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追憶 レン・三

 ユイリーとフィーレアが集落の仕事に慣れ始めたころ、私にはずっと気になっていることがあった。


 水くみや薪運び、畑の手伝いは、なんとか出来るようになった。

 でも、「森の収穫」はまだ見せていない。


 森で生きるなら、食べ物や薬になるものを自分たちで集めることは、いつか絶対に関わることになる。

 ユイリーに、その入り口だけでも見せておいたほうがいい――そう思った。


 ◇


 ある朝、私は木の籠を抱えてリオンのところへ向かった。


 リオンはいつものように、森に入る支度をしていた。

 足元を確かめて、籠の紐の具合を見て、腰に小さなナイフを下げている。


 「師匠」


 「なんだ」


 振り向いた目は、いつもどおり落ち着いていた。


 私は少し息を整えてから、切り出す。


 「ユイリーに、森の収穫の仕事を教えたいです」


 「収穫?」


 師匠の目が、わずかに細くなる。


 「水くみとか薪運びは教えました。畑の手伝いも、出来るようになりました。

 でも、森で木の実や薬草を集める仕事はまだ見せてないから……私が狩人としてユイリーに同行したいです」


 言い終わるまでに、少しだけ喉が乾いた。


 リオンは一瞬だけ私をじっと見て、それから短く息を吐いた。


 「おまえはまだ半人前だ」


 その言葉は、前にも聞いたことがある。


 「基礎は教えた。だが、おまえに誰かを“森に連れて行く狩人”としての能力は、まだない」


 胸の奥が、ずきっとした。


 分かっていた。

 リオンは厳しい。だが、親身になってくれている人だ。だからこそ忖度する気はないのだろう。

 今の私にはその能力はないし、資格もないのだとはっきりとそう告げてくる。


 「……そう、ですよね……」


 思わず視線を落としかけたとき、師匠が言葉を継いだ。


 「ただ、経験という意味では悪くない」


 顔を上げる。


 リオンは、籠を肩にかけ直した。


 「森の収穫の現場を見せることは、ユイリーにとっても、おまえにとっても経験になる。

 連れて行きたいと言うなら、長老には俺から話しておく」


 「……本当に?」


 自分の声が少し弾んだ。


 「軽く考えるな」


 リオンはそう言いつつも、完全に否定したわけではなかった。


 「森の収穫だって遊びじゃない。ユイリーを連れて出るなら、それも含めて責任を持つことになる」


 その言葉に、胸の中のしぼんだ気持ちが、別の形で膨らんでいく。


 責任。

 それなら、私もずっと向き合ってきたものだ。


 「……分かってます。ユイリーにも、ちゃんと話しておきます」


 そう答えると、リオンは短く頷いた。


 ◇


 その日のうちに、リオンは長老のところへ行った。


 私は外で籠の紐を確かめながら、半分そわそわ、半分不安な気持ちで待っていた。


 もし許可が出なかったら。

 「まだ早い」と言われたら。


 それが正しいのだろうと思いつつも、胸の奥がざわざわした。


 しばらくしてから、リオンが戻ってきた。


 「許可は出た」


 その一言で、尻尾がぴんと立ちそうになるのを慌てて抑えた。


 「本当に?」


 「ただし、条件がある」


 条件――そう聞いた瞬間、胸の高鳴りが少し落ち着く。


 「ファングァと接触した場合は、すぐ帰還して報告しろ」


 リオンの目が、少しだけ鋭くなった。


 「見かけたら、その日の収穫は中止だ。手を出さず、集落まで戻れ」


 ファングァ。

 森でもっとも脅威となる大きな獣の名だ。


 牙と爪を持ち、狩人でも数人がかりで挑む相手。

 私一人でどうにかなるような相手ではない。


 「分かりました」


 私は真面目な顔で頷いた。


 「ユイリーを連れて森に入るのはおまえだ」


 リオンは、はっきりと言った。


 「おまえの判断ひとつで、あいつの命を危険に晒すことになる」


 「……肝に銘じておきます」


 胸の中で、いろんな感情が混ざっていた。


 半人前だと言われて少し落ち込む気持ち。

 でも、長老の許可が出て、私が“ユイリーを連れて森に入る狩人”として認められたことへの嬉しさ。


 そして、「ファングァに手を出してはならない」という条件の重さ。


 尻尾がぴんと立ちそうになるのを、私は意識して抑えた。


 浮かれている場合じゃない。

 でも、少しだけ嬉しくて、森の空気がいつもより軽く感じられた。


 ◇


 森に入ると、空気が少し変わる。


 木々の匂い、湿った土の匂い、遠くで鳥の鳴く声。


 「わあ……」


 ユイリーが小さく声を漏らす。


 「森の中は集落に来るときに歩いたけど、こうやって仕事で歩くのは初めてだね」


 「きょろきょろしない」


 私は前を歩きながら振り返る。


 「足元ちゃんと見て。根っこにつまずいて転んでも起こさないわよ」


 「はーい」


 返事にまじめさは感じられないが、ユイリーはちゃんと私の後ろに付いてくる。


 少し歩いたところで、最初の木の実の場所に着いた。


 「ここ」


 私は細い枝を指さした。


 「あの黒っぽい実、見える?」


 そう言うとユイリーが背伸びして、枝の先を覗き込む。


 「それ、食べられるの?」


 「食べられる。乾かしてから煮込むと、甘くてちょっと酸っぱくなる」


 そう言いながら、私は枝を手前に引き寄せて、指先で実を摘んで見せた。


 「でも、そっちの赤いのは駄目」


 少し離れた枝の方を顎で示す。


 ユイリーが赤い実のほうを見て目を丸くする。


 「赤いほうが、おいしそうなのに」


 「見た目で選ばないの」


 私は籠の中に黒い実を落としながら言った。


 「そっちは鳥しか食べないやつよ。私たちが食べると、お腹が痛くなって寝込むことになるわ」


 「ふーん……鳥のお腹は丈夫なんだね」


 「そういう問題じゃない」


 口元が少し緩みそうになって、慌てて真面目な顔に戻す。


 「ほら、あんたも黒いほうだけ摘んで。強く握ると潰れるから、指先でそっとね」


 「わかったよー」


 ユイリーが、私の真似をしながら、慎重に枝に手を伸ばす。


 最初は二つほど潰してしまって、「ああっ」と情けない声を出していたけれど、すぐに慣れてきた。


 「レン、見て。上手く取れた」


 「はいはい。出来て当然よ」


 私はユイリーの嬉しそうな声を軽くあしらいながら木の実を集めた。


 ◇


 場所を移動しながら収穫していく。

 籠の中にはどんどん木の実や薬草がたまっていった。


 森の奥へ行きすぎないように、何度も頭の中で地図をなぞる。


 今いるのは獣道から少し外れた斜面の上。

 ここなら、戻る道も分かっているし、危ない獣の気配もまだない。


 「楽しいなー」


 ユイリーはウキウキと楽しそうに歩きながら、そう呟いた。


 「楽しい?」


 横を歩く私はそう聞き返した。

 森での収穫なんてよくやる仕事だ。楽しいもつまらないもないと思っていた。


 「うん。集落に来てからずっとだけど、なにもかもが初めましてで退屈しないんだ。お仕事も楽しいよ」


 考えたこともなかったが、よく考えてみればユイリーは森の外の出身で、生まれたときから奴隷だった。

 森に入ることもなく、街の中で生きてきたのだから、なにもかもが新鮮なのだろう。


 「楽しいならそれに越したことないわね。でも、やってるうち飽きてくるわよ」


 森ではどう生きるかはある意味自由だ。だが、同時に不自由でもある。

 毎日同じような生活の繰り返し。楽しいのはきっと今だけだ。


 「そうかな? でも、私はレンが一緒にいてくれるだけでも楽しいよ。

 仕事を教わって、たまに怒られて、一緒に料理とかして」


 「料理はあんた戦力外でしょ」


 包み隠すこともせず、思ったまま返す。

 ユイリーは「うぐっ」と心にダメージを負ったのか、胸を押さえて苦笑いしていた。


 「あはは……これからもよろしくね、レン。私も集落のために頑張るからさ」


 「はいはい。これからもちゃんと仕事教えてあげるから、さっさと一人立ちしてちょうだい」


 口では軽く言いながら、胸の奥は少しだけ温かかった。


 ――その矢先だった。


 ◇


 斜面を降りて、少し奥に進もうとしたとき。


 ふと、空気の重さが変わった。


 風は弱いのに、草の葉の揺れ方がいつもと違う。

 鳥の声も、一瞬途切れたように感じられた。


 「……レン?」


 耳を澄ませて動きを止めていた私が気になったのか、ユイリーが呼んだ。


 私は手を上げて、ユイリーに「止まれ」の合図を送った。


 獣の足音、息づかい、草を踏む気配。


 小さな、でも軽くない音が、斜面の下のほうから聞こえてくる。


 獣だ。

 しかも、普通の小動物よりは重い。


 斜面の下、少し開けた草むらの向こう側で、何かが動いた。


 私はそっと身を低くし、草の影から覗いた。


 そこにいたのは、大きな影――ではなかった。


 ファングァだ。だが、小さい。


 成獣のファングァを思い浮かべると、その半分にも満たない。

  まだ骨格が細く、動きもぎこちない。


 それでも、背中から尻尾にかけての毛並み、耳の形、額の模様。

 間違いなく、私の知っているファングァという生き物だった。


 ファングァと接触した場合は、すぐ帰還して報告しろ。

 見かけたら、その日の収穫は中止――。


 リオンの言葉が頭をよぎった。


 喉が、急に乾いた。


 小さい。

 でも、それでもファングァだ。


 まだ子ども。

 まだ、森の歩き方を覚えている途中の個体。


 獣道の匂いを嗅ぐように、ゆっくりと鼻を動かしている。

 時折、足元の草を噛んでみたり、何か音に驚いて耳をぴくりと動かしたり。


 危ない相手――そのはずなのに。


 子どもなら。

 子どもなら、私でも仕留められるはず。


 成獣になれば、集落の脅威になりかねない。

 森の獣道を変えてしまう、厄介な存在になる。


 まだ小さいうちに、ここで仕留めてしまえば。


 「レン?」


 ユイリーが私の袖を引いた。


 「どうするの?」


 「……黙ってて」


 私は、いつの間にか腰の弓に手を伸ばしていた。


 指先が、木の感触を確かめる。


 半人前だと言われたばかりだ。

 リオンからは、「ファングァには手を出すな」と言われた。


 それでも。


 「子どもくらいなら」


 心の奥で、誰にも聞こえない声がした。


 「私でも……」


 半人前なんかじゃないって、証明したい。


 森で生きる技を、ちゃんと身につけていることを見せたい。


 そのためなら――。


 弓の紐に指を掛ける。

 胸の奥で、リオンの声と、自分の声がぶつかり合っていた。


 ◇


 息を整えながら、弓を引いた。


 斜面の下で草を噛んでいた小さなファングァは、まだこちらに気づいていない。


 胸の奥が、いやな意味で静かだった。


 「私でも、出来る」


 指先に力を込める。

 弓紐が鳴るか鳴らないかのところまで引き絞って、息を止めた。


 ――放つ。


 短い音が、胸の中で響いた。


 矢は、狙いどおりに飛んだ。

 斜面を滑るように、低い弧を描いて、小さなファングァの肩口に深く突き立った。


 獣の声とも、悲鳴ともつかない鳴き声が、短く森に散る。


 子どものファングァがひっくり返るように地面に倒れ込んだ。

 足がばたついて、爪が土を掻く。でも、すぐにその動きも弱くなる。


 私は息を吐き出した。


 「今の……当たった?」


 ユイリーが、震える声で囁く。


 「当たったわ」


 喉の奥が少し震えているのを、自分で感じながら、それでも答えた。


 胸の中に、奇妙な感覚が広がる。


 恐怖と、安堵と、ほんの少しの誇らしさ。


 子どもとはいえ、ファングァを仕留めた。

 リオンが何度も「危険だ」と言っていた獣の一つを、私の矢で倒した。


 「レン、すごい……」


 ユイリーの目が、大きく開かれていた。


 「本当に、当てちゃったんだ……」


 私はその視線から目を逸らして、斜面の下を見下ろす。


 倒れた子どものファングァは、もうほとんど動いていなかった。

 矢が深く刺さった肩から、少し血が土ににじんでいる。


 「……これで、少しは安全になる」


 自分に言い聞かせるように、呟いた。


 「成獣になったら、もっと厄介な相手になってた。今のうちに仕留めておけば――」


 そのときだった。


 風の向きが変わった。


 さっきまで斜面の下のほうへ流れていた空気が、急にこちら側に押し返されるように感じた。

 草の葉が、逆向きに揺れる。


 鳥の声が、また途切れた。


 斜面のもっと下、木立の影が動いた。


 さっきの子どもの倍以上ある影が、ゆっくりと姿を現す。


 肩の高さ、厚い胸板、強そうな前脚。

 耳の形と、額の模様。

 何より、目の奥の光。


 息が詰まった。


 親だ。

 親のファングァだ。


 倒れた子どものそばまで近づいて、鼻先で匂いを確かめる。

 その仕草は、一瞬だけ静かだった。


 次の瞬間、空気を裂くような声が森に響いた。


 低くて、鋭くて、怒りをそのまま形にしたような咆哮。

 胸の奥まで響いてきて、内臓がひゅっと縮む。


 「……っ!」


 思わず、ユイリーの肩を掴んだ。


 「走るわよ!」


 そう叫ぶところで、場面は切れる。

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