第三話 獣人
弓の弦が、ぴんと張り詰めた音を立てた。
「次は外さない」
低い声がそう告げる。
頬に残るひりつく痛みが、さっきの一矢が本気だったことを思い出させた。
喉の奥が、ひゅっとすぼまる。
「やめて、レン!」
次の瞬間、視界がピンク色の髪でいっぱいになった。
ユイリーが両手を広げ、俺をかばうようにして目の前に立つ。
さっきまで俺に向けられていた矢じりが、そこでぴたりと止まった。
「ユイリー。どきなさい」
フードの奥から、低い声が落ちてくる。
年相応の高さはしているのに、言葉の硬さだけが妙に大人びていた。
「嫌だ」
ユイリーは即答した。
小さな背中越しに、肩がきゅっと強張るのが見える。
「そいつ、人間でしょ」
レンと呼ばれた子どもが、俺をねめつけるように言う。
「…………」
ユイリーはその場から動かなかった。
両手を広げたまま、しっかりと俺の前に立ちふさがっている。
「ユイリー」
レンの声に、叱るような色が混じる。
「なんでフード、外してるの。人間に姿を見られたらどうなるか、分かってる?」
責めるというより、怯えを押し殺しているような響きだった。
「……ごめん。でも、アイト、助けなきゃ死んじゃってた」
「そんなの、放っておけばよかったのよ」
きゅっと、弦の音が強くなる。
「人間を助けたって、ろくなことにならない。
わざわざ危ない橋を渡る価値なんて、どこにもないでしょ」
「それでも、助けたかったの」
ユイリーは小さく息を吸い込む。
「アイト、必死だったんだよ。あんなのに追いかけ回されてて……見捨てたくなかった」
「見られた以上、生かしてはおけない。
わたしたちのことを、誰かに話されたらどうするの」
レンは、問いかけるように言った。
「そ、それは……でも──」
「今すぐどきなさい、ユイリー。もう話すことはないわ」
さっきよりも、はっきりとした命令の口調だった。
矢じりの向きは、まだ俺たちをまっすぐ捉えたままだ。
「どかない」
ユイリーは首を振る。
両手を広げたまま、地面に足を踏ん張った。
「アイトはそんな悪い人じゃないよ」
「そんなの、分かるわけないでしょ!」
レンの声が、はじけるように跳ねた。
「人間なんて、信じるに値しない。集落のみんなから、さんざん聞いてきたでしょ?
人間が、私たちに何をしてきたか」
ユイリーの耳が、ぴくりと揺れる。
その言葉に、痛いところを突かれたみたいに見えた。
「……聞いてきた。でも」
ユイリーは小さく息を吐く。
「それでも、目の前で困ってる人を見捨てるのは、私は嫌だった」
しばしの沈黙が、三人の間に落ちた。
張り詰めた弦の音だけが、空気を震るわせていた。
「どいて、ユイリー。見られた以上、もう──」
「殺すの?」
ユイリーの声が、その先を遮った。
さっきまでとは違う、低く押さえた声。
俺の目の前の背中から、張り詰めた気配が伝わってくる。
「レン、本当に、アイトを殺すつもりなの?」
レンは何も言わず、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「必要なら、やれるわ」
「そっか」
ユイリーが、ぽつりとつぶやいた。
「でも、私は嫌だよ」
小さな肩が、ぎゅっと強張る。
「レン、いつも言ってたよね。みんなの役に立ちたいって。
だけど、それが人を殺すことなんて、おかしいよ。私、そんなの嫌だよ」
その一言が、森の空気ごと、少しだけ揺らした気がした。
「…………」
レンは何も言わなかった。
いつの間にか弓は下ろされていたけれど、その手にはまだ力がこもっている。
しばらくして、その指先から、さらに少しずつ力が抜けていくのが分かった。
やがてレンは、上を向いて大きく一度だけ息を吸い込んだ。
「……じゃあ、どうすればいいっていうのよ」
フードの奥からこぼれたその声には、もはやさっきまでの敵意は感じられなかった。どこか疲れたような、そんな雰囲気だった。
「……このまま見逃して、集落に何かあったら、そのとき誰が責任取るの」
「分かんない」
ユイリーは首を振る。
「分かんないけど……一緒に考えよ。
レンがアイトを殺さなくてもすむ方法、ちゃんと見つけよ」
レンはまた、短く黙り込んだ。
力なく弓を握りしめたまま、ほんの少しだけ肩を落とす。
◇
ここへ来てからの出来事を、頭の中でゆっくり並べ直す。
気づいたら見知らぬ森の中にいて、崖から落ちかけて、熊みたいな化け物に追いかけ回されて。
そんな窮地を助けてくれたのは、獣耳の生えた年端もいかない女の子だった。――そして、今度は別の子どもに本気で殺されかけたのだ。
あらためて並べてみると、どこから突っ込めばいいのか分からない。
濃密で混沌とした時間だったことは間違いない。
さっきのレンの態度や言動を思い返す。
俺を見たときのあからさまな敵意も、ユイリーと話すときだけ少しだけ緩む声も、全部ごちゃ混ぜになって頭の中をぐるぐる回っていた。
集落――彼女はそう口にしていた。
おそらくそこが、彼女たちの住む場所なのだろう。
そこを人間に知られることは、彼女たちにとっては死活問題なのだろう。
それこそ、発見者を排除してでも隠さなければいけないほどの。
そうならば、あそこまでのあからさまな敵意にも説明がつく。
あの矢も、俺個人というより「人間」という種族に向けられたものだったのだろう。
レンはレンなりに、その「集落」を守るための正しい選択だと信じて、弓を引こうとしていたのだろう。
今はまだ、わかっていることの方が少ない。
けれど、この見知らぬ森で彼女たちと関わり続けるうちに、いずれ全体が見えてくるのだろうか――そんなことを考えていた。
◇
手首に食い込む縄の感触が、思考を現在へと引き戻す。
両手を後ろで縛られ、顔には布を被せられ、俺はレンに引かれるようにして森の中を歩かされている。
「……はぁ」
いつになったら落ち着いて息をつけるんだろうか。




