日曜日の道徳
# 日曜日の道徳
健太が来たのは、十時ごろだった。
「おはようございます」と言いながらエプロンをつけた。「今日は晴れ間がありますね、梅雨の」と言った。
「そうですね」
「梅雨の晴れ間って、蒸し暑いですよね」
「そうですね」
「文句を言ったわけじゃないので」と健太が言った。
「そうですか」
「そうです」
健太がカウンターを拭きながら、「今日も雨宮ブレンド、勧めていいですか」と言った。
「どうぞ」
「マスターもアピールしてください」
「見てます」
「また見てる」
十一時を過ぎたころ、女性が一人で入ってきた。三十代くらいで、大きめの布のバッグを持っていた。少し疲れた顔をしていた。窓際の席に座って、「ブレンドをください」と言った。
健太が寄っていって、「オリジナルブレンドもありますが、いかがですか」と言った。
「じゃあ、それで」と女性は言った。
コーヒーを出すと、女性はカップを両手で持って、しばらく何かを考えていた。健太が片付けをしながら、ちらりと見ていた。
「お仕事のことを考えてますか」と健太が声をかけた。
「え」と女性が顔を上げた。
「なんとなく、そう見えたので。違ったらすみません」
「そうです」と女性が言った。「仕事のことを」
「どんなお仕事ですか」
「小学校の教師で」と女性が言った。
「先生か」と健太が言った。「どの教科ですか」
「担任なので全部やるんですが、今は道徳の授業が難しくて」
「道徳」と健太が繰り返した。
私はカウンターで聞いていた。
「道徳の何が難しいですか」と健太が聞いた。
女性は少し迷ってから、「子どもたちが、私の考える正解を答えようとするんです」と言った。
「正解を答えようとする」
「道徳の授業って、正解がない話をするはずなんだけど、子どもたちは先生が何を望んでるかを読み取って、その通りの答えを言う。本当はどう思ってるかじゃなくて」
「探ってるんですね」と健太が言った。
「探ってる。それが授業として成り立ってるのかどうか、よくわからなくて」
「先生が正解を知ってる、という前提があるから、探してしまうんですかね」
女性が少し考えた。「そうかもしれない。私が正解を持ってるはずだ、という前提が、子どもたちにある」
「道徳に正解はない、と先生が言っても、信じないかもしれないですね」と健太が言った。
「信じない。先生が正解を持っていないはずがない、という感覚がどこかにあって」
「どうしたらいいんですかね」と健太が私を見た。
「さあ」と私は言った。
健太が「さあって」と言った。女性が少し笑った。
「先生自身が迷うような話を先にすればいいんじゃないか、と思っていて」と女性が言った。「先生もどっちが正解かわからない、ということが伝われば、子どもたちも自由に言いやすいかな、と」
「先生が迷う話」と健太が言った。「例えばどんな話ですか」
「例えば」と女性が言った。「友達が悪いことをしているのを見た。先生に言うか、言わないか」
「難しい」
「正解があるようで、ない。言ったら友達を裏切るかもしれない。言わなかったら、悪いことが続いてしまうかもしれない」
「どっちが正解ですか」と健太が聞いた。
「わからない」と女性が言った。「状況によって違うとしか言えない」
「それが道徳の答えか」
「そう言ってしまうと、今度は生徒が『状況によって違います』と答えるだけになってしまう」
「確かに」と健太が言った。
しばらく間があった。
「もっと難しい例があって」と女性が言った。「クラスで、旅行の行き先を多数決で決めました。でも決まった場所に、一人だけどうしても行けない子がいた。アレルギーがあって、その地域の食べ物が食べられない」
「それは困りましたね」と健太が言った。
「多数決は正しいはずなのに、その子がかわいそうでもある」
「でも変えたら、多数決をした意味がない」
「そう。どちらにも理由がある。子どもたちにこういう話をして考えてもらいたいんだけど、先生の顔を見て、どっちが正解か探してしまう」
「それは読み取りようがないですよね、どちらとも言えないから」と健太が言った。
「読み取れない。だから困って黙る子もいるし、どちらでもない答えを言い出す子もいる」
「どちらでもない答えって」
「『みんなで話し合えばいいと思います』とか、『先生が決めればいいと思います』とか」
「責任を分散している」と健太が言った。
「そうなのよ」と女性が言った。「上手に逃げてる」
「大人でもやりますよ、それ」と健太が言った。
女性が少し笑った。「やりますよね」
「どうしたら自分の意見を言いやすくなるんですかね」と健太が私に聞いた。
「先生が本当に迷っているということが、伝わればいいのかもしれないですね」と私は言った。
二人がこちらを見た。
「演じるんじゃなくて、本当に迷ってる話を先にしてしまう、ということですか」と女性が言った。
「授業で使う題材とは別に、先生自身が昨日困ったこと、答えが出なかったことを先に話してしまう。そうすると、先生でも答えがわからないことがある、ということが本当のことになる」
「それは考えたことがなかった」と女性が言った。「自分の迷いを持ち込んでいいのかどうか、思っていなかったから」
「迷いを見せるのが、授業になるのかもしれないですね」と私は言った。
「なってくれたら、いいけど」と女性が言った。
「でも準備が大変ですね」と健太が言った。「本当に迷った話を、常に持っておかないといけないから」
「そうなのよ」と女性が言った。「先生も毎日いろいろ迷ってるはずなのに、子どもの前ではちゃんとしてなければ、という気持ちになって」
「ちゃんとしてなくていい場面を、意図的に作る、ということですね」と健太が言った。
「意図的に、というのがなんか難しいけど」
「難しいですね」と健太が言った。「わざとらしくなるかも」
「わざとらしくなる。でも、本当に迷ってる話なら、わざとらしくはならないかもしれない」
「そういう話を、ちゃんと持っておくことが大事か」
「持っておくことが、授業の準備になるのかな」と女性が言った。少し独り言のように言った。
しばらくして、女性は帰った。「おいしかったです」と言って立ち上がった。「雨宮ブレンド、落ち着く味ですね」とも言った。
「ありがとうございます」
「また来ます」と言って出ていった。
健太が「先生も大変ですね」と言った。
「そうだね」
「答えを持ってない先生の方が、正直な気がした」と健太が言った。
「そうかもしれない」
「マスターは道徳の授業を受けてましたか」と健太が聞いた。
「もちろん」
「どんな授業でしたか」
「覚えていないなあ」と私は言った。
「覚えてないんですか」
「何を考えたかは残っていないけど、考えた時間は、たぶんあった」
健太がしばらく黙った。「それでいいのかもしれないですね」と言った。
「そうかもしれない」
答えを覚えているより、答えを探したことの方が残ることがある。コーヒーのレシピを覚えるより、なぜそう淹れるのかを考えたことの方が、長く残る気がする。道徳もそういうものかもしれない。わからないけれど。




