木曜日の健康診断
100回まであと2回。
# 木曜日の健康診断
木曜の午後だった。
曇っていた。梅雨の晴れ間かと思っていたが、午後になるとまた空が重くなった。蒸し暑さだけが残っている。午前中に一度窓を開けたが、湿気ごと入ってくる感じがして、すぐ閉めた。
二時過ぎに吉村さんが来た。カウンターに座って、ブレンドを頼んだ。仕事の合間という感じではなかった。少し疲れた顔をしていた。
「ブレンドを」
「はい」
豆を挽く。吉村さんはしばらく黙っていた。
「健康診断って、マスターは行ってますか」
コーヒーを出したあとで言った。
「最近は行っていないですね」
「最近って、どのくらい」
「十年以上は経つと思います」
「十年以上」
吉村さんが少し目を丸くした。
「私も行ってないけど。そんなに経ってるとは思わなかった」
「自営業だと機会がないですからね」
「そうなんですよ。会社員だと職場でやってくれるじゃないですか。健康診断の日、みたいなのが」
「そうですね」
「自分でやろうとすると、どこに行けばいいかもよくわからないし、費用も自分持ちですし」
「面倒ですね」
「面倒。それで毎年、まあ今年も大丈夫だろうと思ってるうちに過ぎていく」
吉村さんがコーヒーを一口飲んだ。
「何かあったんですか」
「知り合いが、ちょっと」
吉村さんが言葉を選んだ。
「大事には至らなかったんですけど。去年、検査で引っかかって気が付いた。自覚症状は何もなかったそうです」
「それは」
「調べたら見つかって、早期だったから処置できた。でも、何もないと思っていたのに、って話。だから私も今年は行こうかなと思い始めています」
「そうですか」
「でもどこに行けばいいかがわからない。ここ何年も行ってないから、行き方を忘れてしまった」
私は少し笑いそうになった。こらえた。
「人間ドックというのがあるようですよ」
「知ってはいるんですけど。高いイメージがあって」
「三万から四万くらいと聞いたことがあります」
「やっぱりそのくらいしますか」
「健康保険組合によっては補助が出ることもあるようですし、市の特定健診というのもあって。四十歳以上なら無料か、ほぼ無料で受けられるようです。人間ドックほど詳しくはないですが」
「市の特定健診、聞いたことある。受けたことないけど」
「私もないですが」
吉村さんがカップを置いた。
「マスターも十年以上行ってないなら、一緒に行きます?」
「一緒には行かないですよ」
「そうですよね。なんか言ってみたくなった」
ドアベルが鳴った。笹木さんだった。
「いらっしゃいませ」
「蒸しますね」
笹木さんはカウンターに座って、ブレンドを頼んだ。吉村さんの隣だった。
「何の話をしていたんですか」
「健康診断の話です」
「ああ」
笹木さんがバッグを隣の椅子に置いた。
「行ってますか、笹木さん」
「去年から行き始めた。それまでは行っていなかった」
「去年から、というのは何か」
笹木さんが少し間を置いた。
「主人が検査で引っかかって。本人は何ともなかったのに、見つかったんです」
吉村さんが静かになった。
「それは知りませんでした」
「あまり言わなかったから。でもそれ以来、行かない人に会うと言うようにしています」
笹木さんがこちらを見た。
「マスターは」
「前の時から十年以上は経ちます」
「それはいけません」
静かな言い方だった。笑いを含まない方の静かさだった。
「病気のときは病院に行きますよ」
「病気になってからじゃ遅い話があるんです。主人がそうだった」
それ以上は言わなかった。コーヒーを一口飲んで、それきりだった。
吉村さんが少し後で言った。
「笠木さん、怖い」
「聞こえてますよ」
「笹木さんですよ」
「それはどっちでもいいです」
吉村さんが小さく笑った。
しばらくして、笹木さんが腰を上げた。
「人間ドックにしなさい。混んでるから、早めに予約を入れること」
「はい」と吉村さんが言った。
笹木さんがこちらを向いた。
「マスターも」
「検討します」
「検討じゃなくて、行動です」
笹木さんが伝票を置いて出ていった。
吉村さんがカップを置いた。コーヒーが少し残っていた。
「怒られましたね、二人とも」
「そうですね」
「でも笹木さんが強く言うには、理由があるんですね」
「そうですね」
吉村さんも立ち上がった。
「マスター、本当に行った方がいいと思いますよ。十年以上は、さすがに」
「わかっています」
「わかってる人が十年放置してるんだから、困ったものですが」
吉村さんが出ていった。
カウンターが静かになった。笹木さんの主人のことを、私は知らなかった。あまり語らない人だから。でも今日、言いに来たような気がした。何もないことを確認するためのもの。そう思えるようになるまでに、それなりのことがあったのだろう。電話一本入れるだけのことが、十年以上できていなかった。わからないけれど、そろそろ動かないといけない気がした。




