表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
66/116

金曜日のおすすめ

# 金曜日のおすすめ


五時を回った頃だった。

金曜日の夕方は、一週間の疲れを引きずったまま来る人が多い。

窓から見える商店街の通りに、人の流れが増え始めていた。春の夕方の光が、オレンジになり始めていた。

客が二人いた。どちらも一人だった。

一人はカウンターの端に座った常連の笹木さんで、文庫本を開いていた。もう一人は窓際のテーブルに座った初老の男性で、何も持たず、ただコーヒーを飲んでいた。

七十代くらいだった。白髪で、背筋が真っ直ぐだった。

二人とも、静かだった。

私はカウンターで豆を挽いた。

「マスター」と笹木さんが言った。本から目を上げないまま言った。

「はい」

「今週は何曜日が忙しかったですか」

「水曜日が少し」

「雨でした、水曜日は」

「そうでしたね」

「雨が降ると来る人と、来ない人に分かれる」と笹木さんが言った。本を一ページ、めくった。「本屋も同じで。雨の日は、暇なのか混むのか、読めない」

「そうですか」

「濡れたくない人は来ない。でも、雨の中来てくれる人は、何か買ってく」と笹木さんが言った。少し間があった。「本気で来てくれてる、という気がして、悪くない」

「なるほど」

窓際の男性が、コーヒーを一口飲んだ。窓の外を見ていた。

しばらく静かだった。

「あの」と窓際の男性が言った。笹木さんの方を向いて言った。

笹木さんが本から顔を上げた。

「書店を、やってらっしゃるんですか」

「ええ」と笹木さんが言った。「近所の小さな本屋です」

「そうでしたか」と男性が言った。「さっきの話が聞こえてしまって」

「構いませんよ」

男性がコーヒーを両手で持った。

「本屋さんには、いつ頃から行かなくなってしまったんでしょうね」と男性が言った。自分に問いかけるように言った。

「最近ですか、遠ざかったのは」と笹木さんが言った。

「最近ということもないんです」と男性が言った。「仕事をしているうちは、読む本が決まっていたので。業界紙とか、技術書とか。それ以外を読む習慣が、なかった」

「それ以外、というのは」

「小説とか、そういうものです」と男性が言った。「妻はよく読んでいたんですが」

「今は」と笹木さんが言った。

「妻は五年前に亡くなりまして」と男性が言った。静かに言った。「退職して、急に時間ができた。それで、本を読もうかと思い始めたんですが、何から読めばいいのかわからなくて」

笹木さんが本を閉じた。カウンターに置いた。

「何かお好きなものはありますか」と笹木さんが言った。「旅行とか、歴史とか」

「旅行は少し」と男性が言った。「仕事でいろんな土地に行きましたが、観光はほとんどしなかった」

「どんな土地に」

「北の方が多かったです。北海道や、東北の工場を回っていたので」

「じゃあ」と笹木さんが言った。少し考えるような間があった。「北の土地を舞台にした小説はいかがですか。見覚えのある景色が出てくると、入りやすかったりして」

「そういうものがあるんですか」

「ありますよ。北海道を舞台にしたものは、結構あって。開拓時代の話もあれば、現代の話もあります」

「現代の話でもいいんですよね」と男性が言った。少し遠慮がちに。

「何でもいいんですよ、本は」と笹木さんが言った。あっさりと。「ただ読み始めるだけなので」

男性がコーヒーを飲んだ。

「奥様は、どんな本を」と笹木さんが言った。

「どんなものを読んでいたのか、聞いたことがなかったんです」と男性が言った。「本棚は今もそのままにしてありますが、読んだことがないものばかりで」

「読んでみてはいかがですか、奥様の本を」と笹木さんが言った。

「妻の本を」

「どんな人だったか、少しわかる気がします。本棚って、その人の続きみたいなものなので」

男性が少し黙った。

「その人の続き」と男性が言った。ゆっくり繰り返した。

「全部読まなくていいです」と笹木さんが言った。「一冊だけ、表紙が気に入ったものを手に取るだけでいい」

「そうですか」と男性が言った。

私はグラスを一つ、棚に戻した。

窓の外の光が、少し暗くなり始めていた。

「お店に、今度行ってみます」と男性が言った。

「どうぞ」と笹木さんが言った。「探している本があったら、声をかけてください。在庫になくても、調べますから」

「ありがとうございます」

男性が立ち上がった。会計に来た。

「ごちそうさまでした」

「ありがとうございます」

ドアベルが鳴った。

笹木さんが文庫本をまた開いた。

「本棚って、その人の続き、か」と私が言った。

「マスター、聞いてたんですか」と笹木さんが言った。本を見たまま言った。

「聞こえてきました」

「川崎さんの棚が、ここにありますよね」と笹木さんが言った。

私は何も言わなかった。

「続きを読んでる人が、ここにいる」と笹木さんが言った。

しばらく間があった。

「今日は珍しく、いいこと言いますね」と私が言った。

「珍しく、は余計です」と笹木さんが言った。本のページをめくった。「毎回いいこと言ってます」

私は少し笑った。

笹木さんがコーヒーを飲み終えた。会計に来た。

「ごちそうさまでした」

「ありがとうございます」

「あの方、来てくれるといいですね」

「来ますよ」と笹木さんが言った。「ちゃんと言えた人は、大体来ます」

ドアベルが鳴った。

一人になった。

窓の外は、もう夕暮れだった。

川崎さんの棚が、カウンターの奥に見えた。

続きを読んでいる。笹木さんはそう言った。

続きを読んでいるのかどうか、自分ではわからない。ただここにいるだけのような気もする。でも、ここにいることが続きなのだとしたら、それでいいのかもしれない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ