木曜日の夕方
# 木曜日の夕方
六時を少し過ぎた頃だった。
扉が閉まった。
最後の客が帰っていった。笹木さんだった。今日は珍しく夕方まで居た。吉村さんと木村さんも一緒だった。三人が同じ時間に揃うのは、あまりないことだった。
少し前まで、賑やかだった。
吉村さんが仕事の愚痴を言い始めて、木村さんがそれに乗っかって、笹木さんが二人を窘めるともなく窘めて、そのうち三人で昔の話になって、気づいたら六時近くになっていた。
内容は、もうあまり覚えていない。
笑い声が何度かあった。吉村さんが珍しく声を上げて笑っていた。木村さんが「そうだったそうだった」と膝を叩いていた。笹木さんが「もう、しょうがないわね」と言いながら笑っていた。
そういう夕方だった。
私はカウンターの向こうで、コーヒーを出したり、グラスを替えたり、それだけのことをしていた。
今は、誰もいない。
カップが三つ、カウンターに残っていた。笹木さんのカップに、口紅の跡が薄くついていた。木村さんのカップは、最後まできれいに飲み干してあった。吉村さんのカップだけ、少し残っていた。いつもそうだった。
片付け始めた。
カップを下げて、カウンターを拭いた。椅子を戻した。テーブルを拭いた。窓の外はもう暗くなっていた。
六時を少し過ぎていた。
閉店は七時半くらいが多いのだが、今日はもう来ない気がした。
根拠はない。ただ、そういう日というのがある。今日はもう、これで終わりだ、という感じの静けさが、店の中にある。長くやっていると、わかるようになる。
豆を挽いた。
誰もいない店で豆を挽くのは、翌日の仕込みのためだ。でも今日は、それだけでもなかった。挽いている間は、何も考えなくていい。音があるから。
豆の香りが広がった。
コーヒーを一杯、自分のために淹れた。
カウンターの中に立ったまま、飲んだ。誰かに出すときより、少し時間をかけて淹れた。急ぐ必要がなかった。
窓の外を、人が通り過ぎた。足早だった。
もう一人、通り過ぎた。こちらは傘を持っていた。雨の予報だったかもしれない。覚えていなかった。
コーヒーを飲んだ。
温かかった。
吉村さんが今日、笑い話の途中で言っていた。この店、来るといつも長居してしまうんですよね、と。困ったような、でも満足そうな顔で言っていた。木村さんが「それがいい店ってことだよ」と言った。笹木さんは何も言わなかったが、少し笑っていた。
私は何も言わなかった。
カップを置いた。
暖簾を外した。ドアの札をひっくり返した。CLOSEDの面が外を向いた。
鍵をかけた。
電気を落とした。一つ、また一つ。奥から順に。最後にカウンターの上の灯りだけになって、それも消した。
暗くなった。
窓の外の街灯だけが、ガラス越しに薄く入ってくる。カウンターの輪郭が、かろうじて見えた。
川崎さんも、こういう夜があったのだろうか。
誰も来ない時間に、一人でコーヒーを飲んで、早めに店を閉める夜が。
わからない。聞いたことがなかった。
上着を着た。鞄を持った。勝手口から出た。
外の空気は、少し湿っていた。やはり雨が来るようだった。
路地に出て、振り返った。
暗い店の窓が、そこにあった。
明日も来る。
それだけのことだ、と思いながら、歩き始めた。




