火曜日の転生者
ときにはむかしのはなしを。
# 火曜日の転生者
吉村さんが来たのは、夕方の五時過ぎだった。
「やっと雨が止んだ」と言いながら傘を畳んで入ってきた。カウンターに座って、「いつもので」と言った。
コーヒーを出すと、「今日は蒸し暑くて仕事が全然進まなかったです」と言った。
「そうですか」
「エアコンの温度設定で一時間悩みました。涼しくすると眠くなるし、暖かくすると暑いし」
「難しいですね」
「難しい。結局何も決められなくて、仕事を早めに切り上げた」
「温度設定のせいですか」
「温度設定のせいです」
私は黙った。
「仕事の内容は関係あるかもしれないけど」と吉村さんが少し間を置いて言った。
「そうですか」
「関係ないことにしておきます」
しばらくして、ドアベルが鳴った。
五十代くらいの男性が入ってきた。背が高くて、少し猫背だった。雨の中を歩いてきたらしく、肩が濡れていた。カウンターに座って、「ブレンドをください」と言った。
コーヒーを受け取るとき、男性は少し迷うような顔をした。一口飲んで、「ここ、ずっと気になっていたんです」と言った。
「そうですか」
「前を通るたびに、いつか入ってみようと思っていて」
「ありがとうございます」
男性がカップを置いた。吉村さんが横目で見た。
「実は」と男性が言った。少し声が低くなった。「変なことを言ってもいいですか」
「どうぞ」と私は言った。
吉村さんも聞いていた。
「私は、二十年前に、別の世界から来た人間で」
沈黙があった。
「別の世界」と私は言った。
「ええ。二十年前に交通事故に遭って、気づいたらこの世界にいた」
吉村さんが「転生ですか」と言った。
「転移、というのかもしれないです」
「漫画みたいな」と吉村さんが言った。
「そうですね」
「向こうの世界に、魔王とかいましたか」
「いませんでした」
「勇者は」
「いませんでした」
「じゃあ、何が違ったんですか」と吉村さんが聞いた。
男性が少し考えた。「言語が違いました。あちらでも日本語に近い言葉を話していましたが、少し違った。あとは技術が少しだけ遅れていた。携帯電話はあったけどもっと大きくて機能が少なかった」
「二十年前のガラケーみたいな」と吉村さんが言った。
「それよりもっと前くらいので」
「不便でしたね」
「不便でした」
「荷物は持ってこられなかったんですか」と吉村さんが続けた。
「何も」
「勿体ないですね。いいものがあったら持ってくればよかった」
「急だったので」
「急は仕方ない。でも事故の瞬間に気が利けばよかったですね」
男性がしばらく黙った。
「なんか気遣いのないことを言ってしまいました」と吉村さんが言った。「すみません」
「いえ」と男性が言った。「よく言われます」
「よく言う人がいるんですか」と吉村さんが言った。
「他に二人、こういう経験をした人を知っていて」
「コミュニティがあるんですか」
「たまに会って話します」
「だんだん人数が増えてるじゃないですか」と吉村さんが言った。「管理できてますか、こっちの世界」
「吉村さん」と私は言った。
「失礼でしたか」
「少し」
「すみません」と吉村さんが男性に言った。「でも本当のことを言うと、信じているわけじゃないので」
「そうだと思います」と男性が言った。「信じてくれとも思っていなくて」
「じゃあなんで話したんですか」と吉村さんが聞いた。
「たまに話したくなることがあるんです」と男性が言った。「どこかで吐き出さないと、自分でもわからなくなってくる気がするのです」
吉村さんが少し黙った。
「信じたくなるような話を一つ言います」と男性が続けた。
「あるんですか」と吉村さんが前のめりになった。
「こちらに来た直後、言葉も地理も、何もわからない状態だったんです。でも頭の中に一つだけ、ある駅の名前が浮かんでいた。文字として、はっきりと」
「駅の名前」
「地図を手に入れて調べたけど、その名前の駅は存在しなかった。でも十年以上後に、その名前の駅が開業した」
「十年以上後に」
「発表される前から、知っていた。なぜ知っていたのかは、今もわからないです」
吉村さんがしばらく黙った。私も何も言わなかった。
「その駅の名前、教えてもらえますか」と吉村さんが言った。
「言いたくないです」
「それはズルいですよ。いくらでも言える」
「……分かりました」
「高輪ゲートウェイ駅です」と男性が言った。
「えっ?」と吉村さんが言った。
「だから言いたくないんです」
「まさかと思って」と吉村さんが言った。「かなり揉めたと聞いたことがあります」
「まさかのネーミングだと思った人も多かったようですね」
「信じかけてる自分がいる」と吉村さんが言った。
私はカウンターで、何も言わなかった。
男性は会計をして立った。「聞いてくれてありがとうございました」と言った。
「またいつでも」と私は言った。
「変なことを言って、すみませんでした」
「変ではなかったですよ」
男性は出ていった。ドアベルが鳴った。
しばらく吉村さんは黙っていた。
「マスターは信じますか」と吉村さんが言った。
「さあ」
「さあって」
「わからないですね」
「駅の話だけは、少し信じたくなった」
「そうですか」
「でも確認できない」と吉村さんが言った。「確認できないものを信じるの、難しくないですか」
「難しいですね」
「でも、確認できるものしか信じないのも、なんか窮屈ですよね」
私は何も言わなかった。
吉村さんはコーヒーを少し残して帰った。いつもそうだった。
確認できないものを、たまに信じてみる。コーヒーの産地を信じるのと、少し似ているかもしれない。見てきたわけじゃない。でも、信じて飲む。たまに、それでいい気がする。わからないけれど。




