第一話 転生
最初に意識したのは、息苦しさだった。
肺に入ってくる空気が重い。ひと呼吸ごとに、湿った何かが喉の奥にべったり貼りついてくる。
「……あつ」
反射でそう漏らしてから、自分の声に違和感を覚えた。
体中が汗でびっしょりだ。首筋から背中にかけて、ぬるい液体が筋になって流れていく。鼻をつくのは、油と洗剤と、安い肉を焼いたときの匂い。見慣れた厨房着の布が、肌に張り付いて離れない。
つい先ほどまで冷凍庫の中にいたはずなのに。
ぼやけた頭で、最後の記憶をあさる。白い息。冷気で軋む骨。開かない扉を叩き続けて、指の感覚が消えていくイヤな感じ。
扉の前でへたり込んで――そこでぷつりと切れている。意識が途切れたあとのことは、まったく覚えていない。
目の前にあるのは白い壁じゃなくて、濃い緑だった。
高い木がいくつも立ち並び、その枝葉が空を覆っている。葉の隙間から差し込む光が、ところどころで刺すように眩しい。耳を澄ますまでもなく、虫の鳴き声と、聞き慣れない鳥の甲高い声があちこちから飛んでくる。
床はコンクリートじゃない。湿った土と、腐葉土と、足を載せるとぐにゃっと沈む感触。
「……森?」
口に出してみても、答えなど返ってこない。
冷凍庫で、開かない扉の前でへたり込んでいた――はずの俺が、何故か常夏のジャングルみたいな場所で寝転がっている。
夢にしては汗が気持ち悪すぎるし、悪い冗談にしてはロケーションが凝りすぎている。
腕を持ち上げて、自分の身体をざっと確認する。凍傷も痣もない。指はちゃんと動くし、呼吸も問題ない。心臓も、とりあえず止まってはいないようだった。
ポケットを探ると、ぐしゃぐしゃになったレシートやボールペンは出てきたが、スマホはない。
そういえば、スマホはロッカーに入れっぱなしだった。ここにあるわけもなかった。
ここがどこかは分からない。どうして生きているのかも分からない。分かるのは、このままここに立ち尽くしていても、状況が良くなる気配は一ミリもないということだけだった。
つまり、歩くしかない。
◇
あてもなく歩き始めて、どれくらい経ったのか分からない。
汗は何度も噴き出して、そのたびに厨房着はさらに重くなる。喉はからからだが、水音は聞こえない。木の幹には見たこともない模様の苔や、妙にテカテカした虫が張り付いていた。
地球のどこかと言われれば、まだギリギリ信じられなくもない。けど、感覚的には「どこか違う」がずっとつきまとっている。
そんなときだ。
――ぐちゅ、ぐちゅ。
湿った何かを、押し潰すような音が聞こえた。
足が勝手に止まる。
少し先、茂みの向こうから、その音は続いていた。
最初は、誰かが泥の中を踏みしめているのかと思った。あるいは、熟れすぎた果物でも握りつぶしているのか。
けれど、耳を澄ますほどに、その音はもっと生々しく聞こえてくる。
軟らかいものを噛み切って、舌で押しつぶして、喉の奥へ送り込んでいるような――そんな連続したリズム。
胃の底がざわついた。
このまま引き返した方がいい。理屈ではそう分かるのに、好奇心が足首を掴んで離さない。
俺は息を殺し、茂みの影からそっと顔を出した。
そこにいたのは、大きな熊だった。
――と、最初は思った。
倒れた獣の腹に顔を突っ込んでいるそいつは、全身が黒い毛に覆われた塊だった。肩までの高さは、俺の胸より上。太く盛り上がった背。丸太みたいな前足。地面に散った血を舐め取るたび、長い舌がぬめっと光る。
ただ、それは「熊」にしては、あまりにもやりすぎていた。
背骨のラインが、不自然にうねっている。前足の爪は、木材をえぐる工具みたいに長すぎる。顔つきも、俺がテレビで見たどの熊よりも歪で、牙が口の外まではみ出していた。
それを見た瞬間、頭より先に身体が理解した。
――見つかったら、まずい。
理由なんて要らない。あれは、人間が「近くで見てていいもの」じゃない。
俺はそっと身を引き、音を立てないように一歩、後ろへ下がる。
左足が、乾いた枝を踏んだ。
パキッ、と小さな音が森に弾けた瞬間、咀嚼音が止まった。
空気が凍る、ってこういうことを言うんだろう。
ゆっくりと、その熊みたいな化け物の頭がこちらを向いた。
黒い目と目が合う。血で濡れた口から、白い牙がのぞく。そこにどれだけ知性があるかは分からない。ただ、「見つけた」とだけ伝わってくる視線だった。
「……最悪だ」
声に出たかどうか、自分でもよく分からない。
次の瞬間、地面が震えた。
熊みたいな化け物が、俺に向かって飛びかかってきた。
◇
反射で、背を向けて走り出していた。
足元の土が滑る。枝が頬に当たる。肺がすぐに悲鳴を上げる。背中の方から、地面を叩きつけるような重い足音が迫ってくる。
「無理無理無理無理……!」
こんなの、ゲームか映画の中だけで十分だろ。
冷凍庫で死んだはずなのに、なんでまた死にそうになってるんだ、俺。
息が焼けるみたいに苦しくなったころ、目の前の景色が急に開けた。
地面が、思っていたよりも手前で終わっていた。
「うおっ――!」
足が虚空を踏んで、身体が前に傾ぐ。反射で近くの木の根っこを掴んで、どうにかぶら下がる形になる。ぶら下がった先を見て、背筋が冷えた。
足元は急勾配の斜面だった。土と小石が崩れ落ちていく。少し下にはごつごつした岩肌。そのさらに下は、木々の影で暗く沈んでいる。
とりあえず、落ちたら無事では済まない。
背後から、化け物の足音が近づいてくる。
「やめろやめろやめろ……!」
木の根っこにしがみつきながら振り返ると、黒い塊が口を開けて突っ込んできていた。
次の瞬間、その前足が、俺のいた地面を踏み抜いた。
土が一気に崩れる。巨体がバランスを崩し、そのまま斜面を転げ落ちていった。
どすん、どすん、と岩にぶつかる重い音。木が折れる音。土煙。
俺は必死で根っこにしがみつきながら、その黒い塊が転がっていくのを見ていた。
「……マジかよ」
どれだけ落ちたのか分からない。だが、斜面の途中で黒い影が一度見えなくなり、しばらくしてから別のところの木々が揺れた。生きているのか、死んでいるのか、ここからじゃ判断できない。
とにかく今は、自分の身体を崖の上に戻す方が先だ。
腕に力を込めて、どうにか這い上がる。地面に転がり込んで、しばらく荒い息を吐き続けた。
「……は、はは……。生きてるの、運がいいのか悪いのか、どっちだよ」
笑いともため息ともつかない声が漏れる。
そのとき、下の方から、低い唸り声が聞こえた。
「うそだろ」
顔を上げる。さっきとは違う場所の茂みが、ごそりと揺れた。
そこから、さっきと同じ黒い塊が、土まみれになって姿を現した。
足は引きずっている。毛もところどころ抜けている。それでも、そいつは立ち上がった。こちらを見上げて、怒りとも痛みともつかない声で吠える。
俺はまた走り出した。
◇
どれくらい走ったか分からない。森の景色は似たような木と土と緑ばかりで、方向感覚が完全に死んでいる。
それでも背後の足音は、途切れずについてきた。化け物の息遣いも、低い唸り声も、距離を保ったまま背中を追いかけてくる。
足が重い。肺が焼ける。視界の端がチカチカし始めたころ――
「……嘘だろ」
地面が、また終わっていた。
今度はさっきよりも、はっきりとした断崖絶壁だった。足元から何十メートルか下に、深い谷が口を開けている。
かすかに水の音が聞こえる。どこかで滝が落ちているらしいが、崖の真下は岩と影ばかりで、水しぶきすら見えなかった。
たぶん、落ちたらそのまま二度目の死亡確定コースだ。
背後から、土を蹴る音が近づいてくる。
振り返ると、ボロボロになった熊みたいな化け物が、なおもこちらに向かっていた。片足を引きずりながらも、その目はさっきよりずっと濁った怒りで満ちている。
逃げ場はない。
前は崖。後ろは化け物。
「……詰み、ってやつか」
乾いた笑いが出た。
化け物が大きく口を開ける。血と涎に濡れた牙が、まっすぐ俺の方を向いていた。
俺はとっさに、その場でしゃがみこんだ。頭を両腕で覆い、ただ衝撃に備える。
その瞬間、何かが風を裂いて飛んでいったのが見えた。飛んでいったそれは、化け物の背に突き刺さる。
化け物が情けない悲鳴みたいな声を上げて、その場でのたうち回った。背中に突き刺さったそれは、矢のように見えた。
考えるまもなく、化け物のすぐ足元で爆発音と閃光が弾けた
土と石が跳ね上がり、衝撃が腹に響く。遅れて、白い煙が一気に広がり、その煙は俺の身体を呑み込んだ。
「うぐっ……!」
煙が喉に入り、むせ返る。目が痛い。何が起きているのか、よく分からない。ただ、化け物の悲鳴と、崖の縁で何かが崩れる音だけが、やけにはっきり聞こえた。
そのとき、不意に手首を掴まれた。
フードを深くかぶった、小さな影が目の前にいた。声は幼い。けれど、その手は驚くほど強くて迷いがなかった。
「よかった……間に合った……!」
フードの奥から、かすれた安堵の声が漏れる。
次の瞬間、その子は間髪いれずに叫んだ。
「逃げるよ!」
煙と血と土の匂いが混じる崖の上で、俺は見知らぬ子どもに手を引かれ、再び森の中へと駆け出した。




