金曜日の育毛
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# 金曜日の育毛
十一時を過ぎた頃だった。
金曜日の午前は、週の終わりにしては静かだ。午後になると少し賑わう。午前中はまだ、その手前にいる。
窓から入る光が、カウンターの端まで届いていた。
客は一組いた。四十代くらいの男性が三人、奥のテーブルに座っていた。三人ともスーツではなかった。同じ会社の、休みの合う同僚、という雰囲気だった。
コーヒーを三つ出した。
「で、結局どれ使ってんの」と一人が言った。坊主に近い短髪だった。
「リアップ」ともう一人が言った。こちらは髪が薄くなり始めていた。「もう三年」
「三年」
「三年。でも現状維持がやっとで、増えてる感じはしない」
「現状維持できてるなら十分じゃないの」と三人目が言った。こちらはまだ髪が多かった。
「十分なんだけど、欲が出てくるんだよ」と二人目が言った。「現状維持できたら、次は増やしたくなる」
「人間の欲は際限がない」と最初の男が言った。
「お前に言われたくない」
私はカウンターの奥でグラスを磨きながら、聞いていた。
「リアップって、効くの」と三人目が言った。
「効く」と二人目が言った。「ミノキシジルっていう成分が入ってて、それは臨床試験でちゃんと効果が証明されてる」
「臨床試験」
「もともと血圧の薬として開発されたやつで、使ってたら髪が生えてきた人が多かったから、育毛剤に転用された」
「副作用で毛が生えたのか」と最初の男が言った。
「副作用が本業になった」
「それは面白いな」
「ミノキシジルは今、世界中で一番エビデンスのある育毛成分で」と二人目が続けた。「日本だと濃度五パーセントまでしか市販できないけど、アメリカだと十五パーセントのやつも売ってる」
「濃ければいいの」
「濃い方が効果は高いけど、副作用も出やすい。動悸とか、むくみとか」
「髪のために動悸が出るのか」と三人目が言った。
「出る人は出る」
「それでも使うの」
「使う人は使う」と二人目が言った。「それくらいの話であれば使うだろうな」
三人がコーヒーを飲んだ。
「フィナステリドは」と最初の男が言った。
「それも効く」と二人目が言った。「ミノキシジルが外から働きかけるのに対して、フィナステリドは内側から、抜け毛の原因になるホルモンを抑える」
「飲み薬か」
「飲み薬。これも臨床試験でしっかり効果が出てる。ただ副作用で性欲が下がることがあって」
「それは困る」と三人目が言った。
「困る人は困る」
「髪か性欲か、という選択か」と最初の男が言った。
「そういうことになる場合もある」
「どっちを取るかは人それぞれか」
「人それぞれ」と二人目が言った。「俺はミノキシジルにした」
「そっちを取ったのか」
「そっちを取った」
しばらく間があった。
「で」と三人目が言った。「怪しいやつの話もしてよ。さっき言ってたじゃないか、とんでもない話もあるって」
「ある」と二人目が言った。少し楽しそうな顔になった。「まず、馬の油」
「馬の油」と最初の男が繰り返した。
「馬の油を頭に塗ると髪が生える、という話が昔からあって」
「なんで馬」
「馬は毛が多いから、という理屈らしい」と二人目が言った。
「理屈になってない」と三人目が言った。
「なってないんだけど、信じる人がいた。馬の油のメーカーもそのイメージで売ってた時期があって」
「今は」
「今はさすがに育毛効果は謳えない。効果の根拠がないから」
「馬が毛深いのと、人間の頭に塗るのは関係ない」と最初の男が言った。
「全然関係ない。でも信じたかった人がいた」
私はカウンターを拭いた。
「もっとひどいのがある」と二人目が言った。
「もっとひどいの」
「玉ねぎ汁」
三人目が少し顔をしかめた。
「玉ねぎの汁を頭に塗ると髪が生える、というのが、ネットに広まった時期があって」
「なんで玉ねぎ」
「玉ねぎにはケルセチンという成分が含まれてて、それが毛根にいい、という話が一人歩きして」と二人目が言った。「ケルセチン自体は抗酸化作用があるのは本当で。でも頭皮に塗って育毛効果があるかどうかは、全く別の話で」
「塗っても意味ないのか」
「塗っても意味はない。しかも臭い」
「臭いのに塗るのか」と最初の男が言った。
「信じた人は塗った。しかも毎日」
「毎日玉ねぎ臭い頭で」と三人目が言った。
「生活していた」
「家族は何も言わなかったのか」
「言いにくいだろ」と二人目が笑った。「お父さん、頭が玉ねぎ臭いよ、とは」
「言えない」と最初の男が笑った。「しかも本人は信じてやってるから」
「信じてる人に言うのは難しい」
三人がコーヒーを飲んだ。
「わかめの話は」と三人目が言った。
「わかめ」
「わかめを食べると髪が生える、っていうやつ。子供の頃、親に言われた」
「あれも嘘」と二人目が言った。「わかめに含まれるヨードが甲状腺の働きを助けて、代謝がよくなって、結果的に髪にもいい、という話が拡大解釈されたやつで」
「拡大解釈」
「わかめを食べると直接髪が生える、というエビデンスはない。でも昔から言われてたから、みんな信じてる」
「俺、今も食べてるぞ、わかめ」と最初の男が言った。
「食べること自体は悪くない」と二人目が言った。「栄養バランスはいいから。ただ、それで髪が生えるかどうかは別の話で」
「食べても無駄か」
「髪のためには無駄かもしれないけど、体にはいい」
「慰めにもならない」と最初の男が言った。
「頭皮マッサージはどうなの」と三人目が言った。
「これは少し効果がある可能性がある」と二人目が言った。「血行を促進して、毛根への栄養供給が改善される、という仕組みは理屈として成り立つ。小規模な研究で、マッサージを続けたグループで髪が太くなったという報告もある」
「本当に効くのか」
「大規模な臨床試験はまだ少ないから、確実とは言えない。でも完全な嘘でもない」
「玉ねぎより信用できる」と最初の男が言った。
「玉ねぎよりは確実に信用できる」
「比較対象が玉ねぎなのか」と三人目が笑った。
窓の外を、サラリーマンが足早に通り過ぎた。
「一番ひどい話をしていいですか」と二人目が言った。
「していいよ」
「江戸時代の話なんだけど」
「江戸時代」
「当時、禿頭に効くとされていた民間療法があって」と二人目が言った。「蛇の抜け殻を頭に巻く」
三人目が顔をしかめた。
「巻くのか」
「巻く。蛇は脱皮して新しい皮が出てくるから、そのパワーを借りる、という発想で」
「発想の飛躍がすごい」と最初の男が言った。
「飛躍してる。でも当時は信じた人がいた。しかも医者が勧めてた記録が残ってる」
「医者が」
「医者が。真剣に」
「効いたの」
「効くわけがない」と二人目が言った。「蛇の抜け殻と人間の毛根は、何の関係もない」
「でも信じた」
「信じた。それだけ悩んでたんだろうな、当時の人も」
三人がしばらく黙った。
「いつの時代も」と最初の男が言った。「悩みは同じか」
「同じ」と二人目が言った。「江戸時代の禿頭と、俺たちの悩みは、本質的に変わらない」
「それは少し悲しいな」と三人目が言った。
「でも江戸時代より、今の方がちゃんとした薬がある」
「そこは進歩した」
「進歩した。効果もない蛇の抜け殻を巻かなくていい分、幸せだ」
「それが幸せの基準か」と最初の男が笑った。
三人がコーヒーを飲み終えた。立ち上がって、会計に来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
三人が笑いながら出ていった。
一人になった。
コーヒーを一口飲んだ。
蛇の抜け殻を頭に巻いた人がいた。玉ねぎ汁を毎日塗った人がいた。どちらも、真剣だったのだと思う。信じるものがあれば、人は何でもする。それが効くかどうかより、信じること自体に意味があったのかもしれない。あったのかどうかは、わからないけれど。




