金曜日のエアコン
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# 金曜日のエアコン
午後三時ごろだった。
雨が降り始めた。細かい雨で、窓ガラスがうっすら曇った。梅雨らしい雨だった。降り始めるとしばらく止まない気がする天気だった。
笹木さんが傘を持って入ってきたのは、雨が始まってすぐのことだった。
「いらっしゃいませ」
「さっき降り始めた」
「そうですね」
笹木さんはいつものカウンター席に座った。アイスコーヒーを頼んで、バッグから文庫本を出した。今日は読む気分らしかった。開いてすぐ、三ページほどで一度止まった。それから栞を挟んで閉じた。読む気分だと思ったが、違ったのかもしれない。
しばらくして、三十代くらいの女性が二人入ってきた。雨宿りというよりは、目的があって来た様子だった。傘を入口のスタンドに立てて、テーブル席に向かった。
「アイスコーヒー、二つお願いします」
「はい」
私がグラスを出している間、二人の話が始まった。
「エアコン、そろそろ買い替えようかと思って。いい加減古くなったから」
「また高くなってるよ、今年」
「去年もそんな感じだった気がするけど」
「もっと高くなってる。というか、安いやつがなくなりつつあるみたい。量販店行っても、下の価格帯のラインナップが薄いの」
「なんで」
「省エネ基準が変わったんだって。効率がある程度ないと、もう販売できなくなるらしくて」
私はアイスコーヒーをグラスに注いだ。氷が音を立てた。
「省エネ基準に合わないエアコンが売れなくなるから、安いやつを作らなくなったってこと」
「そう。安く作ろうとすると、基準に引っかかるみたいで」
「それって、消費者のためになってるの」
「長い目で見たらなってるはずなんだけど、初期費用が上がるから、すぐにはわからないよね。電気代が安くなるといっても、元を取れるかどうか」
グラスを持っていくと、二人は少し会話を止めた。
「ありがとうございます」
「どうぞ」
笹木さんがアイスコーヒーを一口飲んだ。本はテーブルに伏せてあった。
「でも聞いた話なんだけど」
細い方の女性が言った。
「うちの実家のエアコン、二十年以上前のやつなんだよね。このあいだ帰ったときラベルの数字が見えたから、今のやつと比べてみたら、意外と効率がいいんだよ」
「二十年以上前のやつが」
「そう。今の中位機種とほとんど変わらない数字だった。なんか複雑な気持ちになって」
「それって、昔の方が技術が進んでたってこと」
「それが違うみたい。冷媒の話らしいんだよね」
「冷媒」
「エアコンの中を流れる気体。あれで冷やしてるんだけど、昔はR22っていう冷媒が使えた。熱効率はよかったんだけど、オゾン層を壊すってことで、二〇〇〇年代に入って切り替えが進んで、今はR32とか別の冷媒になってる」
「オゾン層のために効率を下げた」
「さらに今は温暖化対策で、地球温暖化係数の低い冷媒に変えていってる。切り替えるたびに、効率面では多少後退する部分があって」
「じゃあ、昔のやつが今と同じくらいの数字なのも」
「そういうことになる。技術は進んでるのに、使える冷媒が変わるたびにリセットされる感じ、みたいな」
もう一人が少し黙った。
「それってつまり、環境基準を上げるたびに、メーカーはまたゼロから追いかけないといけないってこと」
「そう。で、技術が追いついてきたころに、また基準が厳しくなる」
「どっちかしか取れない」
「今の技術では」
しばらく黙った。二人とも少し宙を見た。
「省エネとオゾンホールと、どっちを取るかみたいな話」
「そういうことになっちゃう」
「それって誰かが意地悪をしてるわけじゃなくて」
「誰も悪くないんだよ。でも消費者は高いエアコンを買わされる」
「なんか、釈然としない」
「釈然としないよね。でも代替フロンの中でも、効率のいいものを開発してる会社はあるみたいで。しばらくしたら変わるかもしれない」
「しばらくって、何年」
「知らない。五年か十年か」
もう一人が少し笑った。
「買い替えどきが難しい」
「本当に。今買うか、待つか」
「待ったら高くなるかもしれないし」
「技術が進んだら安くなるかもしれないし」
「どうすればよかったのか」
「五年前に買っとけばよかったのかも」
「もう遅い」
二人はそこで笑い合った。梅雨らしい笑い方だと、私は思った。
しばらくして、二人は傘を取り出した。雨はまだ続いていた。
「ごちそうさまでした」
「またどうぞ」
ドアが閉まった。
笹木さんが伏せていた本を持ち上げた。開かなかった。
「何でも、どっちかを取るとどっちかが失われる話ばかりですね」
本を持ったまま言った。
「そうですね」
「エアコンも、オゾン層も。どっちが正しいかじゃなくて、どっちかしか選べないっていう」
「難しいですね」
「でも選ぶしかないから」
「そうですね」
笹木さんはそれきり黙って、今度こそ本を開いた。
会計のとき、本を閉じながら言った。
「でも、どっちも諦めてない感じがするのは、嫌いじゃないですけど」
「何がですか」
「さっきの話。代替フロンの効率を上げようとしてる人たちがいる。オゾン層も省エネも両方やろうとしてる。すぐできないだけですよね」
「そうですね」
笹木さんは傘を持って出ていった。
雨は少し弱くなっていた。店の中は静かになった。
どちらかを取ればどちらかが失われる。そういう話は、何も今始まったことじゃない。コーヒーでも、豆の個性と飲みやすさのどちらを立てるか、ということはある。でもエアコンの話は、個人の好みで決めていい話じゃない。そのくせ、決める人間が誰なのかよくわからない。気がついたら変わっていて、気がついたら選択肢が減っている。それでも次の手を考えている人間がいる、ということを、笹木さんは嫌いじゃないと言った。
私も、悪くないと思う。




