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水曜日の夕方

祝連載第50話!

最初は何気無い会話を繰り返すだけのつもりでしたが、内容のない会話の方が案外難しくて、調べものをして書くことがほとんどです。


まずは100話を目指しているので、これからもよろしくお願いします。

# 水曜日の夕方


五時を過ぎた頃だった。


春の夕方は、光がオレンジになるのが早い。窓から差し込む色が、午後とは少し違う。


客はいなかった。木村さんが来るには少し早い時間だった。


私はカウンターの奥で、翌日の仕込みをしていた。


ドアベルが鳴った。


五十代くらいの男性が二人、入ってきた。どちらも日焼けしていた。旅行帰りのような、少し上機嫌な雰囲気だった。


「いらっしゃいませ」


「ブレンドを二つ」


カウンターに並んで座った。


コーヒーを出した。二人は受け取って、一口飲んだ。


「いやー、よかったな」と一人が言った。


「よかった」ともう一人が言った。「モナコは、やっぱり違う」


「違う。雰囲気からして」


「カジノ・ド・モンテカルロ、入った瞬間から別世界だった」


「別世界だった」と最初の男が言った。「ああいう場所で、ルーレットを回すと」


「回す意味が違う」


「違う。金額じゃなくて、あの空気で遊んでる感じ」


私はカウンターを拭きながら、聞いていた。


「でも今回、ちゃんと下調べしてから行ったのが良かったと思う」ともう一人が言った。


「そうそう。どのゲームが勝率高いか、事前に調べたから」


「調べないで行ったら、スロットばっかりやってたと思う」


私は思わず聞いた。「スロットは、だめなんですか」


二人が振り向いた。


「カジノの中で、スロットは一番、客に不利なんですよ」と最初の男が言った。


「そうなんですか」


「控除率っていうのがあって、胴元が取る割合なんですけど」


「スロットは控除率が高い」ともう一人が言った。「場所によるけど、一回賭けるごとに、一割から一割五分くらい持っていかれる計算で」


「一割五分」


「百回やったら、理論上は八十五残るくらい」


「それが一番不利なんですか」


「カジノの中では」と最初の男が言った。「逆に一番勝率が高いのは、ブラックジャックで」


「ブラックジャック」


「ルールを覚えて、基本戦略通りに動けば、控除率が一パーセント以下になる」


「一パーセント以下」ともう一人が言った。「ほぼ五分五分に近い」


「カジノのゲームで、それだけ五分五分に近いのは珍しい」


「それで今回、ブラックジャックをメインにしたんですか」と私は言った。


「そうなんです」と最初の男が言った。「でも基本戦略が、最初は覚えるのが大変で」


「大変だった」ともう一人が笑った。「何枚もカードを引くべきか、止まるべきか、場合によって全部違うから」


「ディーラーの見えてる札によっても、変わる」


「変わる。でも覚えてしまえば、あとは機械的に動くだけで」


「感情で動かない、ということが大事で」と最初の男が言った。


「感情で動かない」


「勝ってるときに調子に乗って賭け金を増やしたり、負けてるときに取り返そうとしたり。それをやると、あっという間になくなる」


「それが一番怖い」ともう一人が言った。「ゲームに負けるんじゃなくて、自分の感情に負ける」


私はグラスを磨いた。


「バカラはどうですか」と私は言った。


「バカラも悪くない」と最初の男が言った。「控除率が、バンカーに賭けると一パーセントちょっとで」


「バンカーとプレイヤーがあって」ともう一人が言った。「プレイヤーに賭けると控除率が少し上がる」


「だからバンカー一択で賭ける、という人もいる」


「ただ、バカラは考える余地が少ない」と最初の男が言った。「バンカーかプレイヤーか、ほぼそれだけで」


「ブラックジャックの方が、戦略を考える分、面白い」


「面白い」と最初の男が笑った。「考えることがある方が、楽しいんですよね」


「ゲームとして」


「そう。考えなくていいゲームは、勝っても負けても、なんか物足りない」


夕方の光が、窓の色を変えていた。


「ルーレットはどうですか」と私は言った。


「ルーレットはヨーロピアンとアメリカンで、だいぶ違う」と最初の男が言った。


「何が違うんですか」


「ゼロの数が違う。ヨーロピアンはゼロが一つで、アメリカンはゼロとダブルゼロで二つある」


「ゼロが増えると」


「胴元が有利になる」ともう一人が言った。「ヨーロピアンの控除率が二・七パーセントで、アメリカンが五・二パーセントくらい」


「倍近く違う」


「倍近く違う。だからルーレットをやるなら、必ずヨーロピアンで」


「モンテカルロはヨーロピアンですか」


「ヨーロピアンです」と最初の男が言った。「あの本場の雰囲気で、ヨーロピアンのルーレットを回せるというのは」


「それだけで行った甲斐がある」ともう一人が言った。


「行った甲斐があった」


二人がコーヒーを飲んだ。


「結果はどうだったんですか」と私は言った。


二人が顔を見合わせた。


「トントンくらいですかね」と最初の男が言った。


「トントン」ともう一人が言った。「少しプラスか、トントンか」


「どっちですか」


「どっちとも言える」と最初の男が笑った。


「それは、どちらですか」


「まあ」ともう一人が笑った。「旅費は別とすれば」


「モナコまでの旅費は、別として考えれば」


「別として考えれば」と最初の男が言った。「悪くない結果でした」


二人が笑った。


私はカウンターを拭いた。旅費を別として、という言葉が面白かったが、口には出さなかった。


「でも、それでいいんですよ」と最初の男が言った。少し真面目な顔になった。「カジノって、勝ちに行く場所じゃなくて」


「どういう場所ですか」


「あの空気の中で、あのゲームをする体験にお金を払う場所だと思ってて」


「体験に」


「そう。だから事前に予算を決めて、それを超えない。勝ったらラッキー、くらいの気持ちで」


「それが大事だと思う」ともう一人が言った。「取り返そうと思った瞬間に、楽しくなくなる」


「楽しくなくなるし、なくなる」


「なくなる」と最初の男が笑った。「両方なくなる」


ドアベルが鳴った。


常連の木村さんが入ってきた。


「いらっしゃいませ」


「やあ」と木村さんが言った。カウンターの端に座った。「お客さんがいるね」


「ええ」


木村さんはブレンドを頼んだ。二人の話をちらりと聞いて、窓の外を見た。


「海外のカジノ、ですか」と木村さんが言った。私に向かって。


「そうみたいです」


「行ったことないな、カジノ」木村さんが言った。「競馬は行ったことあるけど」


「競馬は」と最初の男が振り向いた。「控除率が二十五パーセントくらいで」


「高い」ともう一人が言った。


「高いですね」と木村さんが言った。特に驚いた様子もなく。「でも当たったときが、楽しいから」


「それはそうですよ」と最初の男が言った。


「外れてもね、馬を見に行くのが好きで」木村さんが言った。「走ってる馬というのは、きれいなもんで」


「きれいですよね」ともう一人が言った。


「馬を見ながら、外れる」木村さんが少し笑った。「それでいいんですよ、競馬は」


二人も笑った。


しばらくして、二人は立ち上がった。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございます」


「また来ます」と最初の男が言った。「次はラスベガスの話ができるかもしれない」


「お待ちしてます」


二人が出ていった。


木村さんがコーヒーを飲んだ。


「楽しそうだったね」と木村さんが言った。


「そうですね」


「旅行帰りというのは、いい顔をしてる」


「そうですね。でも、旅費は別として、って言ってましたね」


「旅費を入れたら、たいていマイナスになる」


「今は高いですよね」


木村さんがまたコーヒーを飲んだ。窓の外が、暗くなり始めていた。


一人になったのは、それからしばらくしてのことだった。


旅費は別として。


コーヒーを一口飲んだ。


別にしていいものと、別にしてはいけないものがある。何を別にするかで、同じ旅が、黒にも赤にもなる。うまいことを言う人たちだと、思った。


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