第二十五話 襲撃
肩を揺すられる感覚で、意識が浮かび上がった。
「……アイト」
掠れた声で名前を呼ばれる。まぶたを持ち上げると、レンが覗き込んでいた。
外はまだ暗い。窓の隙間から差し込む月明かりだけが、部屋の輪郭をうっすらと浮かび上がらせている。
「どうかしたの、こんな時間に……?」
寝ぼけた声でそう言うと、レンは小さく首を振った。
「師匠が、狩人全員を呼び集めてる。私も来るようにって知らせがあった」
ようやく頭が覚めてくる。
こんな夜遅くに狩人たちが総出で動くなんて、はじめてのことだった。
「なにかあったの?」
緊急事態なのは明白だった。こんな時間に狩りに行くとは思えなかった。それ以前に狩人を全員召集なんて普通じゃない。
「わからない。でも、急ぐように言われてるから行ってくるわね」
レン弓と矢筒を背負いながら、いそいそとそう言う。
「嫌な予感がする。あんたたちは家から出ないで」
扉の前まで止まるとレンはそう言った。
「ユイリーのこと、頼んだわよ」
振り返ると、簡易な寝台の上で、ユイリーがすうすうと寝息を立てていた。
小さな胸が規則正しく上下している。
「わかった。レンこそ、気をつけて」
そう言うと、レンは短くうなずき、扉を開けた。
レンの足音がどんどん遠ざかっていく。
こんな時間に召集、いったい何が起きているのだろうか。妙な胸騒ぎがしていた。
◇
それから俺はせっかく時間があったのでナイフを研いでいた。砥石で研いでは月明かりに当て調子を見て。その繰り返し。
それが終わると、俺は何の気なしにユイリーの寝台のそばに腰を下ろした。
薄い毛布から覗く耳が、ぴくりと動いた。
「……ん」
か細い声と一緒に、ユイリーがゆっくりと目を開ける。
ぼんやりした視線が、俺の顔を捉えた。
「あ、ごめん。起こしちゃったね」
「アイト……? どうしたの、眠れない……?」
寝起きで掠れた声だった。
上体を起こし、寝ぼけ眼を擦って辺りを見渡す。
「あれ……レンは?」
「リオンさんに呼ばれたみたいなんだ。さっき出掛けたよ」
できるだけ落ち着いた声で答える。
ユイリーはしばらく瞬きした。
「こんな時間に……? なんの用事だろ」
それは俺も気になっている。だがレンも詳しい話を聞いていなかったようだし、今はレンが帰ってくるのを待つしかないだろう。
事情は後で聞けばいい。そんな風に思っていた。
「……?」
唐突にユイリーの耳がぴんと立つ。
「……なんか、匂う」
言われて、俺も鼻をすする。
焦げたような匂いが、かすかに部屋の中まで入り込んでいた。
焚き火の匂いとは違う。もっと乾いていて、鼻の奥にひっかかるような臭いだ。
「……なにか焦げたようなーー」
そう口にした瞬間だった。
――カン、カン、カン。
鋭い金属音が、静まり返った森の夜を切り裂いた。
「え……? なにこの音?」
集落に来て以来、こんな鬼気迫る音を聞いたことは一度もなかった。
まるでなにかを警告するようなーー。
ユイリーがびくりと肩を震わせ、息を呑んでいた。
「この音……まさか」
止まることなく、カン、カン、と短く続く音。
どこか高いところから、一定の間隔で鳴らされている。
ユイリーの顔から、さっと血の気が引いていくのがわかった。
「ユイリー?」
問いかけると、彼女は震える声で答えた。
「これ、警告だ……集落に、人間が侵入してきたって知らせる合図だよ……」
「人間……?」
胸の奥が、不自然に冷えた。
ユイリーは毛布を握りしめながら続ける。
「森に人間が入ってきたら、必ず鳴らすのことになってるの……」
そのとき、外で何かがはじけるような音がした。
俺はそれを聞いて黙っていられず、慌てて扉を開けて外に出る。
夜空の色がおかしかった。
少し離れた場所で、闇を押し返すように光が煌々と揺れている。
火だ。しかも、一か所じゃない。
黒い煙が、空に向かって勢いよく立ち上っていた。
ボヤなんてレベルじゃない。
森を焦がすほどの炎が、少し遠くで燃え盛っている。
さっきから鳴り続けている警告の音が、耳の奥を打つ。
遠くから、悲鳴も聞こえた。
誰かが何かを叫んでいるが、言葉までは分からない。
――人間が侵入して来た。
さっきユイリーが口にした警告の意味が、ようやく現実として胸の中に沈み込んだ。
外から、誰かの怒鳴り声と、泣き叫ぶような声が混じって聞こえてくる。
俺は唾を飲み込み、ユイリーに向き直った。
「行こう、ユイリー。今すぐここから離れないと――」
手を伸ばし、彼女の手を掴む。
細い手首がびくりと震えた。
「逃げよう。ここにいたら危ない」
人間が来たらユイリーが捕らわれてしまうかもしれない。
そんなの、絶対ダメだ。
けれど、ユイリーは一歩も動かなかった。
掴んだ手に力を込めても、その場に根を張ったみたいに足を踏ん張る。
「でも、レンは? レンを置いていけないよ……探さなきゃ」
震えた声でそう絞り出す。触れる手は小刻みに震えていた。
「リオンさんや他の狩人の人たちと一緒にいるはずだ。きっと大丈夫だ!」
嘘だ。大丈夫だなんて保証できない。
だが、今の俺たちよりも安全な状況にあることは間違いないはずだ。今はそう信じるしかなかった。
「で、でも……フィーレアお姉ちゃん、身体が弱いんだよ。一人じゃ逃げられないよ……子どもたちもいるの。あの子たち……助けに行かなきゃ……!」
言うそばから、声が震えていく。
呼吸も浅くなって、今にも泣き出しそうだった。
俺だって、助けに行きたい。
その気持ちは同じはずなのに、いま優先すべきものが違ってしまっている。
喉の奥に、言葉にならないものがつかえた。
俺は両手でユイリーの肩を掴み、ぐっとこちらへ向かせた。
「いいかい、ユイリー。今、俺たちは危険な状態なんだ。他の人のことは今は考えちゃダメだ」
言いながら、自分でもひどいことを言っている自覚はあった。
それでも、口をついて出たのは、その言葉だった。
「でも……でも……!」
ユイリーが首を振る。
涙で潤んだ目が、必死に拒否を訴えていた。
「頼むよ、ユイリー……!」
自分でも分かるくらい、声が掠れている。
今にも泣きそうな顔をしているのは、きっと俺のほうだ。
「今だけは、俺の言うことを聞いてほしい。お願いだから」
きっと今の俺は、ひどく情けない顔をしているに違いなかった。
「逃げよう。俺たちだけで」
俺は遠回しに「他を切り捨てろ」と言っているのと変わりない。
俺にとって大事な人は、ユイリーだけじゃない。
レンも、フィーレアも、子どもたちも、この集落で顔を覚えた獣人たちも――誰ひとり、本来なら見捨てていい相手なんかじゃない。
分かっている。
分かっているが……。
俺はユイリーに人らしく生きていてほしい。捕まってまた奴隷になんてさせたくない。
天秤にかけるようなことをしているのはわかってる。
自分でも反吐が出るほど最低な行為だ。
それでも、ユイリーだけは守りたかった。
「俺を恨んでくれていい。
だけど――君だけは失いたくないんだ……」
その言葉を口にした瞬間、喉の奥がひどく痛んだ。
ユイリーの肩を掴む手に、力がこもる。
ユイリーの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
それでも彼女は、震える唇をきゅっと噛みしめて、小さくうなずいた。
◇
誰かの怒鳴り声と、泣き叫ぶような声が混じって聞こえてくる。
それでも、今の俺には、その全部に構っている余裕なんてなかった。
「行こう、ユイリー」
ユイリーの手をもう一度強く握りしめ、そのまま駆け出した。
森を目指す。
明かりはなく、遮蔽物も多い。
森にさえ入ってしまえば、それだけで見つかりにくくなるはずだ。
背中のほうで、誰かが怒鳴る声が聞こえる。
「逃げたぞ!」
その叫びが、暗闇の中でやけに近く響いた。
追われている。
理解した途端、心臓の鼓動がうるさいくらいに跳ね上がった。
「ユイリー、こっちだ!」
手を引いて、木々の間を縫うように走る。
枝が服を掴み、草が膝を叩く。
どの方向に走れば安全なのかなんて、分からない。
それでも足が、自然とある方向を選んでいた。
リオンたちと何度も訪れた中継地点――狩人たちも時々使う、森の中の小さな開けた場所だ。
◇
どれくらい走ったのか分からない。
肺が焼けるように痛むころ、ようやく見覚えのある開けた場所が見えてきた。
「着いた……」
追手は来ていないようだ。草を掻き分ける音も怒号も聞こえてこない。
ようやく息をつく。
「ここまで来ればーー」
一安心。そう言おうとした瞬間、背後から音がした。
倉庫の影から白い衣に身を包んだ男が出てきた。
その手にはこん棒のようなものが握られている。
そう気付いたときには手遅れだった。
「っ――!」
衝撃と共に世界がぐらりと揺れる。
視界が一瞬、真っ白になった。
バランスを保つこともできず、俺は身体ごと地面に叩きつけられた。
「アイト!」
耳の奥で、ユイリーの悲鳴が遠く聞こえた。
ぼやけた視界の端で、白尽くめの男がユイリーの腕を掴むのが見える。
「離してっ……やだ……!」
ユイリーが必死に暴れる。
男は苛立ったように顔をしかめ、その頬を殴りつけた。
「黙れってんだよ、この悪魔が!」
ぱん、と乾いた音が、やけに鮮明に響いた。
ユイリーの身体が揺れ、地面に倒れ込む。
頬が赤く染まっていた。
それを見た瞬間。
頭のどこかで、何かがぷつんと切れる音がした。
俺はぼやける頭でなんとかゆっくりと立ち上がると男を睨み付けた。
男はユイリーを取り押さえるのに苦戦して俺のことを忘れている。
気づいたときには、俺は腰のナイフを握っていた。
身体が勝手に動く。
ふらつく足で地面を蹴り、男の背中めがけて飛びかかる。
「うあああああっ!」
自分のものとは思えない声が喉から噴き出した。
振り向こうとした男の背中に、ナイフを突き立てる。
鈍い手応えと、一瞬遅れて生ぬるい感触が手の中に広がった。
そのまま押し倒す。
馬乗りになって、何度も、何度も、何度も突き刺した。
ぐちゃ、と嫌な音がした。
男はなにか叫んでいた。たぶん命乞いだ。
だが聞く耳など持てなかった。
男はいつのまにか、もう声も出していなかった。
それでも腕は止まらない。
「アイト! もう――もうやめて!」
ユイリーが泣きじゃくりながら叫ぶ。
それでようやく動きが止まった。
「その人……もう、死んでる」
ユイリーの震える声が、耳元で落ちてきた。
目の前には、ぐったりと動かなくなった男がいた。
血の匂いが、鼻を刺す。
自分の手に握られたナイフが、真っ赤に染まっていた。
「……あ」
喉の奥から、間の抜けた声が漏れる。
腕から力が抜けた。
ナイフが、手から滑り落ちる。
俺は尻餅をつくように後ろへ倒れ、腰が抜けたままじりじりと後ずさった。
血塗れのナイフを遠ざけるみたいに蹴り飛ばし、その場にしゃがみ込む。
膝を抱えた。
指先が止まらないほど震えているのが自分でも分かる。
俺が――人を、殺した。
現実味のない言葉が、頭の中で何度も反芻される。
手にはまだ、人を刺した感触が残っていた。
自然と涙があふれる。取り返しのつかないことをしたという罪の意識が、遅れて俺を締めつけにくる。
そんな俺を、ユイリーは、震える腕で抱きしめた。
「だいじょうぶ……大丈夫だから、アイト……」
耳元で繰り返されるその言葉は、必死に俺を安心させようとしているのが分かるくらい優しかった。
だけど――なにも大丈夫なんかじゃない。
だって、俺は人を殺してしまった。
ユイリーを助けるためとはいえ、自分の手で、人間を殺したのだ。
胸の奥がきゅうっと縮む。
抱きしめられているはずなのに、身体の芯だけが、ひどく冷たくなっていく気がした。
◇
どれくらいそうしていたのか分からない。
涙が一通りこぼれ落ちたあと、ようやく呼吸が少しだけ落ち着いてきた。
「……行かなきゃ」
自分に言い聞かせるように呟く。
ここで座り込んでいるわけにはいかない。
ユイリーの肩を借りながら、ふらつく足で森の奥へと歩き出す。
膝が笑って、何度もつまずきそうになる。
それでも、一歩ずつ前に出すしかなかった。
周りは暗く、どこまでが道でどこからが草むらなのかもよく分からない。
さっきまでいた場所のほうからは、まだかすかに悲鳴や怒鳴り声が届いていた。
「アイト……」
ユイリーが、不安そうに俺の袖を掴む。
大丈夫だ、と言いかけて、喉の奥で言葉が止まった。
「……あ?」
背後で、誰かの低い声がした。
反射的に振り向く。
松明の赤い光に照らされて、ひとりの男が立っていた。
白い衣。胸元には、村で見たのと同じ紋章。
男は足元の死体を見て、目を見開いた。
次の瞬間、顔を真っ赤にして怒鳴る。
「てめえ……! 仲間を殺しやがったな! 悪魔の手先が!」
腰からナイフを抜き放ち、こちらへ向ける。
松明の火が、刃の表面でぎらりと光った。
逃げる力なんて、もう残っていない。
ユイリーを抱えたまま走れるほど、身体は軽くなかった。
「……ごめん、ユイリー」
思わず、口からこぼれていた。
「守ってあげられなかった……」
ユイリーが目を見開く。
何か言おうと口を開きかけたその瞬間、男が地面を蹴った。
一直線に、こちらへ突っ込んでくる。
ナイフの切っ先が、視界の中で膨らんだ。
――死ぬ。
そう思ったとき。
ヒュッ、と空気を裂く音がした。
「……え?」
男の動きが、ぴたりと止まる。
次の瞬間、首元から黒い影が突き出た。
矢だ。
首に突き刺さった矢の柄だけが、松明の光を受けて揺れている。
男は何が起きたのか理解できていない顔のまま、膝から崩れ落ちた。
ナイフが手からこぼれ、土の上で乾いた音を立てる。
俺はユイリーを庇うみたいに抱き寄せたまま、固まっていた。
「……今の、矢……?」
呟いた声が、震えている。
どこから飛んできたのか、分からない。
松明の火だけが、暗い森の中で心細く揺れていた。




