金曜日の読書
# 金曜日の読書
笹木さんが来たのは、四時を少し過ぎた頃だった。
今日は少し急ぎ足で入ってきた。文庫本を取り出して開いたが、最初の数ページを行ったり来たりしていた。読んでいるのか、考えているのか、よくわからなかった。
「ブレンドを」とだけ言った。目を本から離さなかった。
コーヒーを出すと、「ありがとう」とだけ言った。
私はカウンターを拭いたり、豆の在庫を確認したりしながら、時間を過ごした。
「今日は何を読んでるんですか」と私は聞いた。普段はあまり聞かない。
笹木さんが本を少し持ち上げて表紙を見せた。詩集だった。
「珍しいですね」
「たまに読みたくなるのよ、詩は」と笹木さんが言った。「小説と違って、途中でやめても罪悪感がないから」
「小説は途中でやめると罪悪感があるんですか」
「あるわよ。登場人物に申し訳なくなって」
「詩の人には申し訳なくならないんですか」
「詩の人は、もうそこにいないから」と笹木さんが言った。「読まれることを前提にしてないというか、書いた本人にとっては、書いた時点で終わってる感じがするから」
「今考えましたよね」
「あっ、わかっちゃった?」と笠木さんは笑った。
笹木さんはしばらく詩集を読んでいた。
私はドリッパーを温めて、次の一杯の準備をした。誰かが来るとは限らないが、準備だけはしておく。
三十分ほど経ったとき、笹木さんが本にしおりを挟んで顔を上げた。
「そろそろ行こうかな」と言って、財布を出した。
会計をしながら、笹木さんがふと窓の外を見た。
「あ」と言った。
私も視線を向けた。商店街の方から、白髪の男性がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。背筋が真っ直ぐで、歩き方がゆっくりしていた。右手に何かを持っていた。
「来た」と笹木さんが言った。静かな声だった。
ドアベルが鳴った。
先月来ていた、退職後の七十代の男性だった。笹木さんに本の入口を教えてもらった人だった。
笹木さんがちょうどカウンターから立ち上がったところで、男性とほぼ入れ違いになった。
「どうでした」と笹木さんが聞いた。
男性が少し驚いた顔をした。笹木さんのことを覚えていたかどうか、一瞬わからなかった。すぐに顔がほぐれた。
「よかったです」と男性が言った。
「そう」と笹木さんは言った。それだけだった。
笹木さんは「では」と言って、ドアの方に向かった。出ていく前に私に向かって小さく頷いた。
男性はカウンターに座った。笹木さんがいた席の隣に、自然に落ち着いた。手に持っていたのは文庫本だった。カウンターの端に置いた。
「ブレンドをください」と男性が言った。
コーヒーを出すと、男性は一口飲んだ。
「来てみました」と言った。
「はい」と私は言った。
「あの方の書店に。先月、教えていただいた方の」
「そうですか」
「感じのいい書店でした。小さいけれど、よく選んであって」
「ええ」
「この本ともう一冊を勧めていただきました」
文庫本を少し持ち上げた。背表紙が見えた。北の地方を舞台にした小説だった。
「読みましたか」と私は聞いた。
「一冊は読み切って、こちらは少し。まだ最初の方ですが」
「どうですか」
男性はしばらく考えた。「静かな本ですね」と言った。「うるさくない」
「そうですか」
「家内も、静かな本が好きでした」
それ以上のことは言わなかった。私も何も言わなかった。
男性はコーヒーを飲みながら、少しだけ本を読んだ。読むのがゆっくりで、ときどき同じページに戻ることもあった。窓の外を見ることもあった。何を見ているのかは、わからなかった。
夕方の光が、窓から斜めに入っていた。五月の光は、四月よりもう少し角度が上がっていた。カウンターの端に、その光が細く落ちていた。
しばらくして、若い女性が一人入ってきた。仕事帰りのような格好をしていた。カウンターの端に座って、アイスコーヒーを頼んだ。スマートフォンを見たり、窓の外を見たりしていた。
男性と女性が同じカウンターに座っていた。どちらも黙っていた。どちらも、それぞれのものを見ていた。
静かだった。
若い女性が、ふと男性の本に目をやった。「何を読まれてるんですか」と言った。話しかけるつもりではなかったのかもしれない。口から出た、という感じだった。
男性が本の表紙を少し向けた。「北の話です」と言った。
「北の話」
「ええ。寒い土地の、静かな話で」
「面白いですか」と女性が聞いた。
「まだ最初の方なのでわからないですが、静かです」
「静かな本、いいですよね」と女性が言った。「最近うるさいものばかり読んでて」
「うるさいもの」
「ネットで読む記事とか、メールとか。情報が多くて、なんか疲れてきて」
「本はいいですよ、そういうときに」と男性が言った。「ページを自分で繰るから、速さを自分で決められる」
「ああ」と女性が言った。「それは確かに」
二人はそれ以上話さなかった。でも、何かが少し和らいだ気がした。
女性がアイスコーヒーを飲み終えて、会計をした。「ごちそうさまでした」と言って出ていった。
「あの方は、よくここに来られるんですか」と男性がやがて言った。
「月に何度か、来られますね」と私は言った。
「そうですか」
「本を読みに来られることが多いですね」
「ここで読まれるんですか」
「ええ」
男性はカウンターを少し見渡した。「いい場所ですね、読むのに」と言った。
「ありがとうございます」
「静かだから」
「そうですね」
「うちだと、なかなか読めなくて」
「家だと落ち着かないんですか」
「家内のものが、まだそのままにしてあって」と男性が言った。「本棚も、そのままで。座ると、いろいろ目に入って」
「そうですか」
「ここだと、目に入るものが少ないから。そこにある本だけ読めばいい感じがして」
私は何も言わなかった。
男性はまた少し本を読んだ。今度は少し長く読んでいた。二十ページほどだったと思う。
コーヒーのおかわりを聞くと、「もう一杯いただけますか」と言った。
「どうぞ」
二杯目を持っていくと、男性が「ありがとうございます」と言った。「こういう時間が、しばらくなかった気がして」
「そうですか」
「何もしないで、ただ座っている時間が」
「本は読んでますが」
「本を読むのは、何もしていないのとあまり変わらない気がするんです」と男性が言った。「ただ、そこにいる感じで」
「それでいいと思いますよ」と私は言った。
男性が少し驚いた顔をした。「そうですか」と言った。
「ええ」
帰り際に、「悪くなかったです、今日は」と男性が言った。
「またどうぞ」と私は言った。
男性はコートを着てドアを開けた。振り返らずに出ていった。
また来るだろう、ということが、なんとなくわかった。理由があるわけではないけれど、わかることが、たまにある。




