火曜日のボルダリング
ボルダリングは老若男女におすすめの、スポーツです。
# 火曜日のボルダリング
昼前に、女性が三人で入ってきた。
六十代くらいだった。三人とも動きやすそうな服装で、一人は肩にスポーツバッグを提げていた。にぎやかに話しながら入ってきて、窓際のテーブルに座った。
ブレンドを三つ頼んだ。
「あー疲れた」と一人が言った。
「疲れたって言うけど、元気でしょう」と別の一人が言った。
「元気だけど疲れた。両方あっていい」
「あっていい」ともう一人が繰り返した。
コーヒーを持っていった。三人は礼を言って、続きを話した。
「最初はひどかったわよね」と一人が言った。
「ひどかった」ともう一人が即座に言った。
「三手くらいで落ちてた」
「落ちてた。腕が上がらなくなって」
「あの日の筋肉痛がひどくて、二、三日、笑うたびに体が痛かった」
「笑うたびに」
「お腹の筋肉が。腹筋なんて使ったことなかったから」
「私は内腿が痛かった」と三番目が言った。「どうやったら内腿が筋肉痛になるのか、ボルダリングをするまでわからなかった」
「ホールドを挟む動きがあるから」
「挟む動き、なんてしたことなかったもの、今まで」
「だからこそ、という感じで」
私はカウンターで豆の在庫を確認しながら、話を聞いていた。
「でも続いてるね、私たち」と一人が言った。
「続いてる」
「週一回、お喋りのつもりで始めたんだけど」
「お喋りのつもりが、いつの間にか本気になってきて」
「本気というか、ちゃんとやらないと上がれないから」
「そうなのよ」と三番目が言った。「グレードがあって、自分の力に合ったところから始めるから、次を目指したくなる」
「達成感があるのね」
「ある。上まで行けたとき、なんかうれしくて」
「うれしい、というか、もう一回やってみよう、となる」
「なる。で、また翌週来る、という」
「上手くなってきてるのかしら」と一人が聞いた。
「上手くなってると思う。なってると、信じてる」と別の一人が言った。
三人がそろって笑った。
「この間、面白いことがあって」と一人が言った。
「何」
「二十代くらいの、スポーツで鍛えてそうな男の子に、教えてくださいって言われた」
「え」と二人が同時に言った。
「私も驚いた。その日が初めてだって言うから、こうやったら次のホールドに手が届く、とかを教えたら、すごく喜んでくれて」
「教えてくださいって言われたのね」
「言われた。ちょっとうれしかった」
「うれしいでしょう」
「うれしかった。若くてがっちりしてる男の子に、私が教えるなんて、思ってなかったから」
「一年前には想像もしなかったわね」と一人が言った。
「全然できなかったもの」
「でも続けたら、初心者には教えられるくらいになる」
「なるのよ。グレードのおかげで、段階がわかりやすいから」
「誰でも最初は最低グレードから始めるから、恥ずかしくないのよ」と三番目が言った。「比べる必要がないというか、自分の前の自分と比べるだけで」
「それがいいのかもしれない」
コーヒーをおかわりしますか、と声をかけると、一人が「いただきます」と言った。結局三人とも頼んだ。
「痩せてきたんじゃない?」と一人がもう一人に言った。
「そう?」
「そう見える」
「少しだけ、体が変わった気がする」と言われた方が言った。「体重は大して変わってないけど」
「消費カロリー、知ってる?」と三番目が言った。
「知らない」
「思ってるより多いのよ。一時間やると、四百とか五百カロリー」
「そんなに」
「全身使うから。脚も腕もお腹も。あと、力だけじゃなくて、体の使い方を工夫するから、ずっと動き続ける感じで」
「走るより多いの?」
「同じくらいか、グレードによってはそれ以上らしい。しかも楽しいから、続く」
「楽しいのが大事ね」
「大事。楽しくないと、カロリーを消費するために続けるのは無理で」
「普通のジムは続かなかったのよね」と一人が言った。「マシンをひたすら動かすのが、楽しくなくて」
「ボルダリングは目標があるから」
「そう。あの課題、上まで行けるかな、というのがあって」
「他の人のを見てても楽しいのよね」と三番目が言った。「体型も年齢もバラバラな人が、それぞれの方法でやってるのを見てるだけで面白くて」
「面白い」
「上手い人のを見ると、体の使い方が全然違うのがわかって。あ、そういうふうに動かせるのか、って」
「参考になる」
「参考になるし、純粋に見てて楽しい」
「スポーツを見るのが好きになった、という感じ?」と一人が聞いた。
「観客として見てる感じ、ではないのよ。自分もやってるから、あの動きはどうやるんだろう、という目で見てる」
「やってみるとわかることが増える」
「増える。やる前は、オリンピックでボルダリング見ても全然わからなかったけど、今は少しわかる」
三人はそれから、今日のコースの話をした。難しかったところ、うまくいったところ、次に試したいこと。声が明るかった。
帰り際に、三人が「おいしかった」と言って立った。
「また来ます」と一人が言った。「コーヒーを飲んでから帰るのが、いいんですよね」
「帰りのご褒美」と別の一人が言った。
「ご褒美になってるんですね」と私は言った。
「なってる」と三人が言った。揃って言ったので、三人で笑った。
ドアが閉まった。
身体で覚えることは、頭だけではわからない、ということがある。この仕事もそうだ。豆の挽き方も、湯の温度も、最初は言葉で教わったが、いつからか手が覚えた。続けることで、手が知っていくのだと思う。三人も、同じ何かを、週に一度積み上げている。わからないけれど。
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