月曜日の普通
初期の作品を読み返してみたのですが、マスターのキャラが変わりすぎていました。
もはや別人。
# 月曜日の普通
五時を過ぎた頃だった。
月曜日の夕方は、静かに終わっていく。
窓の外の光が、オレンジになり始めていた。商店街を歩く人の影が、少し長くなっていた。
笹木さんがカウンターの端で文庫本を読んでいた。今日はあまり読み進んでいない日だった。同じページを、少し前からめくっていなかった。
ドアベルが鳴った。
吉村さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「どうも」と吉村さんが言った。カウンターに座った。笹木さんの二席隣だった。「ブレンドを」
「はい」
笹木さんが本から顔を上げた。
「あら、吉村さん」
「笹木さん、いたんですか」
「いましたよ」
「月曜に来るんですね」
「たまには」と笹木さんが言った。「吉村さんこそ」
「仕事が早く終わったので」と吉村さんが言った。鞄を足元に置いた。「仕事が終わるのは、気持ちがいい」
コーヒーを出した。吉村さんが受け取った。
しばらく、二人とも黙っていた。笹木さんが本に目を戻した。吉村さんがコーヒーを飲んだ。
「笹木さん」と吉村さんが言った。
「なんですか」
「その本、面白いですか」
笹木さんが本の表紙を見た。
「普通です」と笹木さんが言った。
「普通」
「悪くはないけど、すごくよくもない」
「それは読み続けるんですか」
「読みますよ」と笹木さんが言った。「普通の本も、読まないとわからないから」
「なるほど」と吉村さんが言った。「私は普通だとわかった時点でやめてしまう」
「もったいない」
「もったいないですか」
「最後まで読んで、普通だったとわかる方が、ちゃんと読んだ気がして」と笹木さんが言った。「途中でやめると、もしかしたら面白くなったかもしれない、という気持ちが残る」
「残りますね、確かに」と吉村さんが言った。「でも面白くなる前にやめた方が、傷が浅い気もする」
「本を読んで傷になることなんか余りないでしょう」
「時間は傷じゃないですか」
笹木さんが少し考えた。
「時間は傷ではない気がします」と笹木さんが言った。
「そうですかね」
「普通の本を読んだ時間も、何かは残るから」
「何が残りますか、普通の本を読んで」
笹木さんがまた少し考えた。
「普通だった、ということが残る」と笹木さんが言った。
吉村さんが少し笑った。
「それは残りますね」
私はカウンターを拭いた。
窓の外を、自転車が通り過ぎた。荷台に買い物袋をいくつか積んでいた。
「吉村さん」と笹木さんが言った。今度は笹木さんの方から言った。
「なんですか」
「最近、仕事はどうですか」
「どうですかね」と吉村さんが言った。少し間があった。「まあまあです」
「まあまあ」
「まあまあというのが、一番正直なところで」
「まあまあというのは、普通ということですか」
「普通より少し上か、普通か」と吉村さんが言った。「その辺りを行ったり来たりしている」
「それは悪くないですね」
「悪くはない」と吉村さんが言った。「でも普通の本と同じで、もう少し面白くなりそうな気もしている」
「なりますよ、きっと」と笹木さんが言った。
「笹木さんは楽観的ですね」
「そうですか」
「そう見えます」
「そうでもないんですけど」と笹木さんが言った。「ただ、なりますよ、と言う方が、ならないですよ、と言うより気持ちがいいので」
吉村さんがコーヒーを飲んだ。
「それは楽観的じゃなくて、親切なんですね」
「どちらでもない気がします」と笹木さんが言った。「口癖みたいなものかもしれない」
ドアベルが鳴った。
木村さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「やあ」と木村さんが言った。カウンターを見て、少し目を細めた。「珍しいな。二人ともいる」
「珍しいでしょう」と吉村さんが言った。
木村さんがカウンターに座った。吉村さんの隣だった。
「ブレンドを」
「はい」
「何の話をしてたんですか」と木村さんが言った。
「本の話と、仕事の話を少し」と吉村さんが言った。
「どちらも大事な話だ」
「大事かどうかはわからないですけど」
コーヒーを出した。木村さんが受け取った。
「木村さんは今日、どうでしたか」と笹木さんが言った。
「どうでしたかね」と木村さんが言った。少し考えるように窓の外を見た。「散歩をして、昼を食べて、昼寝をして、ここに来た」
「充実していますね」と吉村さんが言った。
「充実しているかどうかはわからないが」と木村さんが言った。「悪い一日ではなかった」
「悪い一日ではなかった、というのはいい言葉ですね」と笹木さんが言った。
「そうですか」
「なんか、それで十分という感じがして」
「十分ですよ、それで」と木村さんが言った。当たり前のように。「歳をとると、悪い一日ではなかった、というのが、結構いい一日だとわかってくる」
「若い頃はそう思えないですけどね」と吉村さんが言った。
「思えないね。若い頃は、いい一日じゃないと損した気がする」
「今もそういうところがある」
「それはしょうがない」と木村さんが言った。「でも少しずつ、悪くなかった、でいいと思えるようになる」
「なりますかね、私も」
「なりますよ」と木村さんが言った。
吉村さんが笹木さんを見た。
「木村さんも楽観的ですね」と吉村さんが言った。
「そうかな」と木村さんが言った。
「笹木さんもさっき、なりますよ、と言っていた」
「言いましたね」と笹木さんが言った。
「お二人とも、なりますよ、と言う」
「吉村さんには、なりますよ、と言いたくなる何かがある」と木村さんが笑った。
「どういう意味ですか、それは」と吉村さんが言った。
「悪い意味じゃないですよ」と笹木さんが言った。
「どういう意味なんですか」
「なりそうな人に見える、ということじゃないですか」と笹木さんが言った。木村さんに確かめるように。
「そういうことだね」と木村さんが言った。
吉村さんがしばらく黙った。
「よくわからないですけど」と吉村さんが言った。「悪い気はしない」
三人がコーヒーを飲んだ。
窓の外が、少し暗くなっていた。商店街の街灯がついた。
「そういえば」と木村さんが言った。「散歩の途中で桜を見てきた」
「まだ咲いていましたか」と笹木さんが言った。
「散り始めていた。でも散り始めた桜も、きれいなもんで」
「散る方が好きという人もいますよね」と吉村さんが言った。
「私もどちらかというとそっちで」と笹木さんが言った。「満開より、少し散り始めたくらいの方が、落ち着いて見られる」
「満開は少し忙しい気がする」と木村さんが言った。
「忙しい」と吉村さんが繰り返した。「桜が忙しいんですか」
「見る方が忙しい」と木村さんが言った。「満開だと、ちゃんと見なきゃという気持ちになる」
「わかります」と笹木さんが言った。「散り始めると、もう少しでいなくなる、と思って、かえってゆっくり見られる」
「なくなりそうなものの方が、ちゃんと見る」と吉村さんが言った。
「そういうものかもしれない」と木村さんが言った。
三人がしばらく黙った。悪くない沈黙だった。
笹木さんが本を閉じた。しおりを挟んで、カウンターに置いた。
「結局、今日はあまり読めなかった」と笹木さんが言った。
「普通の本だから」と吉村さんが言った。
「それもある」と笹木さんが笑った。
三人が立ち上がった。ほぼ同時だった。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
「また来ます」と吉村さんが言った。
「また来るよ」と木村さんが言った。
笹木さんが会計に来た。
「普通の夕方でした」と笹木さんが言った。
「そうですね」
「悪くなかった」
笹木さんが出ていった。続いて吉村さん、木村さんが出ていった。
一人になった。
カップが三つ、カウンターに並んでいた。
片付けながら、笹木さんの言葉が残っていた。
普通の夕方でした。
コーヒーを一口飲んだ。
普通の夕方が、この店にはよく似合う。特別なことは何もなかった。桜の話と、本の話と、悪くない一日の話をして、三人は帰っていった。それだけのことだ。それだけのことが、悪くなかった、と思った。




