木曜日の偉人
書きやすい二人。
# 木曜日の偉人
昨日より光が強かった。
午後三時前に、見覚えのある二人が入ってきた。先月来ていた、退職後の男性二人だった。一人が背が高く、もう一人が少し小柄だった。どちらも六十代で、どちらもゆっくりした歩き方をしていた。コートを腕にかけて入ってきた。今日は少し暖かかったのだと思う。
「また来ました」と背の高い方が言った。
「どうぞ」と私は言った。
二人はカウンター席に座った。前回と同じ並びだった。ブレンドを二つ頼んで、上着を脱ぎながらもう話し始めていた。
「今日は何の話ですか」と小柄な方が言った。
「偉人の苦手なもの」と背の高い方が言った。
「また渋いところを」
「面白いんだよ、これが」
「前回も面白かったですからね」
「今日も面白い」
「まだ始まってない」
「始まってもいないのに面白い」
小柄な方が苦笑した。「始めてください」
背の高い方が話し始めた。ナポレオンは猫が苦手だったという話が有名だが、真偽ははっきりしないらしい。ただ、猫に囲まれて震えていたという目撃談が複数残っているので、まったくの作り話でもなさそうだ、ということだった。
「ヨーロッパを席巻した男が、猫に震えていた」と小柄な方が言った。
「そう」
「なんかいいな」
「でしょう」
「人間らしい」
「そう、人間らしい。それがよくて調べ始めた」
「野良猫に囲まれたら私も怖いかも」
私はコーヒーを出して、カウンターを拭きながら聞いていた。
次はチェーホフの話だった。チェーホフは医者でもあったが、自分自身の結核の治療には消極的で、周囲が心配するほど放置していたらしい。
「なんで自分のことは後回しにするんですかね」と小柄な方が言った。
「医者あるあるらしいよ。人の体は診られるけど、自分のことは客観的に見られない」
「それは、なんとなくわかる気がする」
「そう?」
「人の問題はよく見えるのに、自分のことはわからない、ということが」
「あるね」
「ありますよね」
二人してコーヒーを飲んだ。
「でもチェーホフは、そのことに気づいていたんですかね」と小柄な方が言った。
「気づいてたと思うよ、たぶん」と背の高い方が言った。「気づいてて、それでも後回しにしてた」
「なんで」
「仕事が面白かったんじゃないかな。書くことも、診ることも。自分の体より、目の前の仕事の方が面白かった」
「それは、どうなんですかね」
「どうなんだろうね」と背の高い方が言った。「間違ってるとは言いきれないけど、正しいとも言えない」
「難しいですね」
「難しい。でも、そういう人が面白い話を残してるのは、事実だから」
「結果論ですけどね」
「結果論。でも、あとから読む方は、その結果しか見えないわけだし」
次はダーウィンだった。進化論のダーウィンは甲虫の収集に異常な情熱を持っていて、採集中に両手がふさがったとき、口に甲虫を入れたことがあったらしい。
「昆虫を?口に?」と小柄な方が言った。
「入れた」と背の高い方が繰り返した。
「なんで」
「逃がしたくなかったんでしょう」
「逃がしたくなかったから口に」
「そう」
「かんだりしなかったんですかね」
「しなかったんじゃないかな。大事なものだから」
「口に入れておくのが、大事にしてることになるのか」
「ダーウィンにとっては、そうだったんでしょう」
「口に入れるほど好きなものって」と小柄な方がしばらく考えてから言った。「あるかな」
「ないな、俺は」と背の高い方が言った。
「ないですね」
「普通はないよ」
「普通はない」
「でもダーウィンには、あった」
「あったんですね」
「そういうものが一個あると、進化論が書けるんだろうな」
「そういうものなんですかね」
「知らないけど、そんな気がする」
二人は笑った。私もカウンターの奥で、少し笑った。
「抜けているところが残っている方が、なんか安心しませんか」と小柄な方が言った。「完璧な人間の話って、どこか遠くて」
「そうだね」と背の高い方が言った。「失敗とか、苦手とか、そういうものが残っているから、同じ人間だと思える」
「記録されているってことは、誰かが面白がって書き残したんでしょうね」
「だろうね。真面目な話より、そっちの方が書きたくなる」
「わかりますよ、その気持ち」
「書き残した人のことも、好きになれる気がする」
「書き残した人」
「歴史って、起きたことだけじゃなくて、それを残そうとした人がいて、はじめて残るから」
「確かに」と小柄な方が言った。「残そうと思わなければ、消えてたわけで」
「ナポレオンが猫に震えてたことも、誰かが面白いと思って書いたから残ってる」
「書いた人、ありがとう、という感じですね」
「そう」
しばらく間があった。二人ともコーヒーを飲んでいた。
「次は何にしましょうか」と小柄な方が言った。
「偉人の意外な食べ物の好み、というのも面白い」と背の高い方が言った。「ベートーヴェンがマカロニチーズを異常に愛していたとか」
「マカロニチーズ」
「そう。毎日食べてたという話がある」
「それは本当ですか」
「本当かどうかはわからないけど、好きだったというのは複数の記録に残っている」
「マカロニチーズが好きな人が、第九を書いたのか」
「そう考えると、第九を聞く気持ちが少し変わる気がしませんか」
「変わるかな」と小柄な方が考えてから言った。「変わる気がします、たしかに」
笹木さんが来たのは、そのタイミングだった。
カウンターに座って、「ブレンドを」と言った。奥の二人の声が聞こえているのか、本を取り出したまま開かずにいた。
「マカロニチーズ」と笹木さんが小さくつぶやいた。私を見た。
「聞こえてましたか」と私は言った。
「ええ、少し」
「偉人の好物の話らしいです」
「面白いわね」と笹木さんが言った。「偉大な人が、普通のものを好きだったというのが」
「そうですね」
「なんか、ほっとする」
奥の二人が会計をした。帰り際に背の高い方が「また来よう、次は好物の話で」と言った。小柄な方が「ベートーヴェン以外にもあるんですか」と聞いた。「いくらでもある」と背の高い方が言った。「シェイクスピアは牡蠣が好きで、ユリウス・カエサルは質素な食事を好んだという話もある」。「カエサルが質素」「意外でしょう」「意外ですね」という話をしながら、二人は出ていった。
ドアが閉まった。
笹木さんが本を開いた。一ページ読んで、また閉じた。
「楽しそうな人たちね」と言った。
「そうですね」と私は言った。
「あの年齢で、あんなに楽しそうにしゃべれるのは、いいことだと思う」
「ええ」
「うちの主人にも、ああいう友達がいるといいんだけど」
「いないんですか」
「退職してから、急に人付き合いが減って。家にいることが多くて」
「そうですか」
「店の番をしてくれてるのはありがたいんだけど」
「ええ」
「なんか、もったいない気がして」
私は何も言わなかった。
笹木さんがコーヒーを飲んだ。「ごちそうさま」と言って立った。会計のとき、「苦手なものは、誰にでもある。それでいいのよ」と言った。私に言ったのか、自分に言ったのか、わからなかった。
苦手なものを持っていた人のことが、少し近く感じた。遠い時代の、遠い場所の人なのに。そういうことが、たまにある。




