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追憶 レン・四

 「走るわよ!」


 親のファングァが咆える声を背中で聞きながら、私はユイリーの手を掴んで斜面を駆け上がった。


 足元の土が崩れる。

 草の根が足に絡まりそうになる。


 それでも、走るしかなかった。


 振り返る余裕なんてない。

 背中のほうで、土を蹴る重い音がする。爪が土を裂く音も混ざっていた。


 親のファングァが、斜面を登ってきている。


 「レン、待って……!」


 ユイリーの声が、半分泣きそうになっている。


 「転びそう……!」


 「転んだら終わりよ! 耐えて!」


 息が苦しい。胸が焼けるように痛い。

 それでも、斜面の上――獣道まで辿り着けば、まだ逃げようはある。


 斜面を登り切る少し手前で、足場が悪くなった。


 乾きかけた土が、踏みしめた途端にさらっと崩れる。


 「レン――」


 言いかけた瞬間、足元が崩れた。


 「わっ――」


 ユイリーはその場で崩れ、斜面を滑りそうになる。


 「ユイリー!」


 私は咄嗟にその場の木を掴み、身体を支えた。

 引く手に力を込め、ユイリーを引き寄せ、ユイリーが滑り落ちるはないようにした。

 

 崩れた土がさらさらと斜面を滑る。

 その向こうには怒り狂ったファングァの姿がある。足場の悪い斜面を滑ることも気にせず、上ってこようとしている。


 「っ……!」


 なんとかユイリーを斜面の上まで引き寄せる。

 私もユイリーもひどく息が上がっていた。


 「……っ!」


 ユイリーは足を触り、悲痛の表情を浮かべた。


 「ユイリー、足――」


 「いた……い……」


 ユイリーが顔をしかめる。


 「足、捻った……」


 片足を庇うように抱えている。

 動かそうとしただけで、息を呑むのが分かった。


 「立てる?」


 「……無理」


 短い答え。


 まずい。


 背中のほうから、重い足音が近づいてくる。

 親のファングァが、もうすぐそこまで来ている。


 こんな状態じゃ逃げられない。


 獣の息づかいが近づく。

 土を踏む音が、すぐそこまで迫る。


 斜面を上り切られたらもう逃げようがなくなる。


 「肩に手を! 逃げないと!」


 私の力じゃユイリーを背負って逃げるのは無理だ。

 せめて肩を貸して少しでも遠くへ逃げなければ。


 ユイリーを支えながら駆け出す。

 ユイリーは息が荒く、脂汗も滲んでいた。

 こんな調子じゃ長くは走れない。


 後ろから咆哮が響く。

 振り返るとそこにはファングァがいた。


 こちらを目掛けて痩せた木々を薙ぎ倒しながら走ってくる。


 距離が、一気に詰まる。


 さっきまで斜面の下にいたはずの巨体が、もうすぐそこまで迫っていた。

 地面を蹴るたびに土が跳ね、爪が石を削る音が耳に刺さる。


 逃げ切れる距離じゃない。


 次の瞬間には、飛びかかってきてもおかしくなかった。


 「ごめん……!」


 思わず声が漏れた。


 逃げきれない。


 そう分かった瞬間、私はユイリーを引き寄せ、その上に覆いかぶさった。


 せめて、少しでも。


 牙が届くなら、自分のほうに。


 そう思った瞬間には、もうユイリーの上に覆いかぶさっていた。


 ――そのとき。


 鋭い風切り音が、上から落ちてきた。


 次の瞬間、親のファングァの咆哮が歪む。


 顔を上げる。


 獣道の上に、影が立っていた。


 「師匠……!」


 リオンだった。


 放たれた矢が、ファングァの片目に突き立っている。

 血を滲ませながら、獣が怒りの声を上げる。


 「伏せてろ!」


 怒鳴り声。


 同時に、リオンが何かを投げた。


 地面に落ちたそれが弾け、白い煙が一気に広がる。


 視界が消える。

 鼻に刺激のある匂いが刺さる。


 ファングァが煙の中で咆える。

 だが、動きが鈍る。


 「レン!」


 煙の向こうから声が飛ぶ。


 「ユイリーはどうした!」


 「足を捻ったみたいで、動けない状態です!」


 叫び返す。


 すぐに足音が近づいてきた。


 煙の中から伸びてきた腕が、ユイリーの手首を掴む。


 「っ……!」


 引き上げられ、ユイリーが小さく悲鳴を上げる。


 リオンはそのまま、ユイリーを肩に担ぎ上げた。


 「走るぞ! ついてこい!」


 その声に従い、獣道を走り出す。


 私はリオンの背中を追った。


 後ろで、ファングァの咆哮が響く。

 だが、さっきよりも遅い。


 片目を潰されたせいで、動きが鈍っている。


 「振り返るな」


 リオンの声。


 「足を止めるな」


 私は、ただそれに従った。


 ◇


 どれくらい走ったのか分からない。


 気づけば、見慣れた集落の景色が目に入っていた。


 家々の間を抜けて走る私たちに、周りの視線が集まる。


 ユイリーを担いだリオンの姿を見て、ただ事ではないとすぐに伝わった。


 「どうした」


 年配の男が声をかける。


 「ファングァが出た。猟長に報告を頼む」


 リオンの一言で、空気が張り詰めた。

 声をかけてきた年配の男はそそくさとその場を離れていった。おそらく猟長にファングァの件を知らせに行ったのだろう。


 リオンはユイリーは座らされ、足を確かめられる。


 少し動かしただけで顔を歪めるが、骨は折れていないらしい。


 「しばらく安静にしていろ」


 そう言われ、布で足を固定された。


 「森の仕事は当分なしだ」


 「はい……」


 その返事には、悔しさが滲んでいた。


 ◇


 私はそのまま、リオンと一緒に長老の家へ向かった。


 「話せ」


 短い一言。


 私は、全部そのまま話した。


 ファングァの子を見つけたこと。

 撃ったこと。

 条件を破ったこと。


 言い終わる頃には、自分でもはっきり分かっていた。


 全部、自分の判断の結果だ。


 「……約束は、何だった」


 低い声が落ちる。


 「ファングァと接触したら、帰還して報告……です」


 「守らなかったな」


 「はい」


 それ以上、言い訳はしなかった。


 長老はしばらく黙り込んでから、言った。


 「折檻部屋に入れ」


 静かな声だった。


 「少しは骨に刻め」


 「……はい」


 ◇


 石造りの小さな部屋。


 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


 膝を抱えて座る。


 さっきのことが、何度も頭の中で繰り返される。


 矢を放った感触。

 ファングァの咆哮。

 ユイリーに怪我を負わせてしまったこと。


 全部、自分の選択の結果だった。


 どれくらい経ったのか分からない頃。


 扉の向こうで、小さな音がした。


 「レン?」


 聞き慣れた声。


 「ユイリー?」


 扉の下から、布の包みが押し込まれる。


 「ごはん、持ってきた」


 いつも通りの声だった。


 「足は?」


 「しばらく激しい運動は控えろだって……退屈しちゃうよ」


 少し安心する。

 怪我は軽口を叩けるくらいには軽症だったようだ。


 「ごめん」


 自然に言葉が出た。


 「私のせいで、危ない目に遇わせた……私がしっかりしなきゃいけなかったのに……」


 少しの沈黙。


 「ううん」


 やわらかい声。


 「誰だって失敗はするよ。今回はちょっと怖かったけどさ、ちゃんと生きてるから万事おっけーだよ」


 ふふん、となぜか誇らしげなユイリー声が聞こえてくる。

 たぶん彼女なりに気を遣って明るく振る舞ってくれてるのだと思う。


 「でも――」


 「はい、『でも』は禁止! 私が大丈夫って言ったんだから、それでいいの!」


 ユイリーはそう一方的に言葉を遮ってくる。

 

 「だからさ」


 少しだけ明るくなる声。


 「また森に連れてってよ」


 胸の奥が、少しだけ熱くなる。


 「まだまだ教わらなきゃいけないこと、いっぱいあるんだから」


 思わず、小さく息が漏れた。


 「……分かったわ」


 扉にもたれて答える。


 「次からは絶対に危ない目には遇わせない。仕事もちゃんと教えてあげる」


 「うんうん。結構結構。

 約束だよ?」


 「ええ、約束」


 話を終えてユイリーは帰っていった。

 足音が遠ざかっていく。


 静けさが戻る。


 でも、さっきまでより少しだけ、やわらかかった。


 あのときの約束を、私は今でも覚えている。


 ◇


 それから、いくつも季節が過ぎた。


 あの日捻った足もすっかり治って、ユイリーはまた森を歩いている。

 昔と同じように、いや、昔よりずっと手際よく、木の実や薬草を籠に入れていた。


 「レン、こっちのは大丈夫だよね?」


 少し先で、ユイリーがきのこを指差す。


 「ええ、それは食べられる。そっちの白いのは駄目よ」


 私は、何度も繰り返してきた言葉を、もう一度だけ口にした。


 ユイリーは、楽しそうに笑う。

 森の中で並んで歩くのは、あの頃から何も変わらない。


 ――ただ、その日の森には、ひとつだけ違うものがいた。


 私たちは、まだ知らなかった。


 この日の収穫の帰り道で、「アイト」と出会うことになるなんて。

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