水曜日の社交ダンス
お待たせしました。
気持ちも新たに連載再開します。
一週間休んで書いた短編小説「リセット・ペンション」も是非ご覧下さい。
軽く読めるちょうどいい文量だと思います。
# 水曜日の社交ダンス
五月になった。
桜はとっくに散って、窓の外の枝に若い葉が出ていた。光の色が変わっている。春の光より少し白く、少し硬い。午後二時を過ぎると、その光がカウンターの端まで届いた。
豆を挽いていると、ドアが開いた。
田所さんと山田さんだった。
久しぶりだ、とは思ったが、口には出さなかった。二人はいつもの窓際の席に向かいながら、「あら、空いてるわね」と田所さんが言った。いつも空いているのを知っているはずだが、毎回そう言う。
「ブレンドをふたつ、お願いします」
山田さんが言った。こちらも毎回同じだった。
コーヒーを持っていくと、二人はすでに話し込んでいた。
「続いてる、私たちすごいわよね」と田所さんが言った。
「続いてるっていうか、やめ時がわからなくて」と山田さんが言った。
「それが続いてるってことじゃない」
「そうかしら」
「そうよ」
社交ダンスの話だとわかった。
田所さんが言うには、始めた当初は週二回のレッスンが多すぎると思っていたのに、今は週二回では物足りない気がしているらしかった。
「最初の三ヶ月は、帰ってくるたびに膝が笑ってたのよ」
「笑ってた」と山田さんが繰り返した。
「笑ってたわねえ」
二人して少し笑った。
「転んだこと話したっけ?」と田所さんが言った。「練習中に。先生の前で」
「まあ」と山田さんが言った。
「でも転んでみたら、もう怖くなくなって。転び方がわかったっていうか」
「転び方」と山田さんが繰り返した。
「そう。先生に習ったのと、実際に転んだのと、両方がないとわからないことがあって」
「習っただけじゃだめだったの」
「理屈はわかってたのよ。でも実際に転んでみないと、体がわからなかった」
「体がわかる、というのは、どういう感じなの」
「うまく言えないのよね」と田所さんが少し考えてから言った。「怖くなくなった、というのが一番近いかな。転んでも、こういうふうになるんだってわかったから」
「怖くなくなったのね」
「そう。転ぶのが怖いと、力が入りすぎて、余計に危ないのよ」
「それは、なんかわかる気がする」と山田さんが言った。
私はカウンターの中で、グラスを拭いていた。窓の外を、自転車が一台通り過ぎた。
「うまくなった?」と田所さんが山田さんに聞いた。
「どうかしらね」と山田さんが答えた。「先生にはうまくなったって言ってもらえるんだけど、自分ではよくわからない」
「わかる瞬間ってあるのよね」と田所さんが言った。「急に、あ、これだ、ってなる瞬間が。でもその後また迷子になる」
「また迷子になるの」
「そう。でもその迷子は、前の迷子と違う場所だから、たぶん進んではいるのよ」
「迷子の場所が変わってる」
「そういうこと」
「それは、どうやってわかるの」
「わかんないのよ」と田所さんが言った。「後から振り返ったら、あ、前より遠い迷子をしてたな、ってなる感じ」
「後からなのね」
「後からしかわからない、ということが多いみたい」
山田さんがコーヒーを一口飲んだ。
「おかわり、いいですか」と山田さんが私に言った。
「どうぞ。少し割引になります」
「ありがとう」
コーヒーを持っていくと、田所さんが「私も」と言った。結局二つになった。
「続けてみて、なんか変わった?」と山田さんが田所さんに聞いた。
「変わったわよ」と田所さんが即答した。
「何が?」
「体が、かな。あと、音楽の聞こえ方が変わった気がする」
「音楽の聞こえ方」
「ダンスを始める前は、音楽って耳で聞くものだったんだけど、今は体で聞いてる感じがして。リズムを耳だけじゃなくて、足とか腰とかで受け取ってる感じ」
「それはすごいわね」
「すごいかどうかはわからないけど、面白いと思って」
「面白いのね」
「面白い。だからやめられない、というのもある」
山田さんがしばらく考えてから言った。「やってみないとわからないことって、やってみてもわからないのよね」
「わかった?」と田所さんが聞いた。
「わかったかどうかが、わからない、ということ」
「ああ」と田所さんが言った。「それはそうね」
「でも、それでいいんじゃないかしら」と田所さんが続けた。「わかったら終わりな気がするから」
「わかったら終わり」
「終わりにしたくないから、続けてるのかもしれない」
「うまいことを言うわね」と山田さんが言った。
「今思いついたから」と田所さんが言った。
「今思いついたの」
「しゃべってたら出てきた」
山田さんが「おかしいわね」と言って笑った。田所さんも笑った。
しばらく二人は、教室の話をした。同じ教室に通っている、七十代の男性の話だった。一人で来ていて、最初は輪に入れなかったのに、今はその人が一番場を盛り上げているという話。
「背筋がすごいのよ、その方」と田所さんが言った。「八十近いのに、誰より姿勢がいい」
「八十近い」
「そう。聞いたら、若い頃から体を動かす仕事をしてたって。それが残ってるんでしょうね」
「残るのね、体に」
「残るのよ。だから私たちも、今からでも遅くないって先生が言ってて」
「先生はいくつなの」
「四十代。でも、体の使い方を知ってる人って、年齢より若く見えるのよね」
「あなたも若く見えるようになったんじゃない?」と山田さんが聞いた。
「どうかしらね」と田所さんが言った。「でも、鏡を見るのが嫌じゃなくなった」
「それは変わったわね」
「変わったと思う」
「ここのコーヒー、変わらないわね」と田所さんがふと言った。カウンターの方を見ながら言った。
「変わらないですね」と私は言った。
「それがいいの」と田所さんが言った。「変わらないものが、たまに必要なのよ」
山田さんが「ほんとに」と言ってうなずいた。
帰り際に、会計をしながら山田さんが「また来ます」と言った。田所さんは財布をバッグにしまいながら、「来週もレッスンがあるのよね、がんばらなきゃ」と言った。私に言ったのか、自分に言ったのか、わからなかった。
「またどうぞ」と私は言った。
二人はドアを開けて出ていった。窓の外を、二人が並んで歩いていくのが見えた。田所さんの歩き方が、少し前と違う気がした。背筋が、少し伸びていた。気のせいかもしれないけれど。
続けている人のことが、少しわかる気がした。何がわかるのか、うまく言えないけれど。続けているということ自体に、何かがあるのだと思う。わからないけれど。
田所さん、山田さんは初心に帰る意味も込めて第一話振りの登場です。




