日曜日の神様
# 日曜日の神様
健太が来たのは、十時を少し過ぎた頃だった。
「おはよう」とエプロンを結びながら言った。「あ、そうだ」と言って、バッグの中を探り始めた。「これ、返すよ」
文庫本だった。以前、健太に借りていた本だった。
「読みましたか」と健太が聞いた。
「読んだ」
「どうでしたか」
「さあ」
健太が少し待った。「さあって、どういうことですか」
「うまく言えない、ということ」
「うまく言えないんですか」
「うまく言えない本だった」
健太がしばらく考えてから、「それって、いい意味ですよね」と言った。
「たぶん、いい意味」
「よかった」と健太が言った。「なんか、心配してたんですよ。マスターの好みと合うかどうか」
「好みって何かは、自分でもわからない」
「わからないんですか」
「わからない。でも、じわっと何かがずっと動いている、という感じがした」
健太がうなずいた。「そうなんですよ」と言った。「声が大きくないのに、全部聞こえてくる感じで」
「そう」と私は言った。
健太が少し照れたような顔をした。「マスターがきちんと感想言うの、珍しいですね」
「そうかもしれない」
「いつもさあって言って終わるから」
「今日は少し言えた」
「どうして今日は言えたんですか」
「さあ」
健太が「また言った」と言って、苦笑した。
昼前に、四人連れが来た。
男性三人と女性一人で、年齢はばらばらだった。五十代が二人、三十代が一人、二十代が一人、という感じだった。おそろいのところは何もなかったが、慣れている雰囲気があった。奥のテーブルに広がって、コーヒーを四つ頼んだ。
「続きをやりましょうか」と五十代の男性の一人が言った。
「今日は八百万の神から入りますか」と別の男性が言った。
神道の話だとわかった。
「八百万って、八百万柱いるということですか」と二十代の女性が聞いた。
「正確には数えられない、ということですね」と五十代の男性が言った。「八百万という数字自体が、無数という意味で使われていて。実際に八百万柱を数えたわけではない」
「無数、か」
「自然のあらゆるものに神が宿るという考え方だから、数えようとすること自体がそもそも合わない」
「岩とか木とかにも」
「ええ。滝とか、海とか、風とか。目に見えないものにも神が宿るとされていて」
「それはどこから来た考え方なんですか」と三十代の男性が聞いた。
「縄文時代まで遡る、という説が有力です。農耕が始まって、自然の恵みと脅威の両方に向き合う中で、自然そのものを敬う形が生まれた」
私はコーヒーを持っていって、カウンターに戻った。豆の在庫を確認しながら、話が聞こえてきた。
「神社と神様の関係は、どうなっているんですか」と女性が聞いた。
「神社は神様の住まい、と考えると近い」と五十代の男性が言った。「本殿の中に御神体があって、そこに神様が宿っているとされている。御神体は鏡だったり、剣だったり、石だったりする」
「見られないんですよね、基本的に」
「そう。神社によっては宮司さんも見ない、という場合もある。見ることが目的じゃなくて、そこにある、ということが大事で」
「見ないのに、ある」
「ある、と信じることで、成立している」
「なんかわかる気がする」と女性が言った。「見えないけど、ある、って感じることが、たまにあるから」
「そういう感覚が、神道の根っこにあるんだと思います」と男性が言った。
「伊勢神宮はなぜ二十年ごとに建て替えるんですか」と三十代の男性が聞いた。
「式年遷宮ですね」と五十代の男性が言った。「あれは建物だけじゃなくて、装束や神宝も全部作り直す。理由はいくつか言われていて、一つは技術の継承。二十年に一度、同じものを作ることで、職人の技術が途絶えない」
「なるほど」
「もう一つは、清浄さの維持。木造建築は年数が経つと傷む。常に新しい状態で神様をお迎えする、という意味合いがある」
「新しいのに、千三百年以上続いてる」
「そう。形を変えながら、本質は変わらない。それが伊勢神宮の面白いところで」
「変えることで、続く」と女性が言った。
「変えることで、続く」と男性が繰り返した。「そういうことかもしれない」
健太が私の隣に来て、「神道って、奥深いんですね」と小声で言った。
「そうみたいですね」
「神社って、初詣しか行かないですよ」
「私も似たようなものです」
「でも、あの話聞いてたら、次に神社行ったとき、少し違う気がしそう」
「そうかもしれないですね」
「祓えと禊は何が違うんですか」とまた別の質問が出た。
「祓えは、外から来た穢れを取り除くこと。禊は、自分自身が水で清めること」と男性が言った。「有名なのは伊邪那岐命が黄泉の国から戻って、川で禊をした話で。あれが禊の原型とされている」
「黄泉の国から戻ってくる」
「妻の伊邪那美命を追って行くんですが、見てはいけないものを見てしまって、逃げ帰ってくる。それで川に入って清めた」
「見てはいけないものを見る、というのが神話に多いですよね」と別の男性が言った。
「多い。見ることが、タブーになっているものが神道には多くて。神様の本体を見ない、というのもその流れかもしれない」
「見ない方が、想像が広がる」と女性が言った。
「そうかもしれないですね」
四人は昼過ぎまでいた。途中でコーヒーのおかわりを一人が頼んだ。話は神話から、現代の神社の役割の話に移り、地域のお祭りの話になり、最後は「氏神様ってどこにいるかわからない人が多い」という話になっていた。
「調べると出てくるから」と五十代の男性が言った。
「調べればわかるんですか」と女性が言った。
「住所を入れたら、氏神を教えてくれるサイトがある。神社本庁のサイトとかで」
「知らなかった。調べてみます」
帰り際に、五十代の男性が「また来ましょう」と言った。「次は神道と仏教の関係をやろうと思って」と言った。「長くなりますよ」と別の男性が言った。「長くなっていい場所があると、続けられるんです」と五十代の男性が言った。私は何も言わなかった。
今日もまあまあ盛況だった。夕方、健太と二人で閉店の準備をした。
「変えることで、続く、ってさっき言ってましたけど」と健太が言った。「この店もそういうとこありますかね」
「さあ」と私は言った。「変えていないつもりでいますが」
「変えてないから続いてるのか、変えてるから続いてるのか、どっちですかね」
「どっちもかもしれないし、どっちでもないかもしれない」
健太が「難しいですね」と言って、カウンターを拭いた。
見えないものが、ある。そういうことを、この店でも感じることがある。何が、とは言えないけれど。
伊勢神宮は形を変えながら続く。この店は形を変えずに続いている、つもりだ。どちらも、続いている。それだけのことかもしれない。わからないけれど。
健太が帰る前に、「また来週」と言って出ていった。ドアベルが鳴った。




