金曜日の午後
# 金曜日の午後
三時を過ぎた頃だった。
金曜の午後は、週の終わりの空気がある。客の声が少し軽い。
笹木さんがカウンターの端で文庫本を読んでいた。今日はよく読み進んでいる日だった。
ドアベルが鳴った。
三十代くらいの女性が三人、入ってきた。私服で、どこか出かけた帰りの雰囲気だった。
「いらっしゃいませ」
「ブレンドを三つください」
窓際のテーブルに座った。三人ともほんの少し、疲れた顔をしていた。でも悪い疲れではなかった。
コーヒーを運んだ。
「やっぱり疲れるね、東京ディズニーランドは」と一人が言った。
「疲れる。でも楽しかった」ともう一人が言った。
「毎回思うけど」と三人目が言った。「行くたびに何か新しいことを知る気がする」
「わかる」と最初の女性が言った。「今日だって、あのスペルの話」
「プーさんのやつ」ともう一人が笑った。
「あれ、知ってた?」
「知らなかった」
「私も知らなかった」と三人目が言った。「何年も乗ってたのに」
私はカウンターの奥でグラスを磨きながら、聞いていた。
「プーさんのハニーハントって」と最初の女性が言った。「英語表記がHunny Huntって書いてあるんだけど、スペルが間違ってるんだよね」
「Honeyじゃなくて、Hunny」ともう一人が言った。
「普通はHoneyだけど、あえてHunny」
「なんで間違えてるの?」と三人目が言った。
「クリストファー・ロビンが子供の頃に間違えて書いたから、という設定があって」と最初の女性が言った。「だからQラインで見る本にも、あちこち誤字がある」
「誤字が設定に組み込まれてる」
「組み込まれてる」
「今度乗ったら探してみよう」と三人目が言った。
笹木さんがページをめくった。
「タワー・オブ・テラーの高さの話もしてたよね」ともう一人が言った。
「あれも面白かった」と最初の女性が言った。「五十九メートルなんだよね、あのビルの高さが」
「五十九メートル」と三人目が言った。「中途半端だよね」
「中途半端でしょ。でも理由があって」
「何で?」
「航空法で、六十メートルを超える建物には航空障害灯をつけないといけないから」と最初の女性が言った。
「航空障害灯」
「飛行機のための赤い点滅するやつ。あれをつけると、ディズニーの世界観が壊れるから」
「だから五十九メートルに抑えてある」ともう一人が言った。
「一メートルのために」と三人目が言った。
「一メートルのために、あの高さ」
「それを決めた人は、ちゃんとわかってる」と最初の女性が言った。「世界観を守るためなら一メートルにこだわる、って」
私はグラスを棚に戻した。一メートルのために、というのはなるほどと思った。
「ホーンテッドマンションの待ち時間が、たまに十三分になる話もあったよね」ともう一人が言った。
「あれ、本当に十三分になるの?」と三人目が言った。
「なるらしい。普通は十分か十五分とかになるのに、あえて十三分の表示が出ることがあって」
「十三日の金曜日の十三から来てる」と最初の女性が言った。
「幽霊屋敷だから」
「幽霊屋敷だから、不吉な数字の十三」
「待ち時間まで演出にしてる」と三人目が言った。
「してる。しかも四分とか九分もあるらしくて」
「四と九」
「死と苦」と最初の女性が言った。
三人が少し笑った。
「そこまでやる?」と三人目が言った。
「そこまでやる」
「気づいた人だけが楽しめる演出」ともう一人が言った。
「気づかない人には、ただの待ち時間表示」
「その差が、またいいんだよ」と最初の女性が言った。
コーヒーを飲んだ。
「クラブ33の話、知ってた?」と三人目が言った。
「知らない」ともう一人が言った。
「東京ディズニーランドの中に、会員制のレストランがあって」
「会員制?」
「普通のゲストは入れない。しかも東京ディズニーランドでそこだけアルコールが飲める場所で」
「ディズニーランドでお酒が飲めるの?」
「そのお店だけ」と三人目が言った。「場所はワールドバザールの中にあって、ドアがあるんだけど、知らないと通り過ぎる」
「何回も行ってるのに、全然気づかなかった」と最初の女性が言った。
「私も」ともう一人が言った。「知ってれば探したのに」
「でも入れないから」
「入れないけど」と三人目が笑った。「扉は見てみたい」
「わかる。入れないとわかってても、見てみたくなる」
「次行ったら探そう」と最初の女性が言った。
「探して、眺めて、帰ってくる」
「それでいい」
三人が笑った。
私はカウンターを拭いた。
「プーハントのHunnyって」と最初の女性がふと言った。「英語として間違ってるけど、それがプーさんらしいんだよね」
「らしい?」
「プーさんって、のんびりしてて、ちょっとおっちょこちょいで。そういうキャラクターが書いたスペルミスだと思うと、なんかかわいくて」
「設定を知ると、キャラクターがもっと好きになる感じがする」ともう一人が言った。
「なる」と三人目が言った。「知れば知るほど、また行きたくなる」
「それがたぶん、ディズニーの作戦だよ」と最初の女性が笑った。
「作戦にまんまとはまってる」
「はまってていい」
三人がコーヒーを飲み終えた。立ち上がって、会計に来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
「また来ます」と三人目が言った。
「次はどこ行くの」ともう一人が言った。三人目に向かって。
「ディズニーシー」
「また行くの」
「情報収集してから行きたい」
「作戦にはまりに行くんだ」
「はまりに行く」
三人が笑いながら出ていった。
笹木さんが本を閉じた。
「プーさんのスペル、知りませんでした」と笹木さんが言った。
「私も初めて聞きました」
「Hunny」笹木さんが繰り返した。「言われてみれば、そっちの方がプーさんらしい」
「そうですね」
「正しいスペルより、間違ったスペルの方が、キャラクターに合ってる」笹木さんが少し笑った。「そういうことは、本にもある気がします」
「そうですか」
「正確な言葉より、少しずれた言葉の方が、その人らしいことがある」
笹木さんが会計に来た。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
笹木さんが出ていった。
一人になった。
正確な言葉より、少しずれた言葉の方が、その人らしい。
コーヒーを一口飲んだ。
この店に来る人たちも、うまく言葉にならないまま、何かを置いていく。それでいいと思った。うまく言えないものの方が、たいてい本当のことだから。
Qラインは待ち列のことです。




