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第二十六話 行方

 男は膝から崩れ落ちた。

 短く息を吐いて、肩を小刻みに震わせて――それきり、動かなくなる。


 胸の奥が、いやな意味で静かだった。


 「……アイト! ユイリー!」


 森の薄暗がりの向こうから、聞き慣れた声が飛んできた。

 枝をかき分けて現れたレンが、弓を片づけながら真っすぐこちらへ駆け寄ってくる。


 どうやら矢を放ったのはレンだったようだ。


 「怪我はない?」


 息を整える暇もなく、レンは俺とユイリーの顔を順番に覗き込む。

 その目が、俺の頭で止まった。


 「殴られたのね……」


 頭に触れられて、ひりつく痛みがはっきりする。

 さっき殴られたところだ。熱と痛みが、じわりと指先に広がる。


 レンは舌打ちをひとつしてから、自分の服の裾を掴んだ。


 「動かないで」


 そう言うと、布を勢いよく引き裂く。

 破れた布切れを細長く裂いて、手早く帯のように整える。


 「押さえるから、じっとして」


 レンは指先で血の出ているところを確かめると、裂いた布を頬に当て、後頭部へ回すように巻きつけた。

 ぐっと力を込めて縛り上げる。


 「少し痛むだろうけど、血を止めないと」


 締め付けられた場所に痛みが集まって、思わず息が漏れる。

 それでも、布の下で血の流れが弱まっていくのが分かった。


「ここも危険ね」


レンは、俺の止血を終えると周囲を見渡す。


 「さっきの男の仲間がいるかもしれない。中継地点まで追ってきたなら、この辺りももう安全とは言えないわ」


 確かに、その通りだ。

 事実さっきまで、中継地点には教団の白衣の人間がいた。追手も来ていた以上、ここも安全とは言いがたい。


 「移動する。とにかく今は集落から離れるわよ」


 レンはそう言って立ち上がると再び弓を構えた。


 「アイト、歩ける?」


 ユイリーが、心配そうにこちらを見る。


 「肩は貸してほしいけど、大丈夫。歩けるよ」


 ゆっくり立ち上がる。

 足はまだ動く。頭もなんとか回る。視界のぼやけも先程よりはマシになった。


 ユイリーは寄り添うように俺の身体を支えてくれた。

 手が、そっと腕に添えられる。


 「倒れそうになったら、すぐ掴まってね」


 その声に、胸の奥のざわつきが少しだけ静まる。

 俺は短く頷いて、森の奥――街道のほうへと足を向けた。



 ◇


 森を抜け、街道の近くまで移動した。


 夜の街道は、静かだった。

 人影は一つもなく、風だけが土と草を撫でていく。


 少し離れた土の斜面に腰を下ろすと、レンが息を吐いた。


 「……もう集落には戻れないわね」


 淡々とした言い方なのに、その言葉は重く落ちてきた。


 「そう……だね」


 そう返すと、レンはちらりと俺を見る。


 「集落は今も燃えてる。誰がどこまで逃げられたかも分からない。襲ってきた人間たちだって、まだ森の中にいて、獣人を血眼になって探してる」


 建物の焼ける匂い。倒れた屋根。叫び声。

 あの光景が、喉の奥で引っ掛かった。


 他の人たちはどうなったのかもわからない。

 捕まった者も、殺された者もいるかもしれない。

 

 そう想像して胃液が上がってくるのを感じた。

 もうあの時の幸せな時間は帰ってこないーー今さらなって、その実感がゆっくりと胸に沈んでいく。


 「そうじゃなくとも、集落の存在が教団に知られてしまった以上、もうあそこでは暮らせないわ……」


 レンの声は低かった。


 教団の話はリオンから聞いている。

 獣人を奴隷として管理しているという宗教団体。


 教団は獣人の敵だと、そう教わった。


 実際、集落を襲撃してきたのは教団の人間だった。

 見間違えるわけもない。あの白い衣に紋章。間違いなく教団のものだ。

 

 ーーやつらはどうして、こんなひどいことが出来る?

 喉の奥で、言葉にならない問いが渦巻いた。

 

 だが、今考えるべきことは別にある。


 もう集落には戻れないのだ。

 ではーー。


 だとしたら、ユイリーたちはどこへ行けばいいんだ?


 「集落には戻れない。村や街なんて論外」


 レンが先に言った。


 村にも信者はいた。

 街にも教会がある。

 なにより、村も街も人間たちの生活圏だ。奴隷であることが当たり前の外の世界で獣人たちが生きていくのは難しい。


 「だったら、どこかここじゃない遠くの森に拠点を作って……そこで生活を始めるのは?」


 口にしてから、自分でも現実味の薄さを感じる案だった。

 それでも、何か言わずにはいられなかった。


 レンはすぐに首を振る。


 「この人数で一から森で暮らすのは、現実的じゃないわ」


 短く、はっきりと言う。


「今まで生活できてたのは、集落で積み上げたものがあったから。家も、畑も、薪も、道も。全部、みんなで何年もかけて作ったものよ」


 その言葉に、胸の奥が少し冷えた。


 たしかに、そうだ。

 今までの暮らしは、誰かが一から作り上げたものの上に乗っているだけだった。


 「それを捨てて、一から別の森でやるなんて、私たちだけじゃ無理よ……」


 レンは土の上に視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。

 尻尾が、わずかに力なく揺れる。


 沈黙が落ちる。


 夜の風が、土の匂いを少しだけ運んでくる。

 足元の草が、細く揺れた。


 「……ビッケスに行こう」


 静かな声が、沈黙を破る。


 ユイリーだった。


 「ビッケス?」


 レンが眉をひそめる。


 「ビッケスには、ロブおじいちゃんの家がある」


 ユイリーは、膝を抱えたまま空を見上げる。


 「そこなら、身を隠して生活できるかもしれない」


 ロブという名前には、聞き覚えがある。

 ユイリーとフィーレアから何度も聞いた、二人にとっての恩人。


 二人を家族として迎え入れ、守ってくれた人。

 二人を大切に育て、集落へと導いた人間だ。


 「でも、街は人間の生活圏よ」


 レンが即座に反論する。


 「人間の生活圏で獣人が暮らしていくなんて、どう考えても危険すぎる」


 それも、確かだ。


 けれど――。


 「……外に出ることは出来ないかもしれない」


 俺はゆっくり口を開いた。


 「でも、家の中なら、雨風をしのげるうえに、人目も避けられるよ」


 集落には戻れない。森で一から生活の基盤を作ることも現実的ではない。

 なら、もう選択肢は一つしかない。


 「ユイリーの案は、今ある選択肢の中では、一番現実的だと思う」


 レンがじっと俺を見る。

 その視線を、正面から受け止める。


「俺が生活に必要な金を稼ぐ」


 ビッケスで覚えた相場。

 荷車と中継地点で積み上げてきた取引の経験。


 今の俺なら、それくらいは出来るかもしれない。


 「ビッケスで取引を続けて、生活費を稼ぐよ。俺、頑張るから」


 少し息を整えてから、はっきりと言った。

 自分の声が、少しだけ震えているのを、喉の奥で感じる。


 レンは、しばらく黙ったままだった。

 土の上に視線を落とし、何かを噛みしめるような顔をしている。


 「街は危ない。でも、いまの私たちに他の手はない……」


 ぽつりと漏れた言葉は、諦めというより、現実を受け入れる音に近かった。

 

 ユイリーは、黙ってじっとレンの横顔を見ている。

 その手は、さっきから俺の袖をそっと掴んだままだった。


 「わかった」


 ようやくレンが顔を上げる。

 

 「ビッケスに行きましょう。ただし、危険だと思ったらすぐ引き返す」


 条件付きの了承。それが、今の俺たちにできる精一杯の現実的な選択だった。


 その言葉に、ユイリーが「うん」と小さく頷く。


 膝を抱えた腕に、少しだけ力が戻ったように見えた。

 

 レンは一度だけ空を見上げて、深く息を吐く。

 その吐き出した息には、不安と覚悟が半分ずつ混ざっていた。


 夜の空は高く、星の光が細く滲んでいた。

 森の端から見上げたその空は、さっきまで燃えていた集落の赤とはまったく違う、冷たい色をしている。


 俺たちは立ち上がる。

 それぞれの息を整えて、土の斜面に残った足跡を一度だけ振り返る。

 

 そして、街へ続く道へ足を向けた。

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