日曜日のチャクラ
チャクラ開きたい。
# 日曜日のチャクラ
一時を過ぎた頃だった。
日曜日の午後は、のんびりとした空気がある。
健太が奥のテーブルを拭いていた。今日は開店前から来ていた。
客が一組いた。三十代くらいの女性が二人、カウンターの端に並んで座っていた。どちらもコーヒーを飲みながら、静かに話していた。
ドアベルが鳴った。
四十代くらいの女性が一人、入ってきた。大きなトートバッグを肩にかけていた。少し興奮した様子だった。
「いらっしゃいませ」
「ブレンドを」
カウンターに座った。トートバッグの中をごそごそと探って、本を一冊取り出した。表紙に、人体の図が描いてあった。いくつかの点が、色分けされて光っているような絵だった。
隣に座っていた三十代の女性が、ちらりと表紙を見た。
「チャクラの本ですか」と女性が言った。
「そうなんです」と四十代の女性が言った。嬉しそうに。「わかりますか」
「少しだけ」
「昨日、体験セミナーに行って」と四十代の女性が言った。「それからずっと気になって、今朝買ってきたんです」
私はコーヒーを出した。
「体験セミナー」と三十代の女性が言った。
「ヨガと組み合わせたやつで」と四十代の女性が言った。「チャクラを整えると、体のエネルギーの流れがよくなって、気持ちも安定するって」
「チャクラって、いくつあるんでしたっけ」ともう一人の三十代の女性が言った。
「七つです」と四十代の女性が本を開いた。「下から、ルートチャクラ、サクラルチャクラ、ソーラープレクサスチャクラ、ハートチャクラ、スロートチャクラ、サードアイチャクラ、クラウンチャクラ」
「全部言えるんですね」と最初の三十代の女性が言った。
「昨日覚えた」と四十代の女性が言った。少し誇らしそうに。
健太がカウンターに戻ってきた。本の表紙をちらりと見た。私に小声で言った。
「チャクラって、本当にあるんですかね」
「さあ」と私は言った。
健太が少し不満そうな顔をした。
「第一チャクラのルートが乱れると」と四十代の女性が本を読みながら言った。「不安感が強くなったり、疲れやすくなったりするって書いてある」
「それ、チャクラじゃなくても起きますよね」と二人目の三十代の女性が言った。穏やかな口調だった。
「起きるんですけど」と四十代の女性が言った。「チャクラが乱れてることで、そういう症状が出やすくなるって」
「鶏と卵みたいな話ですね」と最初の三十代の女性が言った。
「そうなんですよ」と四十代の女性が言った。悪気なく。「でもセミナーの先生が、第三チャクラを整えるポーズをやったら、なんか胃のあたりがすっきりした感じがして」
「ヨガのポーズで、ですか」
「ヨガのポーズで。先生が、今ソーラープレクサスチャクラが開いています、って言ったときに、本当にそんな気がして」
「気がした、というのが大事なんでしょうね」と二人目の三十代の女性が言った。
「大事だと思う」と四十代の女性が言った。素直に。「気がしただけかもしれないけど、気持ちが楽になったのは本当だから」
三人がコーヒーを飲んだ。
私はカウンターを拭いた。
「ヨガ自体は体にいいですよね」と最初の三十代の女性が言った。
「いい」と四十代の女性が言った。「それは確かで。チャクラのこととは別に、呼吸が深くなるし、体が柔らかくなるし」
「ストレッチとしての効果はある」
「ある。だからチャクラを信じてなくても、ヨガをやる価値はあると思っていて」と四十代の女性が言った。「でも先生がチャクラの話をしてくれると、なんかイメージしやすくて。胃のあたりを意識しながらポーズをとると、ただ体を動かすより、集中できる気がして」
「意識を向ける場所があると、動きが変わる」と二人目の三十代の女性が言った。
「変わる気がする」
「それはあるかもしれない」と最初の三十代の女性が言った。「ランニングのコーチに、足の裏の感覚を意識して走れって言われたとき、タイムが変わったことがあって」
「足の裏を意識するだけで」
「するだけで。意識を向けるだけで体の使い方が変わるなら、チャクラを意識するのも同じことかもしれない」
「そういうことだと思う」と四十代の女性が言った。嬉しそうに。「科学的かどうかより、自分の体に意識を向けるための道具として使えれば」
健太がまた私のそばに来た。
「なんか、うまくまとまりましたね」と健太が小声で言った。
私は何も言わなかった。
「でも」と二人目の三十代の女性が言った。少し間があった。「チャクラグッズには気をつけた方がいいですよ」
「グッズ」と四十代の女性が言った。
「チャクラを整える石とか、専用のアロマとか、高額なセッションとか」と女性が言った。「ヨガの効果とは別に、グッズへの依存になってしまうことがあって」
「あー」と四十代の女性が言った。「セミナーの後に、物販があって」
「ありましたか」
「あった。チャクラストーンのセットが、三万円で」
「買いましたか」
「買いかけた」と四十代の女性が言った。少し間があった。「でも荷物になるから、やめた」
「荷物になるから」と最初の三十代の女性が言った。
「荷物になるから」と四十代の女性が繰り返した。「チャクラより荷物が気になってしまって」
三人が笑った。
私もカウンターの奥で、少し笑った。
「荷物にならなかったら買ってたんですか」と二人目の三十代の女性が言った。
「どうだろう」と四十代の女性が考えた。「買ってたかもしれない。あの雰囲気の中にいると、なんか買わないといけない気持ちになってくるから」
「その気持ちが、一番気をつけどころですよ」と女性が言った。穏やかに。「場の雰囲気で決めるより、一晩置いてから決める方がいい」
「そうですよね」と四十代の女性が言った。素直に。「この本も、一晩置いてから買えばよかったかな」
「本は別にいいんじゃないですか」と最初の三十代の女性が笑った。「読んで面白かったら、それで十分だから」
「それはそうか」
三人がコーヒーを飲み終えた。
三十代の二人が先に立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
「チャクラ、続けてみてください」と最初の三十代の女性が四十代の女性に言った。「ヨガは体にいいから」
「続けます」と四十代の女性が言った。「石は買わないで」
「それがいいと思います」と二人目の女性が笑った。
二人が出ていった。
四十代の女性がもう少し残った。本をゆっくりめくっていた。
健太が片付けをしながら、ちらちらと本の方を見ていた。
「あの」と健太が言った。我慢できなくなったように。「サードアイって、何ですか」
「第六チャクラで」と四十代の女性が言った。眉間のあたりを指さした。「ここにある、見えないものを見る目で」
「見えないものを見る」
「直感とか、洞察力とか。ここが開くと、本質が見えやすくなるって」
健太がしばらく考えた。
「開いてるかどうか、わかるんですか」と健太が言った。
「わからないですよね、普通は」と四十代の女性が笑った。「でも眉間を意識してヨガのポーズをとると、なんか頭がすっきりする気がして」
「気がする、というのが続くんですね」と健太が言った。
「続くんですよ」と四十代の女性が言った。楽しそうに。「気がするだけかもしれないけど、気がすることって、案外大事じゃないですか」
健太が私を見た。
私はグラスを磨いていた。
健太が何か言いたそうな顔をしたが、黙った。
四十代の女性が会計に来た。本をトートバッグに大事そうにしまった。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
女性が出ていった。
健太がカウンターに肘をついた。
「マスターは、チャクラ、信じますか」
「さあ」
「さあって」健太が言った。「毎回さあって言いますよね」
「わからないんで」
健太がため息をついた。それから少し笑った。
「気がすることって、大事ですかね」と健太が言った。
「多分」と私は言った。
健太が笑った。今度は諦めたような笑い方だった。
一人になったのは、それからしばらくしてのことだった。
コーヒーを一口飲んだ。
気がするだけかもしれない。でも気がすることで、体の使い方が変わる。意識を向けるだけで、何かが変わることがある。この店でも、コーヒーを一杯出すだけで、少し顔が変わって帰っていく人がいる。気がするだけかもしれない。それでも、気がすることには、何かある気がした。まあ、わからないのだけれど。




