠ざかり、かわりに、かすかな水の流れる音と、湿った空気の匂いが鼻につき始めた。
やがて、街の外れにぽっかり口を開けた下水口が見えてきた。
石で縁取られた暗い穴から、濁った水が細く流れ出ている。
近くには人影がなかった。
通りのざわめきも届かない。ここなら、誰かに聞かれる心配をせずに話ができそうだった。
「一旦ここで休もう。これからの話もしないといけないしね」
俺はそう言って、下水口の近くの乾いている石の上に腰を下ろした。
俺とレンも少し距離をあけて座る。
「ひとまず、今の状況を整理しよう」
俺は二人の顔を見る。
ユイリーはフードの影からこちらを見上げ、レンは少し不満げに唇を噛んでいた。
ロブの家は、もう別の人のものだった。
森の集落は、二度と戻れない場所になった。
一番現実的だった選択肢がなくなってしまった。
だからまた改めて考えなければならない。
「行く宛なんかどこにもないわよ……」
レンはただ下を見て、そう呟いた。
その言い方に、諦めと怒りとが少しずつ混じっているように聞こえた。
彼女なりに状況を理解しているからこそ、簡単には次の案が出てこないのだろう。
「そうだけど、とりあえず、寝る場所をどうするか考えないといけない」
俺は、自分の中で優先順位を並べ直す。
明日以降の稼ぎのことも、食べ物のこともある。けれど、まずは夜を越える場所だ。
そう言ったとき、ユイリーが下水口の暗い穴をじっと見ていた。
水の音が小さく響く中で、フードの影に沈んだ目が、さっきより少し遠くを見ている気がした。
少し間があってから、ユイリーが口を開く。
「……ここ」
声は小さい。
「ここなら、人、あんまり来ない。雨も、風も……全部は無理だけど、けっこうしのげる」
言いながら、ユイリーは石壁の張り出したところや、影になった隙間を指さした。
実際ここは人気が少ない。
身を隠すという一点だけで考えれば、理想的とも言えた。
「ここに住もうってこと?」
思わず口にすると、自分の声が少し硬いのが分かる。
確かに人目は避けられる。だが、不衛生で人が住めるような環境とはとてもじゃないが言えない。
ユイリーは視線をそらし、唇をきゅっと噛んだ。
少ししてから、小さく息を吐く。
「ロブおじいちゃんに拾われるまでね……私、ここで暮らしてたの」
レンが息を飲む音が聞こえた。
「ここで……暮らしてた?」
「うん」
ユイリーは頷く。
「拾って食べられそうなもの探したり、雨降るときに濡れない場所覚えたり……ねるときは、人に見つからないように隠れてた」
淡々と話しているのに、その情景だけははっきり浮かんだ。
濁った水の匂い。冷たい石。人に見つからないように隠れて寝る子どもの姿。
胸の奥が、ひゅっと縮む。
「……一人で、こんなところで……」
自分の声が少し低くなる。
誰かを責めるような調子にはしたくなかったが、やり場のないものが喉に引っかかった。
「こんなところ、子どもが暮らす場所じゃないよ……」
分かりきったことを口に出してしまう。
分かっていても、その上で生きるしかなかった過去が、目の前のユイリーの中には残っている。
ユイリーは小さく肩をすくめた。
「でも……そのとき、ここしかなかったから」
その一言で、言い返す言葉が全部喉の奥で止まった。
「ここしかなかった」という状況に、誰も手を伸ばさなかった世界が、静かに目の前に広がる。
ユイリーは、少しだけ柔らかい顔をして、俺とレンを見た。
「今は二人と一緒だから。前みたいに一人じゃないから、きっと前よりも上手くやっていけると思うんだ」
それは実際にここに住んだユイリーの経験則から来る判断なのだろう。
確かになにも知らなかった子供でも生き残ることが出来たのであれば、今の状況ならやっていくことは出来るかもしれない。
なにより今は、俺がいる。
外で金を稼いでいけるのであれば、食べ物は用意できるはずだ。
俺は一度、ゆっくり息を吐く。
「……ここで暮らしてたことを、教えてくれてありがとう」
それがまず、言うべきことだった。
「正直、聞いてて気分はいい話じゃなかった。でも、知らないままより、ずっといい」
言葉にしてみると、胸の中のざわめきが少しだけ形になった気がした。
「ここは、住む場所には向かない」
石の冷たさも、匂いも、さっき聞いた話も、全部込みでそう思う。
「けど――今の俺たちには、他に選べる場所がないのも事実だ。ロブさんの家には住めないし、森にも戻れない。街の中で目立たずに隠れていられて、人がほとんど来ない場所となると、もうここしかない」
そこまで言って、下水口の影をもう一度見渡す。
「だから、今は一時的にここを拠点にしよう」
自分に言い聞かせるように、ゆっくり続ける。
「ちゃんと住める場所を見つけるまでの間だけ、ここを使おう。
ちゃんと別の場所を探す。その間、雨風をしのげて、人目につかない寝床として、ここを借りる」
ユイリーは少しだけ目を細めて、下水口を見た。
「前みたいに一人じゃないから。三人でだったら、ここでも……なんとかなると思う」
その言葉に、俺も短く頷く。
レンはまだ納得しきれていない顔をしていたが、それでも反論はしなかった。
ここが「ずっといる場所」ではなく、「次を探すまでの足場」だということだけは、伝わっているようだった。
濁った水の音が、一定の調子で流れていく。
誰も来ない街の端で、俺たちは一時的な居場所を決めた。
◇
下水口を一時的な拠点にすることが決まってから、数日の時が流れた。
あれから俺たちは街外れの植生地帯に何度も足を運び、キノコや薬草を収穫してなんとか生計を立てていた。
集落にいた頃ほどの規模ではないが、一日の食いぶちを用意する程度にはなんとか稼げている。
俺はいつものように簡単な食事を済ませると、立ち上がって街で手に入れた籠を手に取った。
「収穫に行ってくるね」
そう告げると、ユイリーが顔を上げる。
「わかった。今日はいっぱい採れるといいね」
少しだけいつもの調子を取り戻した声だった。
俺が籠の紐を握り直したところで、レンが口を開く。
「……私も行くわ」
レンは一度ユイリーに視線を向けてから、ため息をひとつ吐いた。
「でも、あんまり出歩くと危ないんじゃ……」
ユイリーが不安げに言う。
「ちゃんと耳は隠してるし、下手なことしなければ大丈夫よ」
レンはそう言って、フードの端を軽くつまんで見せた。
「人手はあった方がいいでしょ? アイトひとりより、私もいた方が効率よく採れるわ」
たしかに、森での採集はレンの方が慣れている。
俺ひとりで探すより、彼女が一緒にいた方が、売り物を見つける速度も精度も上がるだろう。
「わかった。じゃあ一緒に行こうか」
そう答えると、ユイリーが少しだけ心配そうな顔をした。
「あんたは留守番してなさい。ここなら人に見つかることもないし、じっとしてなさい」
レンはそう言ってユイリーの頭を撫でた。
「わかった。二人とも気をつけてね……」
ユイリーが頷く。
俺とレンは二人で、街外れの植生地帯を目指して歩き始めた。
◇
ここは、以前いた森ほど収穫は多くない。
緑の密度は低く、注意深く見なければ、売り物になりそうなものを見つけることはできない。
草の隙間に顔を出したキノコを一本ずつ摘み取り、食べられるものだけを籠に入れていく。
「今日もあまり収穫できそうにないな……」
毎回、採れる量にはばらつきがあり、安定しない。
そろそろここ以外に収穫できる場所を探す必要があるかもしれない――そんなことを考えながら、手だけはいつものように動かしていた。
「ねぇ、アイト」
背中から声がした。
「どうしたの?」
振り返らずに返すと、少し間を置いて、レンの声が続いた。
「どうして、あの日、集落が襲撃されたんだと思う?」
キノコを摘む手が、わずかに止まる。
「……わからない」
それしか言えなかった。
「どこからともなく人間が現れて、火まで用意してた。あいつら、どう見ても計画的に動いてた」
たしかに、その通りだと思う。
あれだけの規模で仕掛けてきた以上、無計画なんてことはありえない。やつらは集落があることを知って動いていたことは間違いなかった。
「ねぇ、アイト」
レンの声が少しだけ低くなる。
「私たちのこと、裏切ったんじゃないの?」
その言葉を聞いた途端、身体の奥底が急に冷え込むのを感じた。
思わず振り向くと、レンがこちらを見ていた。
弓を構え、まっすぐ俺を見据えている。
「レン……?」
いつかのことを思い出す。レンと初めて出会った日のこと。
あのときの視線と同じだった。殺意がこもった視線。
「レン、落ちつい――」
「近づかないで!!」
「っ……」
それは明確な拒絶だった。
弦を引く力が強くなり、張り詰めた音だけが広がる。
「俺は、なにもしてない。そんなことしないよ……」
そう答えるほかはなかった。
俺は彼女たちのことを恩人だと思っている。彼女たちだけではない。集落のみんな、俺にとって大切な人たちだった。
俺がそんなこと、するわけがない。
「どうやって信じろっていうのよ!」
普段のレンからは聞くことのない怒号だった。
「……」
言葉が喉の奥でつかえる。
「あんたは街にも村にも出入りしていた。集落の存在を漏らす機会はいくらでもあったはずよ」
確かに俺は人間相手に取引をしていた。それは事実だ。
「監視にリオンさんがいた。常に見張られていたし、そんな余裕なかったよ……」
取引の際は常にリオンが傍らにいた。そんな状態で密告なんか出来るわけがない。
だが、これも証拠にはなりえないことは、言いながら理解していた。
「師匠だって、全てを見れていたとは限らない。私はその場にいないからわからないわ」
レンの声には、怒りと不安が混ざっていた。
俺が否定すればするほど、何も決定的なものは出てこない。
「してない」と言うだけでは、疑いを完全に払うことはできない。
「お願い……私を信じさせてよ……」
レンの目から、涙がこぼれ落ちた。
弓は下ろさないままなのに、その表情だけがあまりにも弱々しく見えた。
「お願いだ、レン。信じてほしい……」
俺もそう言うしかなかった。
それ以外に、言える言葉が見つからなかった。
しばらく、弦の張り詰めた音だけが間を埋める。
「無理よ……」
レンは小さく首を振った。
「信じたいけど、どうしても怖いの。あんたが人間と話してたことも、集落が襲われたことも、頭の中で勝手に繋がっちゃうの」
矢先は、まだ俺を向いている。
「アイト……私たちの前から消えて」
最後の一言だけが、はっきり耳に届いた。
矢は放たれなかった。
けれど、その言葉だけで、胸の奥を撃ち抜くには十分だった。




