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第二話 邂逅

 どれくらい走ったのか、もう分からなかった。


 枝が頬をかすめる。足元の根っこに何度もつまずきかける。そのたびに、前を走るフードの子どもに手をぐいっと引かれて、転びかけた体勢を立て直す。


 ここへ来てから、ずっと走り通しだ。

 崖から這い上がって、また走って、今もまだ走っている。

 肺はとっくに悲鳴を上げていて、足も自分のものじゃないみたいに重かった。


「こっち!」


 フードの子どもが、木々の間を縫うように進む。そのあとを必死で追いかけていると――


「うわっ──」


 足が根っこに引っ掛かった。


 前のめりに転び、どうにか手をついたところで、もう立ち上がれなくなった。

 膝が勝手に笑っている。足の裏も、ふくらはぎも、パンパンだ。


 子どもが振り返る。

 俺と、周りの木立を見比べてから、数歩だけ戻ってきた。


「もう走れそうにない?」


「……ごめん、無理」


 息を切らしながらそう謝ると、子どもは小さく息を吐いた。


「分かった。じゃあ、ちょっと待ってて」


 そう言って、少しだけ離れた場所にしゃがみ込む。

 地面に片耳をぴたりとくっつけて、森の奥をじっとうかがった。


 風の音と、遠くの鳥の声だけが聞こえる時間が、しばらく続く。


「……もう、追ってきてないかも」


 顔を上げて、そうつぶやいた。


 その言葉を聞いた瞬間、全身から少しだけ力が抜けるのが分かった。

 俺はその場に膝をついたまま、肩で息をしながら、ほっとしたように首を上げる。


「た、助けてくれて……ありがとう」


 子どもはこくりとうなずいた。


「どういたしまして」


 そう言って、自分のフードの端を指でつまむ。そのまま、ひょいと外した。


 布がずり落ちて、隠れていた頭があらわになる。


 淡いピンク色の髪が、肩のあたりでふわりと揺れた。光を受けてきらりと反射した瞳も、同じ色をしている。

 輪郭も肌の色も、一見すれば人間の子どもとほとんど変わらない。


 ただ一つ。髪の間からぴょこんと突き出た三角形の耳と、腰のあたりで細い尻尾が一度だけぱたんと揺れたことを除けば。


「……」


 頭が一瞬、真っ白になった。


 さっき崖の上で見た熊じみた化け物とは、まったく別方向の現実感の崩れ方だ。

 人間の形をしているのに、決定的に人間じゃない。


 こんなの、アニメやゲームの中でしか見たことがない。

 少なくとも、俺が知っている地球にはいない生き物だ。


 確信した。ここは、もう日本じゃない。

 もしかすると、地球ですらない場所かもしれない――そんな考えが、ようやく頭をかすめた。


 フードを外した子どもは、呆けたまま固まっている俺を見て、首をかしげる。


「……なにか、顔に付いてる?」


 その声で、ようやく自分が口を半開きにしたまま固まっていることに気づいた。


「いや、その……付いてるといえば付いてるけど……」


 自分でも何を言っているのか分からない返事だった。

 視線は彼女の耳に釘付けだった。


 子どもは「???」と言いたげな顔で瞬きをする。

 意味が分からない、という顔だ。けれど、その頭の上のピンク色の耳だけは、周りの音を拾うみたいに、落ち着きなくぴくぴくと動いていた。


「ねえ」


 子どもが口を開いた。


「君、なんでこんな森の中にいたの? 人間が一人でこんなところにいたら、危ないよ」


 その一言で、ようやく自分の状況を思い出した。


 冷凍庫。開かない扉。凍える空気。

 そこで意識が途切れて――目が覚めたら、さっきの熊じみた化け物がいる森の中だった。


 そもそも「なんでこんなところにいるのか」は、俺が一番知りたい。


「……うーん」


 声にならない声だけ漏れて、言葉が続かない。


 冷凍庫の話をどこまで説明していいのか分からない。

 仮に全部話したところで、自分で説明していても意味が分からないだろう。


 今、いくら考えても答えは出ない。


 それより先に、やるべきことはいくらでもある。


「正直、俺も分かってない。気づいたらここにいたんだ」


 結局、そうまとめるしかなかった。


 子どもはしばらく黙って俺の顔を見ていた。ピンク色の耳だけが、ぴくりと一度動く。


「……よく分かんないけど」


 ぽつりと落ちた声は、少しだけ困っているように聞こえた。


「少なくとも、迷子ってことだよね?」


「迷子……か」


 言われてみれば、言い得て妙だった。

 どこから来たのかも、どこへ帰ればいいのかも分からない。確かに、立派な迷子だ。


 子どもは小さくうなずいてから、自分の胸を指さした。


「わたし、ユイリーだよ。君は?」


 一瞬、言葉が出てこなかった。

 この状況で、いつも通りに名乗っていいのかどうか、ほんの少しだけ迷う。


「えっと、藍人。三日月藍人だよ」


「ミカヅキ、アイト……変わった名前だね。でも、いい名前だよ」


 ユイリーはゆっくりと繰り返してから、ふっと笑った。


 名前を呼ばれただけなのに、不思議と少しだけ現実に引き戻された気がした。


「迷子か……」


 自分で口にして、苦笑が漏れる。


「迷子なら、森の外まで送ってあげないとね」


 ユイリーが、当たり前のことを言うみたいに続けた。


「このまま一人で歩かせたら、本当に帰れなくなっちゃうかもしれないし」


 先ほどまで巨大な化け物に追いかけ回されたことを思い出す。

 あんなのがうろついている森の中を、案内もなく一人で歩き回るなんて、自殺行為にもほどがある。


 正直、そこから先どうすればいいのかなんて、全然分からない。

 それでも森の外まで連れていってくれると言ってくれることが、今はやけに頼もしく感じられた。


 そのときだった。


 空気を裂く、鋭い音がした。


 反射するより先に、頬に焼けるような痛みが走る。


「っ……!」


 思わず手を当てると、指先にぬるい感触がついた。

 見れば、うっすらと血がにじんでいる。


 さっきまで俺の顔があったあたり――すぐ後ろの木の幹に、一本の矢が突き刺さっていた。


 木目に深々とめり込んだ矢じりを見た瞬間、背筋が冷える。


 もう少しだけ遅く顔を動かしていたら、まっすぐ額に入っていたかもしれない。


 ごくり、と喉が鳴った。


「動かないで」


 低く押さえた、けれどはっきりした声が飛んできた。


 茂みの影から、フードを目深にかぶった小さな影が一人、姿を現す。

 背丈からして、ユイリーと同じくらい。大人ではない。子どもだ。


 なのに、その手つきだけは妙に落ち着いていた。


 片手で弓をしっかりと構え、もう片方の手はいつでも弦を引ける位置にある。

 矢じりの向きは、俺の胸のあたりを捉えていた。


 茂みから現れたその人物は、フードの奥からじっとこちらを見ている。

 目はよく見えないが、矢じりの向きと弓の構え方だけで、十分すぎるほど伝わってきた。


 ――明らかな敵意。


 今のところ俺に向けられているのは、警戒なんて生ぬるいものじゃない。

 ひとつでも変な動きをしたら、そのまま射抜いてくるつもりの構え方だった。



「レン!」


 横で、ユイリーが小さく叫んだ。


 さっきまでの柔らかい声色とは違う、焦りの混じった呼びかけだった。




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