火曜日の朝
箱庭作りに憧れています。
# 火曜日の朝
十時を少し過ぎた頃だった。
春の朝の光は、まだ角度が低い。窓から入る日差しが、テーブルの端まで長く伸びていた。
客はいなかった。
開けて間もない時間だった。豆を挽いた音が終わって、店の中は静かだった。カウンターの奥で仕込みをしながら、窓の外を時々見た。商店街の通りを、買い物袋を持った女性が一人、歩いていった。
ドアベルが鳴った。
五十代くらいの男性が二人、入ってきた。どちらもラフな服装だった。仕事中ではない、休日の雰囲気だった。でも今日は火曜日だった。
「いらっしゃいませ」
「ブレンドを二つ」と一人が言った。
窓際のテーブルに座った。一人が小さなバッグを椅子の横に置いた。
コーヒーを運んだ。
「で、持ってきたの」ともう一人が言った。
「持ってきた」と最初の男が言った。バッグに手を入れて、何かを取り出した。
小さな木の板だった。縦横十五センチくらい。上に、小さな石と苔と、細い枝が置かれていた。
「これ」
「ちっちゃいな」
「ちっちゃいのがいいんだよ」
私はカウンターに戻りながら、横目で見た。
「箱庭、というやつですか」と私は言った。
二人が振り向いた。
「そうです」と最初の男が言った。少し嬉しそうな顔をした。「わかりますか」
「形は知っていますが、作ったことはないです」
「俺も三ヶ月前まで知らなかった」と男が言った。「で、始めたら止まらなくて」
「止まらなくなるの、それ」ともう一人が言った。「どこが面白いの」
「どこが、と聞かれると」と最初の男が考えた。「全部、かな」
「全部じゃわからない」
「石を拾うところから始まって」と男が言った。「川とか公園とか、いい形の石を探すのが、まず面白くて」
「石を拾うの」
「ただの石じゃなくて、苔のついた石がいい。苔のついた石が、水はけのいい砂の上に置かれると、急に本物の山みたいになる」
「本物の山」ともう一人が繰り返した。
「スケールが小さいから、十センチの石でも、景色の中では山に見える。頭でわかってても、見てると本当に山みたいで」
私はグラスを磨きながら、聞いていた。
「苔は、どこで手に入れるんですか」と私は言った。
「拾います」と男が言った。「石と一緒に。公園の端とか、神社の石段の脇とか、日陰で湿った場所にあるやつが一番いい」
「取っていいんですか、公園の」
「少しだけなら」と男が言った。少し間があった。「たぶん」
ともう一人が笑った。
「たぶんかよ」
「大量に持っていくわけじゃないから」と男が苦笑した。「一掴みくらい」
「一掴みがどのくらいかは、人によって違う」
「そこはまあ」
二人がコーヒーを飲んだ。
「枝は」ともう一人が言った。木の板を指さした。「この細いやつ」
「これは桜の枝」と男が言った。「剪定したやつをもらった」
「剪定の桜」
「枯れ枝に見えるでしょ。でもこのスケールで置くと、大木みたいになる。根元に苔を巻いて、少し傾けて差すと、山の中の古い木に見える」
ともう一人が、木の板をテーブルの上で改めて見た。しばらく黙って見ていた。
「言われてみれば」ともう一人が言った。
「でしょ」
「最初見たとき、ただの枝と石だと思った」
「最初はそう見える」と男が言った。「でも少し見ていると、視点が変わってくる」
「視点が変わる」
「小さいものを見てるんじゃなくて、大きい景色の中にいる感じになってくる。俺だけかな」
「俺にはまだわからない」ともう一人が言った。「でも少しわかる気がする」
私はコーヒーを一口飲んだ。
「砂は何を使うんですか」と私は聞いた。
「これは川砂です」と男が言った。「細かくて、水はけがいい。盆栽用の砂を使う人もいる」
「盆栽と近いんですか」
「考え方は近いと思います。でも盆栽は生きてる木が主役で、箱庭は景色全体が主役、という感じで」
「景色全体」
「石も枝も苔も砂も、全部が一つの景色を作ってる。どれかが主役というより、全部で一枚の絵を作る感じで」
私はグラスを棚に戻した。
「難しいんですか、作るのは」ともう一人が言った。
「難しくはない」と男が言った。「でも思い通りにはならない」
「思い通りにならない」
「石の角度を少し変えるだけで、全然違う景色になる。これだ、と思って置いても、次の日見たら違和感があって、また変えて」
「ずっと変えてるの」
「ずっと変えてる。完成、というのが、たぶんない」
「それは面倒くさくないの」ともう一人が言った。
「面倒くさいんだけど」と男が言った。「それが楽しい」
「矛盾してる」
「矛盾してる」と男が笑った。「でも本当にそう。置き直すたびに、また違う景色になるから。同じ石でも、角度が一センチ違うだけで、見え方が変わる」
窓から入る光の角度が、少し動いていた。テーブルの上の木の板に、春の光が当たっていた。苔が少し、光って見えた。
「水やりは」と私は言った。
「霧吹きで、毎日少し」と男が言った。「多すぎても少なすぎてもよくなくて、苔が乾いてきたら足す感じで」
「毎日見てるんですね」
「見ます。朝、起きたらまず見る」
「朝イチで」ともう一人が言った。
「一番光の入りがいい窓の近くに置いてあって。朝の光の当たり方で、毎日少し違う顔になる」
「毎日変わるの」
「苔の色が、時間によって違って見える。朝の光だと緑が深くて、夕方だと少し黄みがかる。晴れた日と曇りの日でも違う」
「同じ箱庭なのに」
「同じものなのに、毎日違う。それが面白くて」
ともう一人が、また木の板を見た。
「欲しくなってきた」ともう一人が言った。
「でしょ」と男が言った。少し得意そうな顔をした。
「石は川で拾えばいい」
「川か公園か」
「苔は」
「一緒に行くよ」と男が言った。「いい場所知ってる」
「公園の、たぶん大丈夫、のやつか」
「そこは別の場所があって」
二人が笑った。
コーヒーを飲み終えて、立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
「また来ます」とともう一人が言った。「今度は俺も作ってきたやつ持ってくるかもしれない」
「持ってきたら、並べて見せてください」と私は言った。
「並べる」と男が言った。「それは楽しそうだ」
二人が出ていった。
しばらくして、木の板が目に入った。
忘れていった。
しばらく見ていた。
春の光が、窓から斜めに入ってきた。板の上の苔に当たっていた。小さな枝の影が、砂の上に細く伸びていた。
見ているうちに、枝が枝ではなくなる気がした。
男が言っていた。視点が変わってくる、と。
少しだけ、わかった気がした。わからないけれど。
ドアベルが鳴った。
「すみません、忘れました」
「どうぞ」と私は言った。
男がテーブルに戻って、木の板を大事そうに両手で持った。
「完成はないんですよね」と私は言った。
「ないです」と男が言った。少し嬉しそうに。「また来たとき、違うやつを持ってきます」
男が出ていった。
一人になった。
完成がない、と言っていた。
コーヒーを一口飲んだ。
毎日少しずつ変わって、置き直すたびに違う景色になる。それを、飽きずに続けている。この店も、毎日少し違う。同じカウンター、同じカップ、同じコーヒーで、来る人によって毎日違う場所になる。完成がないのは、この店も同じかもしれない、と思った。




