第十九話 帰家
森の匂いが、少し懐かしく感じられた。
土と木と、湿った葉の匂い。
街の土埃と人込みの中を歩き回ったあとだからか、森の空気はやけに澄んでいるように思えた。
獣道を抜けると、木柵の向こうに集落の輪郭が見えてくる。
低い屋根と、煙の薄い筋。土を踏む足音と、獣人たちの声。
柵のそばに、ちょこんと二つの影が座っていた。
「あ、アイト!」
先に立ち上がったのは、ココちゃんだった。
尻尾をぴょこんと立てて、こっちへ駆けてくる。
「おかえりー! どうだった!? 街ってどんなとこ!?」
「あ、ココちゃーーぐぇっ!!」
勢いそのままに飛びつかれ、腹の底から珍妙な悲鳴が出てきた。そのままココちゃんを抱えながら後ろに倒れ込む。まるでミサイルだ。
「ちょっとココ! いきなり飛びつかないの! アイト大丈夫?」
ユイリーだった。
倒れ込んだ俺を覗き込むように見下ろしていた。
「はは、大丈夫。もう慣れっこだよ、こういうの」
さんざん子どもたちの鬼ごっこに付き合ってきたから子どもたちの激しいスキンシップはもはや日常茶飯事だ。
「はは。アイト、おかえり」
ユイリーが手を差し伸べながら、そう言う。
「ただいま」
ユイリーの手を取り、立ち上がる。
ようやく帰ってきたんだなと実感が湧いてくる。
「今日帰ってくる予定だったからさ、ここで待ってたんだ。ちゃんと帰ってきてくれてよかったよ」
「予定よりちょっと遅くなっちゃったけどね。俺の体力が無さすぎて休憩何度も挟んだから」
頬を掻き、そう呟く。
自虐したはいいが、俺の体力が無いというよりはリオンの体力が無尽蔵すぎるだけだとは思う。
ずんずん速度を落とすことなく歩き続けるものだから着いていくだけで精一杯だった。
そんなやりとりを横で見ていたリオンが、二人に視線を向けた。
「迎えは助かるが、続きはあとだ。まずは長老への報告が先だ」
淡々とした声に、ココちゃんは「あ、そっか」と呟くとようやく俺から離れてくれた。
「アイト、長老のところ終わったら早めに帰ってきてね。今晩はご馳走だよー」
ユイリーが、念を押すみたいに言う。
「それは楽しみだ。終わったらすぐ帰るよ」
俺はそう言って手を振りながらリオンと一緒に長老の家へ向かった。
◇
長老の家に入ると、いつもの椅子に腰掛けた長老がこちらを見た。
「戻ったか」
「はい。ただいま戻りました」
床に荷物を下ろしてから、俺は腰の袋を外した。
紐を解くと、中から銀貨と銅貨が少しだけ、乾いた音を立てて掌に転がる。
「まずは、これを」
長老の前に歩み出て、低い机の上にじゃらりと並べた。
「今回の取引で手に入った分です。数はまだ少ないですけど……」
銀貨の数枚と、その周りを埋める銅貨。
森の中では見慣れない金属の光が、焚き火の明かりを跳ね返していた。
長老は身を乗り出し、指先で一枚ずつ軽く弾いて確かめる。
ひとしきり枚数を数え終えると長老はふう、と小さく息を吐いた。
「森の外の“匂い”がするな」
ぽつりとそう言って、視線を俺に戻す。
「おまえの働きの“形”だ。預かっておこう」
銀貨と銅貨を手元に寄せると、長老は顎に手を当てた。
「それで、どうだった」
今度は問いだった。
俺は、街までの道のりと、見てきたことを順番にかいつまんで話した。
街まで、片道で半日以上かかったこと。
干し肉と薬草の大体の相場と、店ごとに買取値がばらばらだったこと。
商会の棚に積まれた干し肉や薬草が、露店に並ぶときにはだいたい二倍近い値札になっていたこと。
塩や布の値段も、目についた範囲で頭に入れてきたこと。
話し終えると、部屋に短い沈黙が落ちた。
「……なるほどな」
長老が低く呟く。
「“どこで、誰に売るか”で値が変わる、というわけか」
「そうですね。店ごとに事情も違うみたいで状況次第で価格もだいぶ変わりそうです」
うなずきながら、胸の奥でくすぶっていた考えをひとつだけ口に出した。
「あと……これは提案なのですが」
「なんだ」
「いずれは、荷車を用意したほうがいいかもしれません」
長老の視線が、少しだけ鋭くなる。
「荷車?」
隣でリオンが腕を組んだ。
「森の獣道を、そのままの形で通すのは難しいな。道を均すか、別の通り道を作る必要がある」
「はい。いろいろ解決しないといけない問題は多いと思います。
ただ今はまだ、背負えるだけでなんとかなりますけど……。
街に回す量を増やす、という話になったら、そのときは荷車か、それに近いものが必要になるかもしれません」
自分で言っておきながら、少し先走りすぎかとも思う。
長老はしばらく顎に手を当てて考え込んでから、短くうなずいた。
「急ぐ話ではないが、“先”の話として聞いておこう」
そして、机の上の銀貨を一瞥する。
「今日聞いてきた相場と店の名は、書板にまとめておけ。
これからどう動かすかは、おまえとリオンとフィーレアで詰めろ」
低い声が続く。
「街に回す量と、付き合う商会、荷の運び方――それを考えろ」
俺とリオンは、同時に「はい」と頭を下げた。
「決まったら、また報告に来い」
それで、今日のところの話は終わった。
◇
長老の家を出ると、外の空気が少し冷えていた。
空はもう赤くなり始めていて、家々の影が長く伸びている。
「今日は、ここまでだな」
隣でリオンが言う。
「詳しい詰めは、明日以降でいい。まずは身体を休めておけ」
「はい。……あの」
歩き出してから、少しだけ間を置いて口を開く。
「さっき荷車の話、しましたけど」
「ああ。なにか思い付いたか?」
リオンが横目でこちらを見る。
「森の獣道を、そのまま荷車で往復するのは、やっぱり現実的じゃないですよね」
「そうだな。道を広げれば、それだけ人間にも見つかりやすくなる。そもそも街道までの長距離を切り拓くのは現実的ではない」
それは、確かにそうだと思った。
少しのあいだ、足音だけが続く。
「……だったら、どこか間に“置き場”を作るのはどうでしょう」
自分でも、まだ形になっていない考えを、そのまま口に出してみる。
「集落からは少し離れたところに、小屋みたいなものを一つ作って。
そこに取引に使う干し肉とか薬草を溜めておいて、荷車もそこに置くんです」
リオンの耳が、わずかに動いた。
「集落からそこまでは、今までどおり背負って運ぶ。
そこから先、街道に出るまでは荷車を使う、って分け方なら……森の奥まで荷車を引っ張らなくてすむかなって」
言いながら、自分の頭の中でも、まだ輪郭がぼんやりしているのが分かる。
「中継地点、というわけか」
リオンがぽつりと呟く。
「街道に近すぎると危ないが、遠すぎても意味がない。
……悪くないが、場所選びが難しそうだな」
「そうですね。人間に見つかりにくくて、でも街道までは荷車で行けるくらいの」
自分で言っておいて、だいぶ都合のいい条件だな、とも思った。
リオンはしばらく黙って歩いていたが、やがて小さく息を吐く。
「だが、“間に一つ置き場を挟む”というその考え自体は悪いものではない。検討する余地はあるだろう」
「はい」
「明日以降、フィーレアも交えて考えよう。
おまえの思いつきが、形になるかもしれん」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
自分のまだ形も整っていない案を、完全にはねつけずに、可能性として置いてくれる。
それだけで、街まで歩いた足の疲れが、少し軽くなる気がした。
◇
家に戻ると、戸の隙間から、いい匂いが漏れていた。
中に入ると、レンが鍋の前に立っていた。
湯気の向こうで、三つ編みが少しだけ揺れる。
「ただいま」
言い終わる前に、レンがちらりとこちらを見る。
「あら、帰ってきたのね」
それだけ。
声は素っ気ないのに、耳がぴくりと動いたのが分かった。
「遅かったわね。もう少し遅かったら様子見に行くところだったわよ」
「はは、ごめん。長老とちょっと話し込んじゃって遅くなっちゃった」
思わず苦笑いが漏れる。
鍋の横では、ユイリーが皿を並べていた。
「おかえり、アイト」
こちらを振り向いて、にかっと笑う。
「なにか手伝うよ」
そう言って荷紐を外しかけたところで、背中をぐいっと押された。
「はいはい、アイトは座った座った!」
後ろからユイリーの手が背中を押してくる。
「え、いや、本当に何か――」
「もう出来るわよ」
レンが鍋から目を離さずに言った。
「鍋も火も見てるし、あとはよそって並べるだけ。
街から帰ってきたばかりなんだから、座ってなさい」
ユイリーがタイミングよく椅子を引く。
「ほら、レンの言うとおり。アイトは大仕事から帰ってきたんだから、休んで」
押し込まれるようにして椅子に腰を下ろすと、足の裏からじんわり疲れが上がってきた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「素直でよろしい」
レンは小さく鼻を鳴らした。
「その代わり、食べながら街の話、聞かせてもらうから」
そう言って、鍋の中身を木の椀によそい始めた。
◇
目の前に、湯気を立てるスープと厚切りのステーキが置かれている。
今日はユイリーがご馳走だと言っていたが、言葉通り豪勢な食卓だった。
「街はどうだった?」
スープをよそいながら、レンがさりげなく聞く。
「うーん、一言でいうと“うるさかった”かな。すごい人混みでちょっと移動するだけでも一苦労だったよ。あと、露店とかがいっぱい並んでてーー」
スープとステーキを前に、俺は今日の出来事をかいつまんで話していった。
人で溢れた通りのこと。
商会や露店のこと。
干し肉と薬草の買い取り額の違い。
「同じ干し肉なのにねえ」
ユイリーが、目を丸くしながら聞いている。
「そういうことなら取引の相手は慎重に選んだ方がいいわね」
レンは少し考えるようにスープをかき混ぜてから言った。
「記録はしてきてるんでしょうね?」
「書板にまとめておくようにって、長老から宿題もらってきたよ。忘れないうちにやっておかないとね」
そう答えると、レンは「ふん」と鼻を鳴らした。
「ならいいわ。あんたが外で覚えてきたこと、ちゃんと集落の役に立てなさい」
「うん。頑張るよ」
スープを一口飲む。
温かさが、喉から胸の奥へと落ちていく。
そんなとき、ユイリーが「そうだ」と思い出したように声を上げた。
「ねえアイト、聞いてよ」
「なに?」
「レンね、アイトが帰ってくるまでーー」
「ちょっとユイリー!」
レンが慌てて声をかぶせる。
だが、ユイリーは止まらない。
「ずっとそわそわして落ち着かなかったんだよ? 鍋かき混ぜながら何回も玄関の方見て、『もうそろそろのはずなんだけど』って」
「……!」
レンの顔が真っ赤になるのが、スープの湯気越しにも分かった。
「べ、別にそわそわなんてしてないわよ。
ただ、あんたがちゃんと生きて帰ってくるかどうか確認しておこうと思っただけで――」
「はは、ありがとう。心配してくれてたんだね」
思わず笑いながら、俺は頭を掻いた。
「し、心配なんかしてないわ。変なこと言わないで」
「はいはい」
いつもの素っ気ないふりだろうと俺は軽くあしらう。レンはそういう子だということは付き合いからもうわかっている。
レンはそっぽを向いたまま、ぽつりと呟く。
「外に出るのは集落のためなんだから。途中で勝手に死なれたら、こっちが困るわ」
その言い方は、いつもどおり棘があるのに。
不思議と、胸のあたりが少しだけ温かくなった。
やはりここが一番落ち着ける。
ここはいつの間にか自分にとって本当にかけがえのない居場所になっていたんだな、と実感した。




