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水曜日のエルニーニョ

# 水曜日のエルニーニョ


六月も半ばに入っていた。梅雨の晴れ間で、午前中だけ青空が出た。


午後の二時過ぎ、男性が一人で入ってきた。四十代くらいで、細いフレームの眼鏡をかけていた。カウンターに座って、「ブレンドを」と言った。


スマートフォンを見ながら、ときどき何かを調べていた。


ドアベルが鳴って、別の男性が入ってきた。先にいた男性と目が合って、「よかった、先に来てた」と言った。同い年くらいで、こちらも眼鏡をかけていた。カウンターに並んで座って、ブレンドをもう一つ頼んだ。


「送った記事、読んだ?」と後から来た方が言った。


「概要だけ読みました。スーパーエルニーニョ、本当だったんですね」と先にいた方が言った。


「本当らしい。今年は規模が大きい」


「大きいとどうなるんですか、具体的には」


「いくつかパターンがある」と後から来た方が言った。「エルニーニョそのものは太平洋の話で、赤道付近の海水温が上がる。それが世界の気象パターンを変える」


「日本への影響は」


「日本は、暖冬になりやすいと言われてる。冬は暖かくなって、夏は冷夏になりやすい」


「冷夏ですか」


「なりやすい、というだけで、必ずそうなるわけじゃない。でもスーパーエルニーニョの年は変動が大きくなる」


「変動が大きくなる、というのは」


「極端な気象が増える。どちらになるかわからないけど、普通じゃない年になりやすい」


「それは困る」


「農業は特に困ることになる。予測が立てにくいから。米の収量に影響が出たりする」


「前にも、エルニーニョがあって米が不足したことがなかったですか」と先に来た方が言った。


「九三年の冷夏ですね」と私は言った。


二人がこちらを見た。


「覚えていますか」と後から来た方が聞いた。


「タイ米が輸入されたことがあって」


「ありましたね」と先に来た方が言った。「タイ米って食べましたか」


「食べました」


「どうでしたか」


「慣れないと食べにくかった」


「慣れると美味しいって言う人もいますよね」と後から来た方が言った。


「そうですね。カレーには合いました」


「カレーに」


「米が変わっても、カレーは成立する、と思いました」


後から来た方が少し笑った。「前向きな受け取り方ですね」


「そうでしょうか」


「スーパーエルニーニョでも、カレーは成立する、という」


少し違うと思ったけど、私は何も言わなかった。


「今年は何月から影響が出るんですか」と先に来た方が聞いた。


「夏から秋にかけて、ということが多いらしい。今は気象庁もモニタリングしていて」


「去年の夏、猛暑でしたよね」


「猛暑でした。でも去年はエルニーニョじゃなかった。ラニーニャが終わって、エルニーニョに移行する途中だったから」


「ラニーニャ」


「エルニーニョの反対で、海水温が下がる。ラニーニャのときは日本では猛暑になりやすい」


「じゃあ去年の猛暑はラニーニャの影響か」


「影響の一つ、という感じで。原因は複数ある」


「今年は冷夏になる、ということですか」


「なりやすい、というだけで。ただエルニーニョは歴史的に見ても数年に一度の規模で、九七年から九八年のものが特に大きかった」


「九八年のころ、覚えていますか」と先に来た方が私に聞いた。


「覚えています」と私は言った。「あの年は夏が変だった気がして」


「変だったんですか」


「梅雨が長かった気がします。涼しかった記憶があって」


「冷夏だったんですか」


「はっきりは覚えていないですが、夏らしくない夏だった、という感覚だけ残っていて」


「感覚が残っているのか」と後から来た方が言った。


「漠然と」


「気象って、感覚で残るんですね」と先に来た方が言った。


「その年の夏、何かしてたんですか」


「あまり覚えていないですね」と私は言った。「学生でしたし、何もしていなかったかもしれない」


「何もしてないのに、夏が変だった記憶だけ残ってる」


「異常気象なら、覚えていることがありますね」


「確かに」と先に来た方が言った。「雨の日に何かあったとか、すごく暑かったあの日とか、天気と一緒に記憶が出てくることがある」


「今年もそういう夏になるかもしれないですね」と後から来た方が言った。


「どういう意味ですか」と先に来た方が聞いた。


「スーパーエルニーニョの夏、と覚える感じで」


「普通の夏より、覚えやすい」


「普通の夏が一番記憶に残らないかもしれない」


「何かが違う年は、何かと一緒に覚えてる」


二人は少し間を置いて、コーヒーを飲んだ。


「今年の秋に答え合わせができますね」と先に来た方が言った。


「冷夏だったか、違ったか」と後から来た方が言った。


「どっちを希望しますか」と先に来た方が聞いた。


「冷夏の方が過ごしやすい。でも農業のことを考えると、暑すぎず寒すぎず、がいいですね」


「難しいですね」


「難しい。全員が得する気候というのは、たぶんない」


「誰かにとっての都合のいい気候は、誰かにとってそうじゃない」


「気象は民主主義じゃない」と後から来た方が言った。


「うまいこと言いましたね」と先に来た方が言った。


「たまにこういうことを言いたくなる」


二人は笑って、会計をした。「答え合わせができたら報告に来ます」と後から来た方が言った。


「お待ちしています」と私は言った。


店が静かになった。


気象は民主主義じゃない、というのは本当のことかもしれない。この店も、お客さんがたくさん来る日と来ない日がある。暑い日は客が減ることがある。雨の日は増えることもある。天気に左右されながら、それでもここにある。エルニーニョの夏でも、梅雨の晴れ間でも、カウンターはここにある。それだけのことかもしれない。わからないけれど。


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