金曜日の胃カメラ
あと1回
# 金曜日の胃カメラ
金曜の午後だった。
昨日より雲が薄く、窓から弱い光が入っていた。梅雨の中ではましな天気だった。
吉村さんが来たのは、四時少し前だった。
「ブレンドを」
「はい」
豆を挽く。吉村さんはバッグをカウンターに置いた。何か入っている感じがした。プリントアウトした紙か。
コーヒーを出すと、吉村さんはすぐに切り出した。
「人間ドック、調べてきました」
「昨日の話ですね」
「笠木さんに言われたから。帰ってから調べて、いろいろプリントして」
バッグから紙を出した。A4を数枚、折りたたんだものだった。
「それは」
「近くのクリニック三件と、少し離れたところ二件。あと市の特定健診の案内」
「そこまで」
「調べ始めたら止まらなくなって。マスターも気になるかと思って」
私は少し驚いた。
「ありがとうございます」
「笠木さんの話を聞いて、私も明日は我が身だなと思って。正直に言うと」
吉村さんがコーヒーを一口飲んだ。
「いちばん早く取れそうなところで、二ヶ月先になりそうです。七月の末か八月頭。それ以上早くしようとすると、かなり遠くまで行かないといけない」
「二ヶ月ですか」
「人間ドックは混んでるみたいで。特定健診なら少し早く取れるところもあったけど、検査の項目が少ない。まあ何もしないよりは、とは思うんですけど」
「笠木さんが言っていましたね」
「そう」
吉村さんが紙を広げた。クリニックの案内が印刷されていた。
「胃の検査が、バリウムか胃カメラか選べるんですよ。どっちにするか迷ってます」
「どちらがいいんですか」
「胃カメラの方が精度が高いらしいです。バリウムは影になったところが見えにくいこともあって、見落としがあるって話を読みました」
「なるほど」
「でも」
吉村さんが少し言葉を止めた。
「管が入るのが、こわい」
私はそれには何も言わなかった。
「口から入れるか、鼻から入れるか、それも選べるらしくて。鼻の方が楽だという話もあるけど、鼻でも管が通るということには変わりないですよね」
「そうですね」
「考えてみれば当たり前のことなんですが、いざ考えると。ずっと口の中に何かがある状態で、え、どのくらい時間かかるんですか。と調べたら五分から十分って書いてありました」
「五分は長いですか」
「長いです。私的には。あと、えずくことがある、というのも読んで」
「それは」
「しかも、前日から食事制限があるんです。胃の中を空にしておかないといけないから」
「バリウムも制限がありますよね」
「バリウムの方が制限が多かった。前日の夜から絶食で、検査後は水をたくさん飲んでバリウムを出さないといけない。それもちょっと気が重いです」
私はポットをコンロに戻した。
「どっちにするか、まだ決めていないんですが」
「決められないですね」
「精度で取るか、楽さで取るか。そういう選択になるんですが、精度の方が大事なのはわかっているんです。でも気持ちがついていかない」
「鼻からの場合は、麻酔をするところもあるようですよ」
「調べました。鼻に局所麻酔をスプレーするやつですよね。感覚が鈍くなるから、楽になるって書いてあった。それでも、管は管ですよ」
「そうですね」
吉村さんがコーヒーを飲んだ。
「あと、変わったサービスのあるところも見ました」
「変わったサービス」
「音楽を好みで選べるクリニックがあるようです。検査中にイヤホンで音楽を聴けるらしい。気を紛らわせるために、みたいな」
「それは」
「なかなかいいアイデアだと思いました。でも近くにはなかった。遠かった」
「そうですか」
「あとVRを使うところもあるとか。目をつぶって横になるのではなく、映像を見ながら。現実から離れることで緊張をほぐす、という発想らしいです」
「工夫していますね」
「工夫してるんです。需要があるんでしょうね、怖い人の。私だけじゃないんだなと思って、それだけは少し安心しました」
私は少し笑いそうになった。こらえた。
「マスターも予約入れましたか」
「まだです」
「さっさと入れてください。帰りまでに」
「帰りまでに」
「いつかやろうは永遠にやらないから」
それはそうかもしれなかった。
「笠木さんに言いますよ、入れてなかったら」
「それは」
「冗談ですが、七割は本気です」
吉村さんが紙をもう一枚出した。近くのクリニックの電話番号と受付時間が書いてある。
「これ、差し上げます」
「ありがとうございます」
吉村さんはコーヒーを飲み終えた。少しだけ残した。いつも通りだった。
「決めました、胃カメラにします。鼻から。麻酔あるやつ」
「決まりましたか」
「決めないといつまでも決まらないので。怖いけど、正確性が大事だと思うことにします」
「なるほど」
「笠木さんに言ったら、それでいいって言うと思う」
「言いそうですね」
吉村さんが財布を出した。
「ごちそうさまでした」
「お疲れ様でした」
ドアが閉まった。外はまだ明るかった。梅雨にしては珍しく、夕方の光が窓から少し入ってきた。
もらった紙を、カウンターの隅に置いた。電話番号が書いてある。帰りまでに、と言われた。帰りまでは無理かもしれないが、今週中くらいには。そう思ったが、今週中もいつかやろうと変わらないかもしれない、とも思った。バリウムか胃カメラか、まだ考えていなかった。とりあえず電話番号は手元にある。それだけだった。




