火曜日の昇進
# 火曜日の昇進
火曜の夕方は、少し中途半端な時間だ。
仕事が終わるには早く、夜と呼ぶには明るい。そういう時間に来る客は、どこかに寄り道するつもりで入ってくることが多い。
今日は四時を過ぎた頃に、スーツ姿の男性が二人入ってきた。四十代と思われる方と、三十代前半くらいの方だった。上司と部下、という感じではなかった。同じ部署の先輩後輩、という雰囲気だった。
「ブレンドをふたつ」と四十代の方が言った。
「窓際、空いてますか」
「どうぞ」
二人は窓際の席に落ち着いた。コートを脱いで、鞄を床に置いた。四十代の方がため息をついた。深いため息だった。
「あいつ、また断ったんだよ」と言った。
「係長の話ですか」と三十代の方が言った。
「そう。今度こそ受けるかと思ったら、またいらないって」
「本人がいらないって言ってるんだから、しょうがないんじゃないですか」
「しょうがないで済めばいいけど、こっちはポストが埋まらないんだよ」
コーヒーを持っていくと、四十代の方が「ありがとう」と言って、すぐ続けた。
「最近の若い子って、出世したくないんだよな。本当に」
「したくない人はしなければいいと思いますけどね」と三十代の方が言った。
「そう言えればいいんだけど。でも誰かがやらないといけないから」
「それは、そうですね」
「お前はどうなの」と四十代の方が聞いた。
「私も、あまり出世には興味ないです」
「そういうもんか」
「責任が増えるじゃないですか。それに見合う給料が出ればまだしも、そうじゃない場合が多いし」
「まあな」
四十代の方がコーヒーを飲んだ。
「昔は出世したかったんだよ、俺も。若い頃は」
「今は?」
「今はどうかな。したくないとは言えないけど、したいという気持ちも、あの頃とは違う気がして」
「何が変わったんですか」
「わからない。でも、部下が育ってくれた方が嬉しいと思うようになったかな。自分が上に行くより」
「それは、立派じゃないですか」
「立派かどうかわからない。諦めに近いのかもしれない」と四十代の方は笑った。
しばらく間があった。窓の外を自転車が一台通った。
「でも最近思うのは」と三十代の方が言った。「出世欲がないのと、仕事が嫌いなのは、違うと思うんですよね」
「どう違う」
「出世したくない人でも、仕事は好きな人がいる。責任を持ちたくないというより、今やっていることに集中したい、という感じで。肩書きより、やっていること自体が好き、という人」
「そういう人もいるな」
「そういう人って、意外と仕事ができて。こちらが教えることより、教えてもらうことの方が多くなってくることがある」
「お前が言うのは、田中さんのこと?」
「田中さんもそうですし、他にも何人か。転職してきた人に多い気がします」
転職、という言葉が出た。四十代の方が少し身を乗り出した。
「転職組は、確かに割り切りがいいよな」
「割り切りがいいというか、視野が広い感じがします。自分の会社だけじゃない場所を知ってるから」
「生え抜きと違って」
「そう。ここだけが全てじゃない、ということを知ってる人は、強い気がする。焦らない」
「俺たちは焦ってたな、若い頃」と四十代の方が言った。「この会社で認められなかったら終わり、みたいな感覚があって」
「今の若い子は、そういう感覚が薄い気がします。いざとなれば転職すればいいと思ってるから、一つの場所に縛られすぎない」
「それはいいことなのかな」
「どっちとも言えない気がします」と三十代の方が言った。「自由ではある。でも、一つのことを深く積み上げる、という感覚は薄れるかもしれない」
四十代の方がコーヒーのおかわりを頼んだ。三十代の方は断った。
「転職してきた田中さんって、最初どうでしたか」と三十代の方が聞いた。
「最初は色々教えたよ。うちのやり方とか、取引先との関係とか」と四十代の方が言った。
「今は?」
「今はこっちが教えてもらうことの方が多いかな。エクセルの使い方とか、資料の見せ方とか。こんな方法があるんですよ、って言われると、確かに、ってなることが多くて」
「それは素直に言えるんですか」
「言えるよ、最近は。若い頃は言えなかったかもしれないけど」
「なんで言えるようになったんですか」
「わからない。でも、自分より上手い人がいた方が仕事がうまくいくから、という感覚が出てきた。自分が一番じゃなくてもいい、という」
「それが、出世欲がなくなった、ということと近いかもしれないですね」と三十代の方が言った。
「そうかもな。自分が上に行くことより、チームがうまくいくことの方が大事、という感覚が出てきた」
「でも、それって結局いいことなんじゃないですか」
「いいことかどうかはわからない」と四十代の方が言った。「ただ、そうなった。それだけかもしれない」
「最初から転職を前提に就職する人も増えてますよね」と三十代の方が言った。「三年で辞める、という計画で入社する人」
「三年で辞める前提で入るのか」
「スキルを身につけて次に行く、という考え方で。会社をスクールみたいに使う、という言い方もされてて」
「複雑な気持ちになるな」
「でも、そういう人に教えていると、吸収が早いんですよ。目的が明確だから」
「いる間はいいけど、いなくなったらまた一から教えないといけない」
「どっちとも言えないですね」と三十代の方が言った。「覚悟というか、そういうものだと思えれば、楽になると思います」
「お前は若いから、そう思えるんだよ」
「そうかもしれません」と三十代の方が言って、少し笑った。
「愛社精神って、古いんですかね」と三十代の方が聞いた。
「古いんじゃないか」と四十代の方があっさり言った。「終身雇用もいつまで続くかわからない時代だし、会社に一生尽くすというのは、もう成立しにくい」
「でも、それが成立していた時代があって、そのおかげで今の日本の製造業がある、という面もある」
「そうだな。一概に悪いとは言えない。でも、時代が変わった」
「変わりましたね」
「変わったことで、何かを失って、何かを得た。どちらが多いかは、まだわからない」
「終身雇用って、本当になくなると思いますか」と三十代の方が聞いた。
「わからない。なくなるとも言い切れないし、続くとも言い切れない」
「でも、前提にはできない、ということですよね」
「そうだな。俺の世代は、なんとなく前提にしてた部分があった。今の若い子たちは、最初から前提にしていない。それが出世欲の薄さと繋がっているのかもしれない」
「一つの場所に全部かけなくていい、と思ってる分、気が楽なのかもしれない」
「それはいいことなのかな」
「どっちとも言えないですね、やっぱり」と三十代の方が言った。
「出世欲の話に戻るけど」と四十代の方が言った。「あいつに係長を断られた話。どうしようかな」
「誰か別の人を立てるしかないんじゃないですか」
「候補がいないんだよ、なかなか」
「外から採ってくるのは」
「そういう選択肢も、最近は出てきてる。昔は考えられなかったけど」
「転職組が増えてきた弊害でもあり、恩恵でもある、ということですかね」
「そういうことかな」と四十代の方が言った。「難しいな、本当に」
二人は会計をして帰った。帰り際に四十代の方が「また来ます」と言った。三十代の方は「ゆっくりできました」と言った。
出世欲、という言葉をしばらく考えた。欲しい、欲しくない、という問いが、今の時代には少し合わなくなっているのかもしれない。何が欲しいかは、人によって違う。それが増えた、ということなのかもしれない。
ネタ作りと短編制作のため、1週間休みます。




