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金曜日の思い込み

# 金曜日の思い込み


笹木さんが来たのは、昼過ぎだった。


文庫本を持っていたが、読む気分ではなさそうだった。カウンターに座って、「ブレンドを」と言った。


「今日は読まないんですか」と私は言った。


「読む気分と読めない気分があって、今日は後者」と笹木さんが言った。


コーヒーを出すと、「右脳人間ってどう思いますか」と言った。


「どういう意味ですか」


「自分は右脳タイプで、という言い方があるでしょう。感覚的とか、芸術的とか、そういう意味合いで」


「ありますね」


「あれ、嘘らしいんですよ」と笹木さんが言った。「右脳が感覚的で、左脳が論理的、というのが、科学的には根拠がないと。どんな思考も、脳は両側を使っている」


「そうなんですか」


「そうらしいですね。fMRIで脳の活動を見ると、右脳だけが動く、左脳だけが動く、という状態にはなっていなくて。常に両側が協力して動いている」


「でも、右脳タイプという言い方は広まっていますね」


「広まってる。みんな、どちらかに分けたいのかもしれない。自分がどういう人間か、一言で説明したい」


「説明しやすいんですかね」


「説明しやすい。でもその前提が、実はないかもしれない」


笹木さんがコーヒーを飲んだ。


ドアベルが鳴って、女性が二人入ってきた。テーブルに座って、アイスコーヒーと紅茶を頼んだ。三十代くらいで、友人同士らしかった。


「食後すぐ泳ぐと溺れる、というのも嘘らしい」と一方が言った。


笹木さんの手が少し止まった。


「嘘なの」ともう一方が言った。


「医学的根拠がないらしくて。消化に悪いとか吐き気がすることはあるかもしれないけど、溺れるほどではないって」


「でも子どものころ、必ず言われたよね」


「言われた。三十分は待ちなさいって」


「なんで広まったんだろう」


「プールサイドで走ったりしないよう、危険を回避するための言葉が変化していったんじゃないか、という説があって」


「目的が変わったのね」


「もとの意味が忘れられた」


「先週、話をしてたお客さんと似てますね」と笹木さんが小声で私に言った。


「そうですね」と私は言った。


「大事なことが忘れられて、違うものになる」


女性たちは気づかず話を続けていた。


「笑顔を作るだけで気分が明るくなる、というのはどうですか」と一方が言った。


「それは本当じゃないの」


「本当だと思っていたんだけど、元になった実験の再現がうまくいかないことが多いらしくて。ペンを横向きにくわえると笑顔と同じ筋肉が動いて気分がよくなる、という実験が有名だったんだけど」


「くわえてたら笑えますよ、それは」


「表情と感情が連動する、という仮説なんだけど、別の研究者が同じことをやっても同じ結果にならなかった、ということが多かった」


「でも笑ってたら楽しくなる感じ、しない?」


「するする。でも、するからといって科学的に証明されているかというと、別の話で」


「体験と研究は別なのかしら」


「別の場合がある。体験がある、ということと、誰でも再現できる、ということは違うわね」


笹木さんが「そうね」と言った。今度は声が届いたらしく、女性たちがこちらを見た。


「すみません、聞こえてました」と笹木さんが言った。「面白い話で」


「何か知っていますか」と一方が聞いた。


「コーヒーは体に悪い、というのも怪しいですよ」と笹木さんが言った。


「コーヒーが胃に悪いと聞いたことはありますけど」


「適量なら、むしろ体にいい影響の方が強いという研究の方が最近は多いらしいです」と笹木さんが私を見た。


「そうらしいですね」と私は言った。


「毎日飲んでる人が元気なのは、根拠があるのかもしれない」と笹木さんが言った。


「信じたいですね」と女性の一人が言った。


「信じましょう」と笹木さんが言った。


女性たちが笑った。


笹木さんが会計をしながら、「信じたいものと、本当のことが、たまに一致するから、やっかいなのよ」と言った。


「そうですね」


「一致してると思って信じてたら、違ってた、というのが一番困る」


「どう対処しますか」


「その都度疑う」と笹木さんが言った。「疲れるけど」


「疲れますね」


「でもしょうがない」と言って、笹木さんは出ていった。


女性たちはそのあともしばらくいて、帰り際に「コーヒー、また飲みに来ます」と一人が言った。「体にいいらしいから」とも言った。


体にいいかどうかは、飲む人によるかもしれない。でも、それを理由に来てくれるなら、それでいいと思った。本当かどうかは、わからないけれど。


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