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木曜日の逸話

話半分で聞いてください。

# 木曜日の逸話


二時を過ぎた頃だった。


春の午後の光が、窓から斜めに入っていた。昨日の嵐が嘘のように、空は青かった。


客が一組いた。六十代くらいの男性が二人、窓際のテーブルに座っていた。どちらも退職後の、時間のある雰囲気だった。文庫本を一冊、テーブルに置いていた。


笹木さんがカウンターの端で、いつものように本を読んでいた。


私はカウンターの奥で、グラスを磨いていた。


「ナポレオンって」と一人が言った。「小さかったんだろ、背が」


「それ、嘘らしいよ」ともう一人が言った。


「嘘なの」


「百七十センチくらいあったらしくて。当時のフランス人の平均より、むしろ高かった」


「じゃあなんで小さいイメージがあるの」


「イギリスの風刺画が広めたって話があって」ともう一人が言った。「ナポレオンをちびのキャラクターとして描いた風刺画が流行って、そのまま定着した」


「風刺画のせいか」と最初の男が言った。「イギリスは昔から意地が悪い」


「意地が悪いというか、印象操作がうまい」


笹木さんがページをめくった。


「じゃあ」と最初の男が言った。「本当に小さかった有名人って、誰かいるの」


「チャーチルがイメージよりも小さかったって話があるな」ともう一人が言った。


「チャーチル」


「百六十八センチくらいで、ほんの少しだけど当時の基準でも小柄な方で。でも声が大きくて、演説がうまかったから、大きく見えた」


「声で大きく見えるのか」


「見えるらしい。チャーチルは演説の前に、鏡の前で何時間も練習してたって話もあって」


「何時間も」と最初の男が言った。「あの即興っぽいしゃべり方で」


「即興に見えるのが、すごいんだよ」ともう一人が言った。「準備してるのに、準備してないように見せる」


私はグラスを棚に戻した。


百七十センチと百六十八センチではそんなに変わらないと思うが、国や時代背景もあるのだろう。


「チャーチルで面白い話があって」ともう一人が続けた。


「なに」


「晩餐会で、隣に座った女性にひどいことを言われたことがあって」


「ひどいこと」


「あなたは酔っ払いだ、と面と向かって言われた」


「晩餐会で」


「晩餐会で。チャーチルはお酒が好きだったから、かなり飲んでたんだろうな。それで、あなたは酔っ払いだ、と言われて」


「何て返したの」


「あなたは醜い。でも私は明日には醒める」


最初の男が少し間を置いて、笑った。


「うまいな」


「うまい。しかも即座に返したらしくて」


「練習してたのかな」


「さすがにあれは即興だと思う」ともう一人が笑った。


笹木さんが本を閉じた。少し笑っていた。


私はカウンターを拭いた。


「西洋の話で面白いのは」と最初の男が言った。「コロンブスの卵って、本当にあった話なの」


「あれは後から作られた話らしい」ともう一人が言った。「コロンブスが実際にやったわけじゃなくて、同じ話が別の人物に結びついて伝わってたのが、いつの間にかコロンブスの話になった」


「有名人に話がくっついていくのか」


「くっつきやすいんだよ、有名人には。ニュートンのリンゴも、木からリンゴが落ちるのを見て万有引力を思いついた、というのは多少話が盛られてるらしくて」


「多少」


「完全な作り話ではないけど、劇的に演出されてるって話があって。ニュートン自身が晩年に語った話なんだけど、本人が少し盛った可能性もある」


「本人が盛るの」


「自分の話は盛りたくなるだろ」ともう一人が言った。


「それはそうか」と最初の男が笑った。


私は新しいコーヒーを二つ運んだ。


「ありがとうございます」


「ガリレオはどうなの」と最初の男が言った。「それでも地球は回っている、って言ったんでしょ」


「あれも怪しいらしい」ともう一人が言った。「宗教裁判で有罪になって、それを撤回させられた後に、小声でそう呟いた、という話なんだけど」


「小声で」


「小声で。でもその場にいた人の記録に残ってないから、後から作られた話じゃないかって言われてる」


「言ってほしかったから、作ったのか」


「そういうことだと思う。ガリレオらしい啖呵を、みんなが聞きたかった」


「聞きたかったから、あったことにした」


「歴史にはそういう話が多い」ともう一人が言った。「本当にあったことより、あってほしかったことの方が、語り継がれやすい」


最初の男がコーヒーを飲んだ。


「じゃあ、本当にあった面白い話はないの」


「あるよ」ともう一人が言った。「たとえば、アレクサンドロス大王の話で」


「大王」


「アレクサンドロス大王が若い頃、哲学者のディオゲネスに会いに行ったことがあって」


「ディオゲネス」


「樽の中で暮らしてた人で、犬のように生きることを哲学にしてた変わり者で」ともう一人が言った。「アレクサンドロスが会いに行って、何か望みはあるか、と聞いた」


「王様が聞いたのか」


「そう。当時のアレクサンドロスはすでに大国の王で、何でも叶えてやる、という気持ちで聞いた。そしたらディオゲネスが言ったのが」


「何て言ったの」


「そこをどいてくれ。日が当たらない」


最初の男がまた笑った。


「どいてくれ、か」


「日向ぼっこの邪魔をするな、ということで。アレクサンドロスほどの王様に向かって」


「怒らなかったの、王様は」


「怒らなかった。むしろ感動して、自分がアレクサンドロスでなければ、ディオゲネスになりたかった、と言ったらしい」


「それは本当の話なの」


「これは複数の文献に残ってるから、かなり信憑性が高い」ともう一人が言った。「しかも二人が同じ日に生まれて、同じ日に死んだという記録まである」


「同じ日に」


「大王と、樽の哲学者が。同じ日に生まれて、同じ日に死んだ」


しばらく間があった。


「それは出来すぎてないか」と最初の男が言った。


「出来すぎてる」ともう一人が言った。「だから、多少盛られてる可能性がある」


「どっちだよ」


「どっちかはわからない」ともう一人が笑った。「でも、どいてくれ、の部分は本当だと思う」


「どいてくれ、だけは本当か」


「あれは作れない」


二人がコーヒーを飲んだ。


窓の外の商店街を、親子連れが通り過ぎた。子供が風に押されて、よろけた。母親が手を引いた。


「ピカソの話も面白いよ」と最初の男が言った。


「どんな話」


「ピカソが晩年、自分の絵の贋作を見破る名人だったって話があって」と最初の男が言った。


「自分の絵だから当然じゃないの」


「当然なんだけど、面白いのはその見破り方で。贋作を見せると、この絵は私が描いたものではない、とすぐに言う。でも一度、自分で描いた本物を見せたときも、これは贋作だ、と言ったことがあった」


「本物を贋作と言った」


「気が変わったから、という理由で」ともう一人が言った。少し笑いながら。


「気が変わった」


「描いたときと気持ちが違う、だから今の自分が描いたものではない、ということらしくて」


「それは見破る基準がおかしい」


「おかしいんだけど、ピカソにとっては正しかったんだろうな」ともう一人が言った。「あのときの自分が描いたのであって、今の自分が描いたわけじゃない、という感覚が、本当にあったんだと思う」


最初の男がしばらく考えた。


「それはわかる気がする」と最初の男が言った。「若い頃に書いた手紙を読み返すと、自分で書いたと思えないことがある」


「思えないよな」


「あれは本当に自分が書いたのか、という感じで」


「ピカソが言ったことと、同じことだ」


「俺がピカソと同じ感覚を持ってるとは思わなかった」と最初の男が笑った。


「絵の才能は全然違うけどな」


「そこは同じじゃなくていい」


二人が笑った。


コーヒーを飲み終えて、立ち上がった。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございます」


「また来ます」と最初の男が言った。


「お待ちしてます」と私は言った。


二人が出ていった。


笹木さんがカップを持って、会計に来た。


「ピカソの話、知りませんでした」と笹木さんが言った。


「私も初めて聞きました」


「気が変わったから贋作、というのは」笹木さんが少し間を置いた。「本にも似たことがある気がします」


「そうですか」


「書いたときと違う人間になってしまった作家が、自分の昔の本を否定することがあって。あれも、同じことなのかもしれない」


笹木さんが出ていった。


一人になった。


コーヒーを一口飲んだ。


あってほしかったことの方が、語り継がれやすい。


そうかもしれない、と思った。この店に来た人たちが帰り際に話すことも、その日一番よかった話だ。うまくいかなかった話や、途中で終わった話は、あまり口にしない。人が語り継ぐものは、たいてい少し盛られている。それでも、どいてくれ、の部分だけは本当だったりする。どの話にも、そういう核がある気がした。


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