金曜日のおすすめ
# 金曜日のおすすめ
五時を回った頃だった。
金曜日の夕方は、一週間の疲れを引きずったまま来る人が多い。
窓から見える商店街の通りに、人の流れが増え始めていた。春の夕方の光が、オレンジになり始めていた。
客が二人いた。どちらも一人だった。
一人はカウンターの端に座った常連の笹木さんで、文庫本を開いていた。もう一人は窓際のテーブルに座った初老の男性で、何も持たず、ただコーヒーを飲んでいた。
七十代くらいだった。白髪で、背筋が真っ直ぐだった。
二人とも、静かだった。
私はカウンターで豆を挽いた。
「マスター」と笹木さんが言った。本から目を上げないまま言った。
「はい」
「今週は何曜日が忙しかったですか」
「水曜日が少し」
「雨でした、水曜日は」
「そうでしたね」
「雨が降ると来る人と、来ない人に分かれる」と笹木さんが言った。本を一ページ、めくった。「本屋も同じで。雨の日は、暇なのか混むのか、読めない」
「そうですか」
「濡れたくない人は来ない。でも、雨の中来てくれる人は、何か買ってく」と笹木さんが言った。少し間があった。「本気で来てくれてる、という気がして、悪くない」
「なるほど」
窓際の男性が、コーヒーを一口飲んだ。窓の外を見ていた。
しばらく静かだった。
「あの」と窓際の男性が言った。笹木さんの方を向いて言った。
笹木さんが本から顔を上げた。
「書店を、やってらっしゃるんですか」
「ええ」と笹木さんが言った。「近所の小さな本屋です」
「そうでしたか」と男性が言った。「さっきの話が聞こえてしまって」
「構いませんよ」
男性がコーヒーを両手で持った。
「本屋さんには、いつ頃から行かなくなってしまったんでしょうね」と男性が言った。自分に問いかけるように言った。
「最近ですか、遠ざかったのは」と笹木さんが言った。
「最近ということもないんです」と男性が言った。「仕事をしているうちは、読む本が決まっていたので。業界紙とか、技術書とか。それ以外を読む習慣が、なかった」
「それ以外、というのは」
「小説とか、そういうものです」と男性が言った。「妻はよく読んでいたんですが」
「今は」と笹木さんが言った。
「妻は五年前に亡くなりまして」と男性が言った。静かに言った。「退職して、急に時間ができた。それで、本を読もうかと思い始めたんですが、何から読めばいいのかわからなくて」
笹木さんが本を閉じた。カウンターに置いた。
「何かお好きなものはありますか」と笹木さんが言った。「旅行とか、歴史とか」
「旅行は少し」と男性が言った。「仕事でいろんな土地に行きましたが、観光はほとんどしなかった」
「どんな土地に」
「北の方が多かったです。北海道や、東北の工場を回っていたので」
「じゃあ」と笹木さんが言った。少し考えるような間があった。「北の土地を舞台にした小説はいかがですか。見覚えのある景色が出てくると、入りやすかったりして」
「そういうものがあるんですか」
「ありますよ。北海道を舞台にしたものは、結構あって。開拓時代の話もあれば、現代の話もあります」
「現代の話でもいいんですよね」と男性が言った。少し遠慮がちに。
「何でもいいんですよ、本は」と笹木さんが言った。あっさりと。「ただ読み始めるだけなので」
男性がコーヒーを飲んだ。
「奥様は、どんな本を」と笹木さんが言った。
「どんなものを読んでいたのか、聞いたことがなかったんです」と男性が言った。「本棚は今もそのままにしてありますが、読んだことがないものばかりで」
「読んでみてはいかがですか、奥様の本を」と笹木さんが言った。
「妻の本を」
「どんな人だったか、少しわかる気がします。本棚って、その人の続きみたいなものなので」
男性が少し黙った。
「その人の続き」と男性が言った。ゆっくり繰り返した。
「全部読まなくていいです」と笹木さんが言った。「一冊だけ、表紙が気に入ったものを手に取るだけでいい」
「そうですか」と男性が言った。
私はグラスを一つ、棚に戻した。
窓の外の光が、少し暗くなり始めていた。
「お店に、今度行ってみます」と男性が言った。
「どうぞ」と笹木さんが言った。「探している本があったら、声をかけてください。在庫になくても、調べますから」
「ありがとうございます」
男性が立ち上がった。会計に来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
ドアベルが鳴った。
笹木さんが文庫本をまた開いた。
「本棚って、その人の続き、か」と私が言った。
「マスター、聞いてたんですか」と笹木さんが言った。本を見たまま言った。
「聞こえてきました」
「川崎さんの棚が、ここにありますよね」と笹木さんが言った。
私は何も言わなかった。
「続きを読んでる人が、ここにいる」と笹木さんが言った。
しばらく間があった。
「今日は珍しく、いいこと言いますね」と私が言った。
「珍しく、は余計です」と笹木さんが言った。本のページをめくった。「毎回いいこと言ってます」
私は少し笑った。
笹木さんがコーヒーを飲み終えた。会計に来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
「あの方、来てくれるといいですね」
「来ますよ」と笹木さんが言った。「ちゃんと言えた人は、大体来ます」
ドアベルが鳴った。
一人になった。
窓の外は、もう夕暮れだった。
川崎さんの棚が、カウンターの奥に見えた。
続きを読んでいる。笹木さんはそう言った。
続きを読んでいるのかどうか、自分ではわからない。ただここにいるだけのような気もする。でも、ここにいることが続きなのだとしたら、それでいいのかもしれない。




